すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

またことばのことばかり

2013年10月11日 | 雑記帳
 うつらうつらと眠れないときに、ふっと「そこそこ」という言葉が浮かんだ。この前「なかなか」のことについて書いたせいかもしれない。「そこそこ」も使い方が似ている気がする。しかし「なかなか」は「中中」で意味は通るが、「そこそこ」は「底底」ではあるまいな。もしそうだったら、結構面白い飛躍だ。


 調べたら、最初の「其所其所」は別の意味が載っていて、それ以外はひらがな表記。「底」ではない。類語辞典では三つのカテゴリーに属していてなるほどと思った。「間に合う」「ありふれる」「粗い→大まかな」である。結局「其所」という「場所を明示しない」に通じていると判断できる。そこそこわかった。


 授業中にこう前置きして発言した子がいた。「思い込みかもしれないけど…」。ううむ、新種だな。この手の王道!は「合っているかどうかわからないけど」。または「自信はないけど」。正答追求型の学習の中で自分の意見が否定を受けた際の緩衝的言辞だ。それにしてもこの「思い込み」は自己肯定感が強くないか。


 自分でも迷っている、また別の考えもあるにはある、といった逃げ方ではなくて「もうすでにこうだと固く信じている自分なのだけれど」という前置きなのだ。正解がどうあれ自分には責任がない、思い込ませた何かが原因なのだ、とするニュアンスが感じられる。そう簡単に受容しないぞ,そんな心根もあるような。


 一枚のポスターの前で足が止まった。ある学校の生徒募集である。キャッチコピーとしてこんな言葉が…「○○○○でなければ、叶えられない夢がある」。どこかの専門学校のCMのようだ。しかし、公立学校がこんなこと言っていいのか。そこでしか叶えられない夢って何ですか、と訊きに説明会へ行きたくなった。

学校から見放された人の学歴

2013年10月10日 | 読書
 高峰秀子には学歴がない。

 新潮社の『波』に斎藤明美が連載している「高峰秀子の言葉」のなかの一節である。
 連載も二十七回目であり、高峰の人生もある程度把握しているので、そりゃそうだと思いつつ、少し不思議な感覚も覚える。

 あの『二十四の瞳』の先生役のイメージが強いからか。
 また、「高峰秀子の言葉」が主たるテーマにされるほどインパクトの強い言葉を吐いている文章を読んでいるからか。

 いずれにしても、子役時代から大勢の親族を養うために働かなければならなかった高峰の現実は、冒頭の一言に集約される。
 松竹から東宝へ移籍した折に、わずかな期間女学校に通えることを「叫びたい思い」で迎えた彼女は、結局働くためにすっぱりと通学を断念することになる。
 逡巡することなく決断した彼女は、のちにこう書くのである。

 私は一個の商品であった

 十四歳の哀しい記憶を、高峰はそうふりかえったという。
 そして、次のようなことを誓ったと記してある。

 学校へゆかなくても人生の勉強は出来る。私の周りには、善いもの、悪いもの、美しいもの、醜いもの、なにからなにまでそろっている。そのすべてが今日から私の教科書だ

 ここを読み、「二十四の瞳」に出てくる川本松江、まっちゃんと言われる子の存在を思い出す。
 小学生で奉公に出なければならなかった松江に、大石先生はそんな言葉はかけられずに、ただ泣くだけだったように思う。

 フィクションではあるにしても、やはり学校という施設は貧しさで覆い尽くされた時代にあっても、結局のところ、善いもの、美しいものを目指す場であった。
 悪いもの、醜いものが傍にあったとしても、見て見ぬふりができる安全な場であることに違いない。
 そして教員はそのことを意図的に推し進めていく存在にほかならない。
 飛躍するが、地球上にまだ存在している学校という施設に通えない子たちにとって、いわば憧れの場にいる私たちが忘れてはいけないことだ。


 さて、高峰秀子の例は、現代日本では、特殊な、例外的なことと言えるだろう。
 ただ、学校から見放された人は、自分で周りのすべてを教科書にするしかない。
 それを貫徹したからこそ、高峰のような人間性が出来上がったのだろう。
 教育は自分で求めてこそ、強く発現する。それこそが学びであり、学びの歴史と言えるのではないか。

 結婚してから夫の松山善三に割り算と引き算を習ったと、笑顔で語った高峰の本当の「学歴」の豊かさを、誰が疑うことができるのか。

本日,マラソン大会あり

2013年10月09日 | 雑記帳
 台風の接近が予想されていたので、また空を見上げつつのマラソン大会となった。去年は天候が悪く、落雷・突風・強雨の三点セットが来襲し、途中で切り上げた苦い思い出がある。しかし、今年は雨雲の進路は微妙にずれたらしく、プログラム通りに実施できた。外での学校行事は自然恃み。お天道様ありがとう。


 二年続けて開会式の挨拶は短縮バージョン。「マラソンという名前の由来」から話し始める予定だったが、進行優先でそこに触れないこととする。ギリシアとペルシアの戦争、戦勝を伝えるためマラトンという場所から約40km離れたアテネに走る兵士…と流して、ではこの大会の目的は、と問いかける構成でした。


 マラソンは、得意な子や身の軽い子らにとっては、そんなに苦にならないかもしれないが、やはり推定1割の子ども(根拠なし)にとっては、逃げたい気持ちがわき上がってくるだろう。どこの学校でも見られる風景であるが、本日もスタート200M付近で私を見て「先生、胸が苦しい」と訴えてくる男児1名あり。


 見極めをするため「そうか」と顔をのぞき込み「我慢できなかったら、少しスピードゆるめて」と胸にそっと手をあてたらすぐに復帰。速くはないけれど駆けている姿を見て安心した。スタートでつまずいた女児もしばらく泣きやまなかったが、担任の励ましでゴール。嫌な辛い出来事を、「強さ」の体験にしたい。


 閉会式も終わり校舎へもどる道々、話しかけてくる子あり。「先生も来年は走ってみるといいよ。結構きついから」。傍から「そうだよ」と同意する子も寄ってくる。「大人もみんな、子どもの頃にマラソンを走って大きくなったんだよ」と返すと、ふうんという生返事。弱音も言い訳もいい。ただ走ればそれでいい。

言葉はズルくないのだ

2013年10月08日 | 読書
 『ズルい言葉』(酒井順子  ハルキ文庫)

 この本は、文中にある言葉を借りると「言葉が慣用句と化した瞬間」を鮮やかに切り取って見せている。また、その理由を考察しながら日本人の特性について述べている。なかなかの内容である。

 と書いた「なかなか」も取り上げられている。
 結構使っているかもしれない。
 著者には失礼だけれど、「なかなか」は新明解によると「予期していた以上で、軽視しがたい」ということだ。
 従って、この「なかなか」の程度は評する者のレベルによって差が出てくるわけだ。
 私ごときの「なかなか」では程度が知れるか。


 「一定の」という表現にもメスが入れられている。
 そういえば「一定の成果」などという使い方は、教育界でも見られるではないか。
 「十分ではないがそれなりの成果」という意味は、実に使いまわしがいいのかもしれない。
 ところがよく考えてみると、「十分ではない」ということの幅はあまりに広すぎるのではないか。極端にいえば、1から99まで該当している。
 となると、実は何も言っていないことに限りなく近いとも言える。
 なぜ、この表現が政治の場で多いかは考えるまでもないだろう。


 そうだよなあ、と思ったのがスポーツ選手の多用する「次につなげる」。
 競技で勝っても負けても出てくる表現だ。
 競技者としては基本と言えば基本だし、だからこそあえて語る必要はないのかもしれない。
ただ例えば日本代表がかつて持っていた責任感、悲愴感によってネガティブになるよりは、ポジティブに言い切った方がいいということだろう。
 従って、この常套句を使う前の言葉が、一流のアスリートであるかどうかを見極めるポイントであることは、多くの人が知っているとおりである。


 「ママ」という章に、小さい子供が自分のことを「ハルちゃん喉がかわいた」のように名前そのもので呼ぶことも取り上げられている。
 小学生でも低学年では数多く見られる例だ。
 自分への呼称をそのまま使っているのは幼さの証拠だと単純に考え、あまり気にも留めなかったが、著者はこんなふうに述べている。

 日本では最も小さな子供であっても、自分のことを「自分」であるとは考えずに、役割として認識しているということではないかという気がするのです。

 役割とは、つまり家族内での役割ということ。
 愛すべき存在としての子や孫の名前があり、その呼称自体が自分の役割だと感じていれば、それに伴う扱い方によっていろいろな要素が強く刷り込まれていくのかもしれない。
 その要素の中には社会化や集団化と相容れないものは必ず存在する。
 まず、家族内における呼び名から脱することが自立の一歩か。


 当たり前のことだが、決して「言葉」はズルくはない。
 ズルいのは、それを使う人間の方だし、無限に慣用句を作り、そして消し去っていく私たちの関係づくりの気持ちそのものだ。

食についてさえずる

2013年10月07日 | 雑記帳
 土曜朝、昨夜の酔いが少し残る身体で朝カレーを食べてみる。そういえば宴席でカレーの話題が出た。「自分の家のカレー」は旨い、は当然だと思うが、あまり変化しない、という論も頷ける。好みに合わせて作るだろうし、冒険して失敗したら落胆が大きすぎるからか。そういう意味では偉大なる保守的な料理だ。


 日曜早朝、近くの山林へいって茸の初収穫をした。スギヒラタケ…十年ほど前から見捨てられた(笑)状態の茸であるが、我が家ではこれが秋の訪れを告げる食べ物の一つである。十月二週目で秋の訪れも変な気はする。しかし自然の恵みは正直である。量は少ないが、味噌汁にしてしみじみ味わう。秋が来たと思う。


 秋と言えばサンマ。先月末に気仙沼で行われた「市場で朝めし」というイベントに参加し、久々に炭火焼のサンマを賞味した。近くのスーパーで買っても鮮度は違わないだろうから、あとは焼き加減だ。腸の苦味の違いにちょっとびっくりする。一番食べづらい箇所の旨みを引き出すのが、料理の本質かもしれない。


 勤務校で今週から「漆器給食」が始まった。漆器づくりが盛んな地域ならではの企画である。産地として愛着を持ってほしい、幼い頃の使用を大人になってからの需要に結びつけようという願いがある。目で見る、手で持つ、口に添える…毎日何気なく繰り返すそういう動きの中で、積もっていってほしい感覚がある。



途方もなく撮り続ける

2013年10月06日 | 雑記帳
 今月号のBRUTUSの特集は「ほめられる写真。」。一億総カメラマン(表現が古いか)のような時代,今この瞬間にいったい何人の人がシャッターを押しているだろうか。そしてプロでもアマでも思いは一つ。それは「ほめられたい」だ。誰にほめられたいかが大きい人も,何によってほめられたいか考えている人も。


 「撮るのが先か,コンセプトが先か」…そんなことはプロとか,熱心な趣味人しか考えないだろう。でも遊び方としては実に面白い選択だ。一日中,とにかく撮りまくってその中から選ぶ,その状況を思い起こしたり,想像したりする。また逆にテーマをしっかり決めて,探す,うろつく,待つ…これもまた試行錯誤だ。


 瀧本幹也というカメラマンが,撮影の方法2種類についてこう語る。「一つは,獲物をねらって文字通りSHOOTING(撮影)する。もう一つは,釣りのように糸を仕掛けて,いい獲物がきたら釣り上げる」いずれにしたって,どれだけの時間をかけることができるかが勝負。写真を目の前に,それを見通せたら凄い。


 「ほめられた」ということは,何かが伝わったことと言える。自分の心が動かされる瞬間に共感,同調してくれたということだ。川内倫子は「みんなが持っている共通意識にタッチしたい」と書く。対象はなんであれ,それを意識的にできるということは,途方もなく撮り続けることなのかなあ,と素人なりに考える。


 人物写真に挑戦してみたいなあ。対象物は身の周りにあふれているが,職務との混同はご法度。このご時世の制約の大きさについていけない。まあ風景,植物などが無難な線と決めて,たまに別ページにアップする。気軽に撮っていても,向き合う一瞬を積み重ねていけば,いつかはほめられる写真がとれるだろうか。

積極的に姑息であれ

2013年10月05日 | 読書
 『お前なんかもう死んでいる』(有吉弘行  双葉文庫)

 いわゆるタレント本である。興味ない分野だが、どこか気になるところがあって買い求めた。数年前からテレビバラエティに出る頻度がずいぶん高い。独特の毒舌は、今までのどのタレントとも違うような気がして、妙に笑いを誘う。猿岩石時代の人気絶頂期、凋落していく時期、そして今。彼の中では一貫している。


 その一貫性は何かと言えば「姑息」だ。大半がいわゆる貧乏自慢といっていい内容だが、現在ある程度の収入があるから振り返って書いているというニュアンスではないのだ。人と金との関係を結構シビアに語っている。貯金を食い潰していく過程における金額の目安とか人とのつきあい方、姑息であることの実録だ。


 本の中には一度しか出てこない、この「姑息」という言葉。妙に気になってきた。「姑」とは「しゅうとめ」の意味が一般的だが、広辞苑には「とりあえず、一時」という意もある。漢和を調べると「そのまま」という意味も載っている。「息」は「呼吸」であるから「生きる」につながる。姑息は「そのまま生きる」だ。


 「一時の間に合わせ・その場のがれ」という以上に、何か卑怯なイメージがついてまわる言葉だ。きっと日本人の好きな前進、計画性、正直等々に比べられて、そういう立場に置かれたのだと思う。しかし言うなれば、現状維持、または被害を最低限にくい止めたい防御…そんな気持ちを今の世の中、誰が非難できる。


 強くあれ、明るくあれの方向は認めるが、必ず存在する陰の部分からは目を離せない。だから、「その場のがれ」と言われてもいい。「一時しのぎ」と非難されてもいい。その姿を自分で意識しつつ「そのまま生きる」ことは悪くはないと思う。もはや生きる知恵というより信念と呼んでもいい。積極的に姑息であれ。

駅から駅へと口走る

2013年10月04日 | 雑記帳
 『駅 STATION』という映画があった。高倉健主演、倉本聡脚本、降旗康男監督という強力ラインナップの北海道コテコテ?の作品だ。観た記憶はありわずかな断片も覚えてはいるが、「駅」の使われ方には全くピンとくる所がない。STATIONの英語表記に訳があるだろう。場所とか位置とかという広義の意味か。


 竹内まりやの名曲『駅』は、単純に言うと昔の恋人を駅で見かけたという話だが、これには「駅」が人々の行きかう場所、さらに起点、中継点、終点といった比喩がイメージされると思う。また移りゆく存在としては人間に対比されて、そこにいつもある動かないものの象徴とも読みとれる。「駅」は深い言葉だ。


 高校2年生までは電車通学だった。交通上の通過点であるしそれ以上に人が集まる役割を持つから、いろいろな感情が渦巻く場であったと思う。地方の鉄道が徐々に姿を消していくのはやむを得ない。しかしそういう場の消失によって失われていくものをどう移行させるのか。「道の駅」では荷が重くないか。



 さて「道の駅」は行政主導で始められ,なかなか的を射たネーミングだと思う。ただ便乗表現が目に余る。「町の駅」や「街の駅」はわかる。「花の駅」これも公園ぽいので許せる。「山の駅」や「川の駅」も想像はできる。しかし先日見かけた「石の駅」…えっ,ただの石材店である。「墓の駅」でないだけましか。


 あるかもしれない「菓子の駅」「酒の駅」「米の駅」…「駅」という語には,ここで降りるんだよ,寄っててね,という連想が働くので,つけやすいのだろう。専門店のイメージには良く合う。そのうちに「心の駅」とか「喜びの駅」とか宗教じみたものも出てくるか。欲しいのは「俺の駅」なんだ,と突然終着駅。

東京バラード,あれから…

2013年10月03日 | 教育ノート
 昨日の校内研修で使った教材の一部は、自実践の焼き直しである。それも22年前のものである。古すぎるだろうと思いつつ、選んでしまうところに齢を感じる。しかしやはり「詩の伏字クッキング」は数少ない実践のなかでは貴重に思っている。「まるかじり」は正統派、王道。やっぱり自分は変化球主体タイプかな。


 この実践を推進していくとき、頼りにしたのは青木幹勇先生の「欠落部を、埋めることは、この教材を読むこと及び、理解することと極めて密接な関係にある」という文章だ。その観点で教材を集め、選定を心がけたつもりだ。まとめた古い資料を見直してみると、今でも使えそうな気はする。どう展開していくか。


 「授業づくりのためのパターン」はこう作った。「伏字を予告する」「伏字を気づかせる」「展開法」の三つに分類。「予想」を経てから「原文を発表する、しない」と区分しているのは担任ならではの発想か。授業外での興味づけ、読書を意識していた。今回も作文に結びつけながら、読書への方向づけは鍵となる。


 サークル主催で自主的な研修講座を開いたことがあった。参加者対象に教材として提示したのは谷川俊太郎の詩。これは伏字にしたら多様な解釈(予想)が出てきて面白かったなあ。「東京では □は/しっかり目をつむっていなければ 見えない / 東京では □は/しっかり目をあけていなければ 見えない」


 自分でもそこに当てはまりそうな語句を入れてみて、想像を楽しんだ。なかでも気にいっているのは「女」と「男」。順番をどうするかでもいろいろ解釈が生まれる。「夜」と「朝」なんていうのもまあまあかな。「心」と「悪」ではダイレクトか。原作を知りたい方は「東京バラード」で検索すれば、あるはず。

週末の言葉を書き留める

2013年10月02日 | 雑記帳
 先週の研修の講師は、さすが中央の起業家然としていた。企業研修やビジネスマン対象セミナーがほとんどだと言う。演習の最初は、自宅から会場への移動だったが、参加者全員が自家用車一本になってしまい、この現実にさすがの講師も「これは今後東北では使いません」と弁明。日本の現状の一端が見事に見える。


 知的生産を支える図解について、基本的なパターンから活用法までそのメリットを熱く語ってくれた。最後の演習で「半沢直樹」を例に出題するなど楽しめる要素もあった。図解は一種の勉強法であり、十分にその価値を説きながら、講師はこう締め括った。「モチベーションをキープするのは手段ではできない


 一年半ぶりの志の輔。まくらで語った談志のエピソードには笑った。期待して入ったうどん屋が,意に反してまずい。二人とも食べ残す。そこへ色紙を持ちサインをねだる店主。何か一言と要求する。志の輔ははらはらするが,談志は筆をとって書く…「まずくても,食え」。これでこの店は一時有名になったそうだ。


 二席目は「八五郎出世」だった。ずいぶんと脚色されているような印象だ。それにしても緩急自在の流れに惹きこまれる。談志の言う「人間の業」のような姿が沁みてくる。八五郎の無茶ぶりを繰り返し制する家老の三太夫に放つ,八五郎の一言は爆笑しつつ,胸に刺さってくる。「あんた,生きてて楽しいのか