すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

美しくないけれど眩しいこと

2015年05月09日 | 雑記帳
 40歳を過ぎたばかりの自分が、テレビ画面に映し出されている。

 厄払いのときのビデオだ。
 実行委員長を仰せつかり、最初の挨拶をしている。
 体型はあんまり変わっていないな。確か少しは痩せたはずだが…。
 大きな眼鏡をかけている。他の奴も似たようなものだ。時代を感じる。

 肝心の挨拶の中身だが、片手にある冊子を持っている。
 中学校時代の学校文集だ。
 少しバラけてきていて、大きめの書類とじで挟んでいるところがなんとも言えない。

 「文集を書棚の奥から引っ張り出して、読んでみました。現職の教員として評価してみると…」などと、少し笑顔をつくりながら、気取った言い方をしている。
 その後の一言が、なんと衝撃的だ。

 「美しくない」

 えっと思った。

 続けて言うには、
「最近の中学生であれば、こんな形では書きません。教師との衝突や学校への批判を、そのまま載せることはありません。対立や葛藤があったけれども、そこを乗り越えて学んだこと、向上できたことを書くでしょう」

 こんな調子で語っている。
 ああ、なるほど。そう言えば正月に、文集のことについて書いた内容に近いのかもしれない。

 「しかし」と続けて、こんなことを言っている。

 「美しくないけれど、輝いているように思う」


 当事者がそう思うのはごく自然なことだ。
 わかりきっている自己賛辞とは思うが、それでもなお、それらの美しくない、ざらざらしていて、とげとげしている文章には、やはり輝きがある。
 いや、一種の眩しさかもしれない。
 それは、先に書いた時のタイトル「封じ込められなかった日々」に象徴されることだ。

 今の美しい文章を書く子たちが、誰に封じ込められているかは言わないけれど、何十年後かに、輝きや眩しさを感じられないとしたら、それはある面では不幸なことだ。


 …くだらぬ心配か。

 人は誰でも、若いときの自らの未熟さをそんなふうに感じ取る存在であり、文章の背景は簡単に読み取られてしまうのかもしれない。