すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ぼくの林檎も紅玉だ

2015年05月28日 | 雑記帳
 三学期に卒業する学年に『りんごかもしれない』を、パソコンに取り込んだ形で読み聞かせた。せっかくPPTの形にしたのだから、もう一つはしたいなあと思っていた。今年の読み聞かせ活動のスタートは4年生にあたったので実行した。中学年はぴったりと思っていたことが見事にはまり、明るい笑いが響いた。


 場を考え、実際のりんごを買ってきて、テーブルに置いてみた。そして図書室にある「りんご」関係の絵本を少し紹介したいと思った。結局探せたのは2冊だけ。福音館書店の『りんご』(叶内拓哉)というりんご園の1年間の記録、そしてもう1冊は、『紅玉』(後藤竜二)という北海道のりんご農家のある物語だった。


 戦争から解放された人々が希望を持ってりんごを作っている村へ、ある日群衆が押し寄せ作物を略奪しようとする。それは川向うの炭鉱で働く朝鮮、中国の人々だった。悲惨な実態を知る「父」であったが、意を決して懇願する。結果、静かに去っていった人々…その後ろ姿をいつまでも目に浮かべ続ける「父」の話だ。


 「紅玉」と名付けたのは、りんごの品種がそれだったからだけではない。赤く硬く酸っぱい味のする品種しか作られなかった時代、貧困な人々にとっての価値の高さ、戻したときの磨かれたような赤い色…それらの象徴か。昨日読んだ詩人中桐雅夫の作品にも登場する。中桐は「ぼくの林檎」と題して、紅玉を書いた。


 恥ずかしながら、紅玉を登場させた脚本を書いたことがある。卒業祝賀会用に、ある理科教師に言わせた言葉だ。まったくふざけたお笑い話だったが、紅玉を出したインパクトは我ながら好きだ。毎年、探し求めて数個は口にしている。とびきり美味いとは言えないが、舌にあう。小さくとも赤くあれ、酸っぱくあれ。