すぷりんぐぶろぐ

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まず、自分の「未来のカタチ」

2015年05月11日 | 雑記帳
 運動会後の打ち上げで、何かの拍子にゲームの話題になった。先日ある雑誌で見かけたので「ボードゲームで枯山水のゲームがあるんだってねえ」と口を開いたら誰も知らなかった。その中身はともかく、すぐにスマホで調べる人が目立つようになった。グーグルの音声検索ももうTVで見かけるだけではない日常だ。


 雑誌『pen』が、「すぐそこにある、未来のカタチ」という特集を組んだ。ロボットを初め電子機器、技術の進歩について記事にしている。鉄腕アトムの時代に育った者としては、まだある意味のドキドキ感もあるが、使いこなせるのかという不安もまた同時に湧いてくる。個人としてもそうだが、社会的にもどうかだ。


 ドローンの問題も典型的だと思う。特集でもその点はフォローしていて「いいことばかりではない?技術進化の光と影」と1ページを割いている。産業革命時の社会的な影響例とは簡単に比較できないが、本質的な面で人間の働きの質の変化は誰しも感じているはずだ。要はそれが人間を幸せにするかどうかである。


 例えば、自動車のAT化が進んだとき、今だと可笑しい話だか結構抵抗があった。慣れない理由の一つに「マニュアルでないと運転している気がしない」という点もあったはずだ。自分の中の操作感が満たされないということか。自動化は全てそういう部分を背負う。操作感を少なくすることが便利なのだから当然だ。


 運転であれ検索であれ掃除であれ、自分の頭を使い身体を動かす価値は、きっと何かに重きを置いているからだ。それを機械に身を任せると、ラクであることは確かだし、時間効率も高くなる。しかし、結局のところ手段の一つとしての認識が薄いと、自分が希薄になる。ナビに頼るのは限定された空間だけでいい。