すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

まるごととらえる必要のある者は~花巻での学び②

2014年09月20日 | 教育ノート
 白石先生の「やまなし」。興味深かった。
 自分も似たような形で実践した記憶があり、共感できることが多かった。


 実は「作品をまるごととらえる」「大づかみにする」という言葉が、4月赴任当時に校内研修で話題になっていた。
 筑波付属小の公開研報告から出てきたので、頷けることだ。
 しかし、現実には「まるごとと言われても難しい」「時間をかけなきゃ無理」という声がその後に起こったのも確かだ。

 研究の中心ではなかったので、そのままにしていたが、今回改めて白石先生の授業を見て、話を聞けたことは、それらの声に対する一つのヒントを得た思いだ。

 話の中で、一番心に残ったのは次の点だ。

 共通の土俵にのせる

 作品を大づかみする目的がその点にあるならば、これは実に明快だ。
 そのために、構成理解指導をしたり「読みの観点」指導をしたりすると方向が決まれば、それほど迷うことはないように思う。

 教材ごとに指導を変える必要が出てくるが、学習用語などある特定の拠り所があれば、それを年間通じて使っていくことで有効に働く気がする。

 一番の問題は、たとえば物語文の場合、どれぐらい早めにこうした指導が可能かという点である。少なくとも「音読」を抜きにできないことは確かである。今回の授業もその点がクリアできて(事前指導の時間があって)の本時であったことを忘れてはいけない。

 必ず時数の問題に突き当たる。その点を考えると配当時数について見直せる機会の重要性ということをつくづく思ってしまう。

 年間計画を既成のものを頼りにしていては、すべてが付け焼刃的になってしまう。
 まず「まるごととらえる」。そこから焦点化していく、ということが本当に必要なのは教師ではないか。



 それにしても、南城小学校の子どもが、作者を呼び捨てせずに「賢治先生」ということに、素直に羨ましさを感じた。
 子どもが育つ土壌として、そう言い続けてきたことそのものが郷土愛なのだと思う。

「ゲリラ戦」に立てない者の作戦~花巻での学び①

2014年09月19日 | 教育ノート
 照井孝司先生からご紹介があり、花巻市国語教育研究会の授業研修会に参加させていただいた。
 「第36回」という歴史は、現会長の照井先生を初め、諸先輩や会員諸氏の熱に支えられてきたものだろう。同じような組織にいる者として手本にしたい。

 さて、野口、白石両先生の提案授業、シンポジウム参観から、受け止めたことをいつものように書き留める。
 今回は、今後の自校での実践に生かせそうな気がするし、自分の中で明確になった部分もあった。

 野口先生のご授業は5年説明文「天気を予想する」。
 本文を読み進めていく中で、前半から中盤過ぎまでは先生独特の型で学習用語を意識させていく指導となった。
 黒板左手に板書された用語は12個だった。

 とにかく意識化させるために、数多く子どもたちに提示していく。
 もちろん、先生ならではの問いかけ方、導き方であり、安易に私たちが真似しようとしても到底無理なのである。

 シンポジウムで、先生はいみじくも「ゲリラ戦」とおっしゃられた。
 それは、学習用語指導が一般化されるまでの一過程という見方であると同時に、授業そのものの遊撃的なイメージにも重なる。
 感心、納得はしても、では日常の自分の授業に生かせるか、授業づくりのモデルとなると言えば別問題ではないか。

 ここしばらく、先生の授業を拝見しながら、考えてきたことだ。

 では、自分ならどうするか。

 先生自身がおっしゃられた「既習用語」と「新出用語」があり、もちろん新出に重きを置きながら、既習もそこに位置付けて定着させるということになるだろう。

 ここ(「天気を予想する」の導入部)では、以下の学習用語および読解の手立てを指導する。

 ①説明的文章の「資料」には「表」「図」「写真」の三種類があること
 ②表の大事な要素は、「題」「内容(表そのもの)」「出典」であること
 ③本文と資料とを「照応」させて読み取ること


 特に③に関して、第一段落では、五年ごとの平均を記す表と、年代別の記述を照応させる必要がある。また二段落では掲示されている写真、されていない写真という区分、予想図の種類から文意が明確になり、興味づけにもなる。
 
 実際の授業では、ふりかえりによるまとめを重視したり、有効なシートを活用したりすることが必要になるだろう。

 ここまで押さえることによって、子どもが今日の国語の学習を「教科内容で語る」ことに近づくのではないか。

だまされたと思って…だまされたのは

2014年09月18日 | 雑記帳
 外部に出す原稿をまとめる必要があって、何気なく数年前の教育誌をめくってみた。目的とは違うページだが、奈良正裕氏(上智大学教授)の連載に目がいってしまった。奈良氏の話は、ずいぶん昔になるが都会のある付属小で聴いたことがある。「カミキュラム」という言葉で、総合の在り方などを批判されていた。


 その方が「もし子どもの興味や生活実感から教材を選べなかった時は」と断ったうえでこんなふうに書いている。「深まりを確実に実現できる活動や教材を教師の側で選りすぐり、ストレートに子どもの前にドンと提示すればいい」。そして安心させるためにこう告げるという…「だまされたと思って、先生に着いてこい」。


 そうだよなと頷きつつ、ある意味ではとても難しい注文と思った。氏は自らの中学3年の美術の授業における教師の言葉を例に引き、その素晴らしい体験の重要性を訴えている。しかし「だまされたと思って」と言えるほどの教科の専門性、授業づくりの技は、容易には身につかないだろう。まして小学校であれば。


 氏はこう書く。「中学が直面する問題のかなりの部分は、小学校の教科指導に遠因を持っている」。遠因と言われればそうかもしれないとは思う。しかし「だまされない」「思いがけずいいことがあった」授業をつくるための準備は、心がけだけではできない。教科の本質を知るための時間、遊び心を持つ余裕も必須だろう。


 仕組みづくりや時間保障をせずに、その必要性を訴えるのは絵に描いた餅である。今、外部からの様々な要請、例えば多様な視点の加味といった形で授業づくりに制限が重ねられる状況がある。「だまされたと思って…」の繰り返しで、結局「だまされた」のは教師ではないか。「改革」の現状を揺さぶる提言が欲しい。

連休のあれこれから秋へ

2014年09月17日 | 雑記帳
 三連休を挟んで、ぐっと秋めいた気がする。初日は朝から野球大会の応援に出かけた。青空が広がってまさに野球日和。結果は残念だったが、野球少年の季節は、まだまだ続くだろう。その後秋田市へ行き、遠方からの親類と会食。秋田へ向かう飛行機がプロペラ機だったらしく、その話題でずいぶん盛り上がった。
 (同じような体験をyoutubeにアップしている人もいるんですねえ)


 翌日早々にホテルを発って、バスケット交流会への応援。初日を勝ち抜いての1位ブロック内での対戦だった。敗戦ではあったが後半の追い上げは素晴らしく、「勢い」は人を惹きつけると改めて感じた。日常の生活も同じだ。勢いはエネルギーだし、それは多くの場合波及効果をもたらす。そういう場に居る大事さ。


 最終日は、家人とシーズン初の山の恵み探索へ。いつものスポットに着くと「熊出没注意!」の立て札がある。新聞を賑わしているので無理はあるまい。山深く入る勇気も体力もないので林道周辺だけ歩いたが、一定の収穫を得た。力量を自覚する、欲を出さない、感謝する…これ即ち、幸せに生きるコツというものか。


 実は、連休前の金曜日に校内で授業研修を行った。自分のわがままな願いから実現した企画だが、それを実現できる今の幸せをしみじみ感じる。教師が持ち得る、授業についての広さや深さ…そんなことを考える。そしてもっと肝心なのは、今を完成形にせず追求していくという姿勢。それが伝わる秋にしていきたい。

これも寺山の言葉だったか

2014年09月16日 | 雑記帳
 『寺山修司名言集 身捨つるほどの祖国はありや』(PARCO出版)より,もう一つ書き留めておきたい。

 ここにある警句を目にして,これは寺山修司の言葉だったのかと思ったものが三つあった。
 ずっと以前にどこかで読んだり聞いたりしたことが,頭の中にしまわれていて,ふっと立ち上がってきた。

 忘れてしまった,いや眠っている,沈んでいるのかもしれない,そういう無数の言の葉たちの上に位置しているということだろう。


 P11
 人には「歴史型」と「地理型」がある

 P109
 なみだは,にんげんの作る一ばん小さな海です

 P289
 方法を持たない思想は,思想を持たない方法にも劣るものである



 この三つを挙げてみて,何かがつながっているとは思われない。

 ただ,自分は昔から「歴史型」とはっきりしている。
 それから,どちらかと言えば「思想を持たない方法」志向(笑)の時があった。
 そして「小さな海」と縁を切ろうとしていた。

 などという,ちょっとしたそれにまつわる自覚があったことは確かなのだなあ,と,改めて言の葉上位群の存在理由を知った気がする。

108円のメイサクを読む

2014年09月15日 | 読書
 「2014読了」94冊目 ★
 
 『ハル,ハル,ハル』(古川日出男 河出書房新社)

 P154
 わかりづらいよな。この語り。おれの語り。でもな。しかたないんだよ。おれは発熱してるから。


 爆笑問題の太田光が天才という古川の単行本を初めて読んだが,本当に「わかりづらい」。
 読み進めていくと,ははあ,これは「わかる」という類いのものではなく,「感じる」系であるな,と気づく。
 作者がいうところの「世間との対決姿勢」を根本に持っていないと,感じ得ない文章なのかもしれない。
 いくらかのシンパシーは持てても,四人目の「ハル」(注:自分の名前にもハルがつくので・笑)にはなれない。


 「2014読了」95冊目 ★★

 『17歳のポケット』(山田かまち 集英社)

 話題になったところ,その作品を断片的に読んだことはあったけれど,まとまったものは初めてである。
 わかるかわからないかと問われれば,それはわかると答えられるだろう。
 それは誰しもが少なからず見覚えのある風景だから。
 この「才能」は,独白によって培われたのだが,オッサンが読むにはきつい部分が多い。
 前書きを寄せた俵万智の書いた「反歌」のように,放つ光も見ることはできるのだが。

 ただ鳥が飛ぶようにただぼくは十七歳であることを飛ぶ


 「2014読了」96冊目 ★★★
 
 『寺山修司名言集 身捨つるほどの祖国はありや』(PARCO出版)

 いわば,寺山ワールドの風景写真集のように,警句が並べられている。
 いくつもいくつもページの端を折ったし,またいつか開くだろう。
 自分の問題意識も結構拡がっているんだなと思ったりもした。
 しかし,それは焦点化できないことの証しでもある。
 では,特にということで,二つだけ引用して噛みしめてみよう。

 P71
 子供というのは「もの」ではなくて「事件」であるということが重要なんです。
 P131
 書きことばには政治性があり,話しことばには社会性がある。


豊かになれない者の戯言

2014年09月14日 | 雑記帳
 5年生のM社国語教科書に「豊かな言葉の使い手になるためには」という単元がある。
 この学習のなかで、インタビュー活動があるので子どもたちが来たら受けてくれと担任に頼まれた。
 もちろんOKなのだが、質問項目があるらしいので事前に見せてもらった。
 えっと思う項目があった。

 言葉についてどんな考えをもっていますか?


 いやいやこれは、どんな答えを想定しているのだろう。

 ぱっと思い浮かばないので、担任とやりとりしながら、それはパスさせてもらうことにした。

 しかしその後、再びその質問が気になり、5年生相手にどんなことを話せばいいか、改めて考えてみた。


 言葉は、とても大事だと考えています。
 なぜ、大事か。

 まず、人は言葉によって他の人に自分の気持ちや考えを伝えることができるでしょ。
 言葉以外でも伝えることはできますが、言葉は使いやすく、一度に多くのことを伝えたり、文字や声という方法を使い分けたりすることもできるよね。
 しかし、だからこそ、気をつけなければいけないことがあるんだよね。
 自分のつかっている言葉は正確なのか、相手にしっかりと意味が伝わっているのか、そういうことだ。

 でも、話すたび、書くたびに、いちいちじっくりと考えている時間はないよね。
 ただ、時々はそうして自分の話した言葉、書いた言葉を見つめ直してみることも必要だろうね。

 もう一つ、人は言葉があるからこそ、心のなかでふりかえったり、考えたり、決めたりできるよね。
 自分にしか聞こえない心の声で、ほら,今もあなたは・・・・・・・



 とまあ、平凡だけれどこんな具合か。
 それにしても教科書を覗いてみたら、こんなことも書いている。

 調べたことをもとに、「豊かさ」を生み出すものは何か考えましょう。


 これは難問だ。

 「豊かさ」を量ではなく、質に求めようとする意図はわからぬではないが、「豊かさ」は漠然とした括りの中で生きるものであり、教科書的に限定されては、豊かさから遠くなってしまうのではないか。
 そんな矛盾を抱えた単元のように見えてくる。

 念のため、新教科書にあたったら、その内容は変わっていた。

 「明日をつくるわたしたち」と題して、生活等に対する提案書を書かせようという趣向だ。
 こちらが扱いやすいことは確かだ。

 実は、豊かになれない者の戯言なんだろうけど。

カラクリ県のコトワザ考

2014年09月13日 | 雑記帳
 大手週刊誌Bが「全国学力テスト1位 秋田県のカラクリ」と題した記事を載せた。「カラクリ」という表現は、「計略・たくらみ」を意味するので、好意的な記事とは言えない。建設的な批判になっているかどうかが問題だが、そこは大衆週刊誌?の限界だろうか。やはり表面的な点について煽っている印象を受けた。


 それはともかく、調査結果発表を受けて自校でも分析を行った。全体傾向をみて気になったのが国語Aの「故事成語」。全国平均、県平均、自校いずれも低い。「五十歩百歩」「百聞は一見にしかず」は、およそ半分の子が意味を知らないということだ。自分が六年生の時はどうだったろう。細切れの知識はあったのか。


 この結果を受けて全国で一斉に故事成語の学習が始まったら、それはそれで気持ちが悪い。ただ、故事成語やことわざの類は、やはり人間の知恵の結晶といった趣があるし、学校で取り上げていいと思う。ことわざと言えば庄司和晃先生の本。読んだ記憶がある。じっくりと取り組んだわけではないが、印象が強い。


 道徳授業に真面目でなかった自分が、新しい授業開発を進めようと考えたのが、ことわざや故事成語を必ずまとめに使うというシバリを入れた授業展開だった。「浅い川も深く渡れ」や「へたな鉄砲も数打ちゃ当たる」などは印象深い。一定の継続は学級づくりにも通じた。今でも出来るか…ああ「取らぬ狸の皮算用」?。

出てきた言葉にぶら下がって

2014年09月12日 | 雑記帳
 「レジリエンス」…英和辞典を調べると「1 弾力性 2 回復力」とある。もともとは物理学用語らしいが、人間の心理に対してつかわれ始めているらしい。なるほどと思う。目の前を見ても、真剣に取り組みなかなか報われない状況は多い。個人の資質に寄りかかるわけではないが、心を折らないことが一番だ。


 子どもたちに身につけさせたい大切な要素とも言える。意図的にするためにどんなことが必要か、思いつくまま挙げる。挫折も含めた困難を乗り越える体験、試行錯誤できる機会、そして協働して作り上げる活動…学校教育として設定する限界はどのあたりなのか。周囲の賛同ばかりに目を奪われては、見極めを誤る。



 「キー・コンピテンシ―」…文科省サイトの中に「未定稿」と記されたページがあることに少しびっくり、それはそれとして実に興味深い集約だ。もちろん、グローバル化を意識した設定に違いない。それは将来子どもたちの生きる範囲をどこまで見通せるか、教師に突きつけられた課題でもある。自分は得心できるか。


 よく読むと、主述が照応しない部分もあるが、言い回しの面白さもあり触発される。特に、自立について述べた箇所「自立とは孤独のことではなく、むしろ周囲の環境や社会的な動き、自らが果たし果たそうとしている役割を認識すること」なかなか新鮮に思える。役割認識が自立と結びつく…やはりキャリア教育か。

フォロワーたちが動き出す物語

2014年09月11日 | 読書
 「2014読了」93冊目 ★★★
 
 『平成猿蟹合戦図』(吉田修一  朝日文庫)


 文庫化を待っていた作品。
 よく見たら3月に出ていたのだった。朝日文庫というのが渋いなあ。

 ユニークな題名。
 「仇討ち」的な要素があるのだろうか。
 ただ、サスペンス物だったら小説の多くはそういう構造を持つのは当然かとも思った。

 吉田修一の小説は、今の社会構造の複雑な模様を下地にしながら、話によってトーンの明暗が意外にはっきりしている。
 これは明るいパターン、描く時代はちがうが『横道世之助』に似た雰囲気があった。

 読み始めて思わず惹きつけられたのは、舞台として我が秋田県の登場である。
 県北部の大館市が抱える状況は、県内のどこにもある問題で(もちろんそれは国内各地にある)、一つの「対決」の構図としては典型なのだろうと思う。

 そうはいっても、訪れたことのある、少し風景の見える県内が取り上げられたのは嬉しい。・

 その大館に暮らす奥野サワという九十六歳の老婆。
 この存在が、いわば語り部の役割を担って、時代背景と展開の核となる状況を語っていることが、あとあとになってわかってくる。

 浜本純平という若者が、裏社会から表社会へ劇的に変換していくストーリーというとらえ方もできる。
 現実にはなかなかあり得ない話だが、こういうキャラクターを持つ男はどこにもいるし、その可能性を生かすも殺すも周囲との関わりだなということは感じられる。
 これは、リーダーというより、フォロワ―の、フォロワ―たちが動き出す物語と言ってもいい。

 その意味では、考えようによっては、疲弊した地方復活のヒントにもなるかもしれない。
 もちろんエンターテイメント色も強く、痛快な読後感もある。「猿蟹合戦」ね、納得という感じか。


 さて、作者より年齢が高いので、知ったかふりで時代考証をして、あれっどうなのかと思う箇所が一つあった。

 それはサワが、自分の長男が上京するのを大館駅で見送った後、美容院に入る場面だ。
 「ポスターには当時人気のあったテレビ女優が写っていた」という表現がある。

 しかし、その設定は「一九五○年代後半」とある。
 これは、少し無理がないだろうかと思った。
 テレビが当時の大館になかったとは言わないが、地方の農村では爆発的な普及は少なくともとも60年代前半ではないのか。

 気になって調べたら、NHKの大河ドラマも連続テレビ小説もやはり60年代からだった。しかしテレビドラマ(生放送)は、確かに50年代後半も放送されている。
 そのラインナップをみながら「人気のあったテレビ女優」をしいてあげれば、十朱幸代か、いや頻度からは小林千登勢か、と渋い名前を挙げておしまいとする。