すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

言葉を知って、貧しくなる

2015年05月04日 | 読書
 【2015読了】41冊目 ★★★『紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす』(武田砂鉄 朝日新聞社)

 このライターをネットで知ったのはいつだったろうか。
 メディア、芸能から時事問題まで結構幅広く、視点が今までにない感じをうけたので、気になる批評家の一人となった。
 言葉に対する敏感さに惹かれたと言っていいのかもしれない。

 この新刊もまさしく言葉へのこだわり、それは私達の住んでいる社会、日常の「質」というものへ目を向けさせてくれる。

 新聞を読んだり、テレビニュースを観たりしているときに、ああこれって取材なしでも書ける言える言葉だよなあと思うことがある。
 「参加者は口々に~~~言い合っていました」「近所の人たちは、〇〇事件に対する不安を隠しきれませんでした」「今年の桜も見ごたえがあり、花見客は満足そうに青空とのコントラストが映える木々を見上げていました」等々

 まあ、常套句ということであろうが、そういう使い方がどんどんエスカレートして、結局予定された言葉、準備された考えしか出てこない世の中になったら、非常に怖い。

 著者の名付けた「紋切型社会」にこの国がなりつつあることは、各章のタイトルとして取り上げられた20の言葉を典型として証明されている。
 それらの言葉の中には、事実や真実を伝えているものもある。しかし繰り返すうちに空虚になったり、デコレーションを施されたりしながら、人々の意識の中に棲みついて、思考を鈍くさせるもとになっている。

 テレビ局や雑誌社、そして著名な作家たち(伊集院静、糸井重里というマイフェイバリットも含まれている)のつかう言葉を、ズバズバと斬っていく。
 30代の持つ機敏さや鋭角さゆえにと書けば、これも紋切型と斬られるとは思う。しかし、おそらく50代ではこんなふうには書けない。


 傷口に沁みるような刺激のある文体を書き留めておこう。

 体を現在に預けていない人は今を語るべきではない。自分と異なる人と対峙しない言論など言論ではない。(p066)

 良し悪しを決める時に、良しを知って悪しとして、悪しを知って良しとするように心がければ、肯定言語も否定言語も浮つかないはずだ。その取り組みを怠り過ぎている。(p082)

 人の気分をうまいこと操縦する目的を持った言葉ではなく、その場で起きていることを真摯に突き刺すための言葉は常に現代を照射し続ける。(p282)



 それにしても、アマゾンの奥地に暮らす少数民族ピダハンの言語に関する情報には驚いた。
 「質問」と「宣言」と「命令」の表現しかないというのだ。

 共感とか感謝とか、相談とか謝罪とか、しなくとも生きていける世の中とはどんなものだろう。
 想像がつかないのは言語の貧しさか。