すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

若さへの期待,古さの価値づけ

2013年10月21日 | 雑記帳
 隣市の市長選が行われ、三十代の新市長が誕生した。詳細は知らないが大方の予想を覆しての当選のようである。選挙は外部からは計り知れない要素を持つものだが、いずれ「若さ」に期待する気持ちが後押ししたことは間違いないだろう。ただ「若さ」が課題を解決するメリットになり得るか、というと別問題である。


 抵抗勢力という言葉を、かの小泉元首相はうまく利用した。マスコミも使いやすい言葉だったのだろう。一方に正義があり、その考えに異を唱える者を大きく括った。そして戦いの姿勢を見せて味方を増やす。この手法が新鮮だったゆえに選挙民は動いた。しかし今振り返って、失くした価値に嘆いている民も多い。


 私が「若さ」に期待したいのは、行動力はもちろんだが、フラットな目線での語り合いから発想していく柔軟さだ。施政者となれば、その構えだけで通せないことなど十分承知しながらも、やはりそこに期待したい。ただ、スピードという要素が重ねられる昨今、困難さは何倍にも膨らむ。その現実にどう向き合うか。


 同じく隣市のことで面白い記事を目にした。明治後期、奥羽本線の駅が設けられた十文字地区。隣り合う増田地区はそれ以前から活発な商業活動で栄えており、富が集積されていた。しかし鉄道開通に伴って、十文字側の経済活動は活発になり急成長をとげた。反面増田は停滞し、店舗など改築もなく留まったという。


 そして今、歴史の巡り合わせか、増田に残る鉄道開通以前の重厚な建物、内蔵等が脚光を浴び、観光客が急増している。そして駅を起点に発展し、高度成長の波に乗った十文字は、周辺の大型店舗への集中もあり、空き家も目立ちだした。断面的な事象だが学ぶべきことはある。価値を意味づける知恵の大切さを思う。

身内や居場所が人間を救う

2013年10月20日 | 読書
 茂木健一郎は『ピンチに勝てる脳』(集英社文庫)で、このように書いている。

 面倒見のよいこの国全体の姿勢が、日本人を過保護にし、新しいことにチャレンジする気力を失わせてしまったのかもしれません。

 確かにそういう面があることは否めない。
 ふと思い出したのは、名著といってもいい『オシムの言葉』で、イビチャ・オシムが「日本人は、すべてが整備され自然に解決されていくことに慣れてしまっている」と語り、それが決定力を持つフォワードが育たない遠因であることを指摘していることだ。
 そういういわば他人任せの気質が、この国全体の沈滞を招いたとする論がでてきても不思議ではない。

 グローバリズムが広がる世界の中で、自分をアピールするとすれば、積極的に打って出る姿勢は不可欠である。そして競争を勝ち抜いてマーケットを手に入れることを目指していく。
 そんなふうに、全てが広く経済の対象になっていくのが、グローバリズムの本質ともいえるだろう。

 しかし、それで本当にいいのか。
 いつもそのことは頭を離れない。

 講談社から出版されたこの本を読んだ。

 『脱グローバル論 ~日本の未来のつくりかた』

 内田樹と、前大阪市長の平松邦夫が中心になって、計4回行ったシンポジウムの記録である。
 20代から60代まで計7人の論者たちが語る内容は、刺激的でありかつ納得できる点が多かった。

 特に驚くのは20代、30代の持つ冷静な価値観とすばやい行動力。
 そして(その場に招かれていること自体が一つの思想であるにしても)、安易に今の流れに乗らないぞ、という確固たる精神。
 「縮小均衡」していく日本社会でも、インターネットを含めたテクノロジーの発達や、シェアハウスといった新しいコミュニケーションのあり方によって、未来を描けるという発想は新鮮であったし、一定の説得力が感じられるものだった。

 おそらく自分には、そして論者の半数の方々にもその真似はできそうにないのだが、「つながる」「居場所づくり」という根っこの部分では共通した感覚があるように思う。

 論者の一人中島岳志が語った印象深い言葉がある。

 新しいジモト主義

 けして外向きではないが、内に向ける関心とエネルギーに可能性を見い出すという。

 「ジモト」と言えば「あまちゃん」が思い出されるが、そこで提起されていたことを思い返せば、結局は「身内」や「居場所」が人間を救うものだということに強いシンパシーを覚える。

熱き血潮の人,逝く

2013年10月19日 | 雑記帳
 週初め,宿泊ドッグ先の病院でぼおっとして朝のニュースを見ていたら、やなせたかし氏の訃報が映しだされた。もはや漫画を低俗な文化という人はいまいが、若い時から高齢になるまでこの道を続けてこられた方の佇まいには独特の品格があると、その姿を見てしみじみと感じた。歩んできた道の険しさを思う。


 けっして難解な言葉をつかわないことも氏の特徴のようだ。アンパンマンを持ち出すまでもなく、悪を憎み、正義をつらぬく、その一筋を伝えようと生きてきた人ではなかったか。口癖のように言っていた「肝心なのは、人を喜ばすことなんだ」…このシンプルさを越えられることばは、そんなに多くありはしない。


 図書室で調べ物をしていたら、氏の本が目にとまった。国土社発刊の「しのえほん」シリーズである。独特のタッチの絵に、強いことばがマッチする。「いつでもぼくは/たいようのほうを むいていよう/ひかりのほうを むいていよう/かげはぼくの あとにある」…「ひまわりはせんせい」という詩の一節。


 「手のひらを太陽に」…誰しも知っているこの曲は、詞は平易だが、一ヶ所解説が必要な箇所がある。「血潮」である。そしてこの言葉が作品の核だ。もちろん流れ出るということではなく、体内をめぐるという意味だ。それが激情や情熱のたとえに使われるというイメージが、この曲全体を熱のあるものにしている。



二つがせめぎ合っている世の中

2013年10月18日 | 読書
 雑誌『考える人』に書かれている文章にちょっと惹かれたので,この文庫本を買ってみた。

 『ピンチに勝てる脳』(茂木健一郎 集英社文庫)

 脳科学者の書く文庫であれば,なんとなく想像ができると思うが,この本は大きく括れば,現代日本社会批判といってもよい。

 典型的なのは「賞味期限切れの日本システム」という章。

 よく言われがちなことであるが,茂木もこう書いている。

 ある種の努力型クオリティが社会の中でつくられ,また機能していたということですが,残念ながら,今の社会ではもうそれは機能しなくなっているのです。

 茂木がいうところの「部分最適」(限られた部分での優位,特に学校における優等生など)では立ち行かなくなっていることなど,すでにわかってはいるのだが,捨てきれない面も多く残っていることもまた確かだ。 


 さて,「文庫版おわりに」は今年5月に書かれたものだ。そこに書かれていることが興味深い。
 大震災のボランティアに関わって次のように表現している。

 人々の関心がパワーからインフルエンスのほうに移ってきている証拠ではないかと思っています。

 インフルエンスとは,強制なしに多くの人に影響を与えることができるものを指す。

 日本社会は,特定の個人や組織からのパワーに基づいて動かされる面が強い。遠い過去の歴史を持ちだすまでもないし,現代であっても政治家や企業トップやマスコミ等々,パワーによる支配が依然として続いている。
 しかし,ネットの普及や震災をめぐる混乱の中で,新しい動きがあることも確かだ。

 今,この二つがせめぎ合っている世の中であるという認識を持つことはとても大切だ。

秋田人の日本酒大PR

2013年10月17日 | 雑記帳
 愛読しているフリーマガジン『のんびり』の6号が出た。特集は「秋田『20年後の日本酒』」。秋田と酒を愛する者の一人としてはPRせざるを得ない。特集の切り口が実にいい。銘柄で追っていくと、天の戸→白瀑→由利政宗→新政の順。勤務している湯沢の酒が登場しないのは寂しいが、未来志向の典型ではある。


 「天の戸」を代表銘柄とする浅舞酒造は、県内酒蔵のエース格といっていい。森谷杜氏というリーダーが、日本酒の新しい動きに県内でいちはやく対応し定着させた功績は大きい。「美稲(うましね)」という純米酒が出た当時はお気に入りだった。大阪駅近くのガード下の飲み屋で主人と語りあったことも懐かしい。


 「由利政宗」の齋彌酒造がつくる「雪の茅舎」は秋田を代表する酒の一つである。高橋藤一という県内屈指の職人の腕だろう。インタビューで語る職員選考の考え方に驚く。「性格」と「醸造学を一切学ばない子」。次代へつなぐ杜氏の思いは、何冊ものノートに書き込まれる。データでなく「心」を残したいと語る。


 新政酒造が全量純米づくりになったことは知っていて、この夏一升を買って飲んだ。この蔵元の若き代表は、なんと東大卒だった。経営感覚や技術継承の目配せは、さすがと感じる。白瀑らと一緒に組んだNEXT5は、確かに刺激的だったし、単なる話題づくりではなく、将来を見据えていることに深く感心した。


 秋田の「20年後の日本酒」には全く心配していないが、自分がそれを口にできるものかはいささか不安を覚える人間ドッグ帰りの身である。そう考えると長く、楽しく味わえるためには、いい酒を選び、酔わない程度に飲むのがベストだと悟る。しかも基本は秋田の酒。この土地で生まれ育ったことを大切にする。


 最後に大PR、他の酒も記しておくので、関心のある方はアクセスしてみてください。地元湯沢の両関酒造の「雪月花・純米大吟醸」、木村酒造の「福小町・大吟醸」、そしてお隣横手増田日の丸酒造の「まんさくの花・特別純米」、最後は、現在マイベストと言っていい天寿酒造の「鳥海山・純米大吟醸」である。

子どもに「サンマ」を焼かせよ

2013年10月16日 | 雑記帳
 子どもたちに,秋の味覚である秋刀魚をどんどん食べてほしい。
 もちろん,それはそうだが,実はそのサンマではない。

 漢字で書くと「三間」。
 つまり「空間」「時間」そして「仲間」。


 私たちの仕事は,結局その「三間」を食べさせることではないかと考えている。
 そして,その難しさをどう受け止めるかが問われている。

 つまり,「安全,安心な空間」が何より大事なことはわかるが,子どもたちを待っているのは,実は安全でも安心でもない空間だ。

 「自由な時間」の大切さは,子どもの成長にとって換え難いものだが,制約なき時間を多く持てる大人はそんなに多くない。

 共に学び,共に遊ぶ「仲間」の存在。それは生きるためのエネルギーを維持していくために必要不可欠のものである。
 しかし,コミュニケーションの複雑な様相は,希薄な関係づくりへ向かっているような気もする。


 結局 「三間」について考えれば,次の二つの視点が見えてくる。

 子ども時代の今だからこそ,存分にそれを保障してやりたいということ。

 もう一つは,結局,「三間」を自分で獲得していくように育てるべきだということ。


 そのバランスをどう見極めていくかが,教育の根本の課題と言えるだろう。

 しかし,今,私たち大人にその意識が薄くなっているのではないだろうか。
 目先のデータや経済問題,または自分たちの趣味にとらわれている。

 昨秋聴いた,武田邦彦氏の「この国は子どもたちのことを考えていない」という言葉が,また頭の中に響いてくる。
 

 子どもに「サンマ」を焼かせよ。
 思い切り煙をたたせろ,と時代錯誤的な風景を思い浮かべる。

 先日,酔狂なことを,と言われながら,炭火でサンマを焼いてみた。
 うちわでぱたぱた扇ぎながら,そんなことを考えた。

場を荒らすあらすじ係

2013年10月15日 | 読書
 『原稿零枚日記』(小川洋子 集英社文庫)

 久々の小川本。『博士の愛した数式』以降何冊か読んでいるが,イメージとして静謐がふさわしいかなと感じていた。しかし,この文庫はちょっと違う面を感じる。細密な観察力と描写を十分に味わわせてくれる妄想とでも言えばいいだろうか。複数登場する「○○荒らし」の記述では縦横無尽に筆が進む勢いがある。


 実際に事件を引き起こすわけではないが,身体じゅうの神経をとがらせながらその場に潜り込んでいる「○○荒らし」。「私」もその一人なのである。その場所は文学賞受賞パーティー,子泣き相撲イベント,病院の新生児室など。なかでも一番引きこまれてしまったのは,初めの方にある隣町のL小学校の運動会だ。


 家族も親類の子もいない学校の運動会を,ただ見るためだけに足を運ぶ。ラジオ体操,玉入れ,スプーンリレー…その動きや表情を「私」の視線で執拗に追っていく。そして,借り物競争で予想外に参加する羽目になった「私」の静かな興奮。こういう存在は,もしかしたら現実にいる…と,周囲を見回したくなる。


 詳しく読み解いていくと,いくつかの仕掛けが用意されているのだろう。おそらく,冒頭の「苔料理」の店の訪問,そして「あらすじ教室」の講師という仕事のあたりが強いポイントだ。それにしても,聴く人を魅了する「私」が語るあらすじを一度は聴いてみたい。本編より魅力あるあらすじとは一体なんなのか。


 「あらすじ係」としてのコツを披露している文章がある。全体の構造とか中心の流れはもちろんなのだが,「私」はこう記す。「最も大事なのは,流れの底に潜む特別な小石を二つ三つ見つけることなのだ」…それはもしかしたら作者自身も気づかない場合があるという。要約とは決定的に違う,新たな表現の誕生。

鳥海山の頭が白くなった日

2013年10月14日 | 雑記帳
 鳥海山の頭が白くなった。初冠雪は先月末だったというが,はっきり目にできたのは今朝である。快晴に眩しく映えた。10月になってからも秋には似つかわしくない気温が続いたが,この地域に住む者は,おそらくはその景色によって,小さく冬を意識する。そうやって季節が繰り返される。そうやって生きてきた。


 今日は「体育の日」であるが,ハッピーマンデーで移された他の祝日同様,いやその中でも特にぴんとこない日である。やはり10月10日だよと思うのは50代以上だけだろうか。それはともかく64年の東京オリンピックの開会式に10/10が選ばれたのは,晴れの特異日という説があったが,怪しい情報だった。


 ウィキペディアによると,それほどの確率ではないと書かれてある。そして10月で晴れの特異日と言えるのは10月14日ではないかとも書かれている。今日ではないか。そして,見事に晴れたではないか。体育の日だしそれでは運動を!と出かけるほどのアクティブ系ではないが,季節の山へ収穫を求めて入り込む。


 残念ながら思ったほどの恵みは得られなかった。それでも久しぶりに通い慣れた山あいの道へ向かったので気分が和んだ。踏み込んだ林には様々な色や造形があって,目を楽しませる。これからひと月ほどはまだ,秋の豊かさが感じられるいい時期だ。日に日に寒くなるが,季節の移ろいをできるだけ肌で感じたい。

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黒船だけに目を奪われるな

2013年10月13日 | 読書
 季刊誌『考える人』が「人を動かすスピーチ」という特集を組んだ。
 冒頭に茂木健一郎が「TEDという黒船」と題して原稿を寄せている。
 どこかで目にした記憶はあるが,TEDについてはまったく知らなかった。
 「はてな」で検索した。
 
 なるほど。日本でもずいぶんと関連するイベントが広がっているらしい。

 茂木のこの文章はいわば「TED讃歌」である。
 このように括っている。

 問われているのは,グローバルな文脈での独創性と,コミュニケーション能力なのだ

 この一見凡庸な言い回しも,実はかなりレベルの高いところで束ねられた表現のようだ。
 語ること,スピーチについてはかなりの自信を持っている茂木自身のキャリアの中でも,いかにこのTEDが「家賃が高い」会議であったかを強調している文章が続いている。

 「コミュニケーション能力の最高レベルでのパフォーマンスを要求する」「本当に『広げるに値するアイデア』であるかどうかが問われる」「一秒たりともムダにしてはならない」…渾身のスピーチに要求される核を抜き出しているように書いている。

 そして,こんなふうに問いかける。

 日本の講演文化はぬるすぎて,退屈に感じてしまう。黒船を前にして,私たちはどれくらい本気になれるか。

 TEDを黒船と意識する人間がどの程度存在するのだろう…と考えながら,こういうあり方だけではないような気がしている自分がいて,ちょっと落ち着かなかった。

 それは次の,リチャード・サウル・ワーマンというTEDの創始者であり,十年前に売却したという人物のインタビューではっきり見えてきた。

 ワーマンは「次なるもの」を作り始めたという。昨年の初めての集まりに冒頭でこう宣言したという。

 「大きな後戻りの旅へようこそ」

 それは,異業種の二人組が客席に顔を向けることなく,思いつくままに知的対話を繰り広げるものだった。

 そうか,そこに戻るのか,と思った。
 いや,それは後戻りかどうか簡単に表現できるものではないけれど,やはり対極的な位置で学びは発生するのだろう,という気持ちになる。

 つまり,目標を絞り込んで明確に追究していく,成果や収穫もはっきりした形で得られる場。
 そしてもう一方は,行き先ははっきり聞いていないけれど,その時間を満たす空気に包まれて,ぽつりぽつりと気づきを重ねていく場。

 どちらにも価値がある。併行できると信じている。
 ただバランスとして前者に偏りすぎると,その選択までが埋没されられる危険性が高いのは,その進め方からして自明のことだろう。

 その意味でTEDを「黒船」と呼ぶことは,ひどく当てはまるのかもしれない。

今さら「2位じゃ駄目なのですか」

2013年10月12日 | 雑記帳
 月曜日、昨夜起きていられず見逃した凱旋門賞を、朝4時過ぎから録画でみる。最後の直線を向いた瞬間は、ワンツーフィニッシュもあるぞ!と力んだが、優勝馬のあまりの強さに舌を巻く。日本競馬は世界に確実に追いついているはずなのだが、その証しが欲しい。「2位じゃ駄目なのですか」…その差は大きい。



 火曜日、昨日から取り組んだ校内報40号を配布する。今回は二つの図解を入れて構成した。「書いたことを図解する」「提案したこと、聴いたことを図解する」という二本立て。どちらもいい復習になる。特に前者は自分の書いた文章の論理がきちんと組み立てられるか、いいチェックになる。少し続けてみたい。



 水曜日、マラソン大会後は「なべっこ」。強風だったので調理は結構難儀した。しかし待ち時間が調味料になり、子供たちの食欲は旺盛だった。今年も大鍋のほとんどが完食。さてこの名称で「芋煮会」が一般的なのは知っていたが、なんと「きのこ山」と呼ぶある地域を発見!それは会津だ。今、どうなのかと思う。



 木曜日、ホームページソフトのアップデートの知らせがあったので、インストールしたら、肝心のファイルが開かなくなる。旧バージョン内のファイルは開けないとか、引数が無効とか…ナンダヨという気になる。朝の時間帯からこれかよ!結局どうにもできず出勤。禍の一日にならねばいいが…。本日、県教委訪問。



 金曜日、秋の雲は絶好の被写体の一つだ。街頭指導時、校舎の上の雲のかかり方がいいので、愛機CX4を構えてシャッターを切る。えっ、モニターに映った画面が変だ。露出オーバーかな、オートなのに…。そういえば、どうも最近この機の写真は失敗が目立つ。使い込んでいるだけに愛着はあるが、寿命なのか…。



 本日、県学力向上フォーラムが地元開催なので参加。1000人を超す参加者で、じっくりと授業参観できず。午後の講演、フォーラムで盛んに「秋田式」「秋田型」と連発されるが、もっと高次を目指すならば、そういう命名にある発想の狭さや固定化こそが課題ではないだろうか。「2位じゃ駄目なのですか」…えっ。