すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

心のかすかな光を信じて

2015年05月21日 | 雑記帳
 今年の読書の一つとして再読を掲げてみたが、まだ8冊でなかなか進まない。
 一度読んでいるので、我ながらちょっと不真面目になっているのではないか…そんな心持ちに、喝を入れてくれるような言葉に出会った。

 学校の書棚で見つけたある台帳に、こんな名言が書かれてあった。

 古教照心

 手元の辞典には載っていないが、だいたい想像はつく。
 ネットを調べてみると「安岡正篤」へ行き着いた。

 正式には「古教照心 心照古教」である。
 文字通り「古い教えが心を照らす」だと思っていたが、少しばかりニュアンスは違うようだ。
 長いが、ホームページから、その解説を引用する。

-----------

「古教照心ではまだ駄目である」
本の読み方にも二通りあって、一つは同じ読むと言っても、
そうかそうかと本から始終受ける読み方です。

これは読むのではなく、読まれるのです。書物が主体で、自分が受け身になっている。
こちらが書物から受けるのである。受け取るのである。つまり吸収するのです。
自分が客で、書物が主。英語でいえばpassiveです。
もっと上品に古典的に言うと「古教照心」の部類に属する。

しかしこれだけではまだ受け身で、積極的意味に於て自分というものの力がない。
そういう疑問に逢着して、自分で考え、自分が主になって、今まで読んだものを
再び読んでみる。今度は自分の方が本を読むのです。

虎関禅師は「古教照心、心照古教」と言っておるが、誠に教えられ考えさせられる。
深い力のある言葉です。自分が主体になって、自分の心が書物の方を照らしてゆく。

「本当の読み方は心照古教でなければならぬ」
本というものは読まれたのでは仕様がないし、読まされたのでは大した力にはならぬ。
(中略)
そうではなくて自分から読む。そこで初めて研究というものになる。

それによって得るところは自分の生きた所得になる、活きた獲物、活きた知識になる。
知識にも色々あって、死んだ知識や機械的な知識もあれば、断片的な知識や雑駁な知識もあるし、反対に、生きた知識、統一のある知識、力のある知識もある。
しかし心照古教にならって、自分が研究した知識でなければ、これは生きた力にはならない。
受け身になって、機械的に受け取った吸取紙的知識では、本当にこれはなんの力にもならい。
(『活学』第一篇「活学とは何か」による)

-----------

 この後半部に込められた意味の深さを考えてしまう。

 「自分の心が書物を照らしてゆく」…これはある一定の境地に立てないと無理なのかもしれない。
 しかしまた、どんな稚拙な読み方であろうと、心はかすかな光を発しているはずで、そこを注意深く見ていくことで、どんな書物からも生きた知識は手に入れられるのではないか。

 虚心坦懐、次の一冊を手にしよう。