すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

二人の詩人の自由は

2015年05月27日 | 読書
 古本屋でめずらしく詩集を買った。
 2冊買った。

 【2015読了】48冊目 ★★
 『一分後の 未来よ もうすぐ 俺が行くで 道あけとけ』(三代目魚武濱田成夫 学研)

 この名前は知っていた。カバー裏にある著者写真を見て、そういえばドラマ『SP』で殺し屋役として出ていた顔だと思い出した。詩は読んだ記憶がない。帯によると「『自分を誉め讃えた詩』だけを書き続ける詩人」だそうな。全編を読みとおすと確かにそう言えるが、5%ぐらいは違う要素があった。例えば「わかってるがな」…母の小言に素直に応えている。


 「俺が決める」ことの意味、姿勢、価値観…それらをこれでもかと語る。それゆえほんの少し漏らす弱さや温かさに魅力を感じる。いい比喩もぽっと出てくる。「月より静かに/月を見てたんだ/俺たちは いっしょに」「あなたの字は/俺には あなたの笑顔のようだ/あえない時はいつもポケットの中に/あなたの字を持っているよ」対象を鋭く見つめる感性。



 【2015読了】49冊目 ★
 『会社の人事 中桐雅夫詩集』(中桐雅夫  晶文社)

 この名前は知っていた。学生時代、ちょっぴり詩をかじっていた頃、目にしている。そして晶文社というのも懐かしい。詩論や音楽に絡んでずいぶんと買っているはずだ。生まれ年から言うと戦中派として称していい詩人だろうか。読みだしてすぐに気づいたのは、最後の一編を除いた全編が14行詩。発表誌に行数指定があったらしく、そのためと書いている。


 「年をとったせいか、形の定まったのはいい、と思うようになったらしい」とあとがきに記されている。なるほど、一つの形式があることは、その中に自分の思考を閉じ込めねばならないわけだが、技術的な点とは別に、作る過程において題材の選定や対象となる読み手の絞り込みが図られるのかもしれない。それは自分を宥めているのか、深めているのか。




 対照的な二人の作品に触れると、改めて「詩とはなんぞや」という問いがわく。花鳥風月はさておき、自分の価値観や主張を詩という形で発表するとすれば、形式遵守や形式破りそのものが表現の一部であることは疑いない。結局「自由」をどのレベルで考えているかなのか。詩人の意図とは外れるが、中桐雅夫の一行が沁みる。「自由はいま、牢獄の中にいる。」