すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

研究会で拾ったことば

2014年09月10日 | 雑記帳
 「Speak Kindly」「Listen Warmly」指導案に載せられた,生徒向けの合言葉。スローガンとしては久しぶりにいい響きに出会った気がする。辞書でKindlyを確かめると「親切に,やさしく」Warmlyは「温かに,心から」である。小学生高学年に説明しても十分伝わるだろう。複数の要素がぎっちり詰まっている。


 「大変だった?」という問い。あるペアが発表をした内容を,他の子たちが評価する。発表した子は教室内を回り,自由に質問に答えていく形をとったが,今一つ盛り上がらない。あるグループが「大変だった」と訊くと,そこから話がつながる。ある意味ではこういう寄り添う,ざっくりした問いがきっかけを作る。


 「サケ方式」。指導主事の助言の中で,ある調査官が発した言葉として紹介された。つまり,中学生や高校生が自分の母校で発表活動などをすることを指すらしい。なるほど言い得て妙だ。生まれ育った所に帰り,未来につながる何かを残すということか。しかし,そのサケ自身がそこで果てては困る。想像しすぎか。


 「チョット」という口癖。自分にもあるだろう,意識しないで何度も発する言葉が。今回,複数の人がこの「チョット」を連発したので,気になってしまった。おそらく原稿や事前に考えたことを音声化する段階で差し挟んでしまう。日本人特有の「ぼやかし」「曖昧さ」が見えかくれする。チョット嫌な感じがします。

授業はスイカ,スイカは丸い

2014年09月09日 | 雑記帳
 教育実習生が入って三週目、いよいよ実際の授業が始まるということで、参観しにいった。4年生理科「星の動き方」の学習の1時間目。当然ながらいろいろと問題や未熟な点はある。実習担当の準備してくれた感想カードに、いったいどの切り口から書けばいいか。ちょっと考えて「板書」について書くことにした。


 「板書を考えることは、授業を構造化することです」…この授業だったら、こう書くという案を図で示し、もっともらしい言葉を添えた。実は板書のことは、自分が初めての実習で教わったことでもあった。黒板に何をどう書くか組みたてることは、教えたいこと、考えさせたいことを明確にする。かなり強力な肝だ。



 家に帰って何気なく読んでいた冊子に、有田和正先生の項があり、かの名言が書かれてあった。「授業はスイカだ」。つまり、真ん中のおいしいところから食べていくという「導入」「ネタ」の重要性を説いた言葉だ。なるほど、実習生への助言も、その観点なのかもしれない。「楽しかったか」「子どもは意欲的だったか」


 いやあ、それはあまり厳しい注文ではなかろうか。だいたいスイカとはどういう作物か、どうやって育てるかを知らないうちから、甘さがどうのこうのではないだろう…という考えも浮かぶ。つまり「スイカは丸い」ものだ、苗はこんなふうに育てるという段階は抜きにできない。安定したマニュアルとは、その部分だ。


 では、ベテラン教員が「授業はスイカだ」を具現化する授業とはどんなものか。理科は不得手でピントはずれかもしれないが、「星」ならやはり映像か。その日は中秋の名月。月の動きを追いながら、その周りと比べさせるなど…あっ、あまり明るくて比較は無理か。いずれ視覚教材は必要であり、それが甘みの素となる。

網棚の上の人を見る目

2014年09月08日 | 雑記帳
 土曜日のPTA研修会の講演を聞きながら,ちょっと考えたことがあった。

 「学校統合」がテーマなのだが,前置きとして講師がご自分のことを語られた。
 高校生ぐらいまでは,ものすごく神経質だったこと。
 東京の大学に行って,もまれるうちにその性格が変わったということ。

 そのきっかけになったエピソードが痛快だ。
 剣道部の先輩に,電車に乗っているときに「音楽が聴きたい」と言われ,その車中で歌をうたったという。
 しかも,網棚に上がって横になった状態で…。
 (網棚は上がるのは簡単だったが,降りるのに難儀したという様子にも笑った)
 何を歌ったかはもはや覚えていないが,歌い終わったときに車内にまばらな拍手があったそうだ。


 はっきり言えば,まあいじめ行為だろう。
 しかし,バブル期の東京では糾弾されず見過ごされた。
 一人一人の思いはわからないが,その突飛な行動はある意味の潔さを持って,受け入れられたか。

 そういった状況が,もし今,起きたらどうなるのだろうか…そんなふうにまた妄想が始まった。

 もちろん,今どきそんなばんカラな学生などいないと思うが,あり得ない話でもない。
 その行為を止めるか止めないか,というより,周囲はスマホで撮影してネットに流すだろうな,という予想が出てくる。そう考えてしまう人は私だけではないだろう。

 こういう予想が立つ社会とは、どのような心が渦巻いているのだろうか。

 私たちは目の前の行為に対して,直接関わったり,見て腹を立てたり,心配したり,また気持ちを近づけないように無視したり…多くの感情を持つ。
 そして理性を働かせながら,行動に移す,はずだ。

 スマホや携帯で写す行動は,誰かにこのことを知らせたいという気持ちの表れか。
 いや,それより自分がそういう場に居合わせたという自慢が大きいのかもしれない。
 人が生きている現場への関わり方として,どうだろうと思ってしまう。

 もちろん人は昔からそうした気持ちは持っていた。しかし,その術は語りであったり文であったりした。
 それから写真,動画ができ,それらが同時性を持つようになった。

 持っている道具によって,行動が支配され,それに伴って精神の在り方も違ってきたか。

 ヒトは,道具の製作・使用によって,文化活動を築いてきたことは間違いない。
 しかし,やはり,その進展によって失ってしまったことはあまりに多い。それらは,はっきりと意識せぬままに消えていった。

 情報機器の目まぐるしい進化は,網棚の上の人を見る目を大きく変えてしまった。

最近のキニナルキ

2014年09月07日 | 雑記帳
 「紙辞書と電子辞書の議論は学習段階を前提にする必要がありそうだ。最初は紙辞書が相応しい。学習が進めば,個人の自由に任せればよいと思う」笠島準一氏が書かれた英語辞書に関しての考え。国語辞書も全くそうだと思う。タブレットが普及するのは当然だろうが,学習活動としての限定は必要になってくる。


 「地方であること,不便であること,小さいこと,人口が少ないことは,ハンデではない」…平田オリザ氏の言。「数多くのハンデを抱える地方」という言い方が多い。しかしそれは大雑把すぎないか。負け犬根性(懐かしい!)に染まっていないか。もっと具体的に,活用的に,利点中心に見てみようということ。


 「演技で大事なのは,文章にしたとき『主語』になる部分じゃない。『述語』のほうなんだよ」…俳優堺雅人が,哲学者西田幾多郎の文章から触発されて考えた言葉。昨日の橋秀実の言に結びつければ,述語にはいつも主語が含まれ,自分を意識しないことが,全ての言動にインパクトを与えると解釈すればいいか。


 「ライブちゅうのは,音だけが表現やないねん。楽器弾いてるときのミュージシャンの表情とか身振り手振りも全部ひっくるめて表現や。」俳人の堀本裕樹がジャズ喫茶のマスターに言われた言葉。ごく当たり前なのだが,そう言えば何年も音楽「ライブ」というものを見ていない。熱い空間に身を置けなくなっている。

主語はなくとも見えている?

2014年09月06日 | 雑記帳
 衝撃的な文章に出会った。

 そういえば民俗学者の柳田国男も「私」への違和感を表明していた。彼によると、「知らないわ」「安いわ」などの「わ」はもともと一人称を意味していたらしい。


 愛読連載「とかなんとか言語学」で、橋秀実はこう書いている。
 今回が最終回。「私」を取り上げて、いつもながらの論を展開させている。
 つまり「私」という主語に対するイチャモンということになる。

 各資料を紐解きながら、こう切り出す。

 そもそも日本語は述語だけで成立する言語らしい。「主語は述語の中に含まれたものとして表現されてゐる」(時枝誠記著『日本文法 口語篇』)そうで、別に主語を省略しているわけでなく、述語だけですでに表現済みなのだ。


 つまり、述語の中に主語が含意されるのが特徴だ、と言いたいわけで、それはなんとなく納得できた。
 しかしそこからの発展?で、冒頭の引用した文章を読んだときは、ええっと思ってしまった。

 その論だと、「わ」という終助詞(広辞苑では女性語とされ、軽い主張・決意・詠嘆を表す、とされている)は、「我・吾」を表す「わ」から転成されてきたというのだろうか。

 つまり、「知らないわ」は「知らない我」である。なるほど。
 「安いわ」は「安い我」…これは変か。いや「我・吾」は二人称の場合もあるので、そこから転化して「おまえは安い、それは安い」ということか。無理がある?それとも「安いと我は思った」ことか。

 では、他の終助詞はどうか。
 「知らないよ」の「よ」、ああこれは「余」である。これにも「われ。おのれ」という意味があるではないか。
 「わ」とほとんど同じだろう。
 「知らないよ」は、「余は知らない」ということ。

 「ね」はどうか。これは無理か。
 「根」はどうだ。「心の底」という意味がある。しかし人称ではない。
 「知らない根」とすれば、「私は心の底から知らない」となるか。
 まさにこじつけ。

 では「ぜ」はどうだ。
 「ぜ」は「是」しかないじゃないか。
 「知らない是」…「私は知らないということをよしとしている」状態である。


 「知らないわ」からずいぶんと逸れてきたみたいだ。

 結局、柳田国男理論?に沿えば、主語を省略する場合は終助詞「わ」を使えば(ひょっとしたら「よ」も)、主語がなくとも自分が主体であることは表現しているとなる。


 ああ、少し妄想が過ぎました。
 
 終わるわ。

 ごめんよ。

MC恐るべし,MCに学べ

2014年09月05日 | 雑記帳
 買いそびれていた季刊誌『教師のチカラ』(日本標準)を2号まとめて注文した。今年の春号の特集1が「教師のMC力」とある。MC?テレビのバラエティの進行役という意味だったんじゃないのか。ページをめくって定義を確かめみる。特集の扉にはこうあった。「教師が瞬時に子どもを見取り、対応する指導力」。


 扉の下部に、英語表記文があり、こんな表現をしている。「Teacher’s Capability as a Moderator」…直訳すれば、司会をする時の教師の能力ということか。そもそも放送で使われるMCとは「Master of Cemony」のはずだが、ちょっと違う。特集名は「MC力」なので、「力」が重複している表現と言えるのではないか。


 そこにこだわってしまう自分の性(さが)を笑いつつ中身を見る。特集は9人の実践家が、MC力についてそれぞれの考えや実践を述べている。単にハウツーを語っていないところがこの雑誌の特徴であり、好ましい。それぞれの今にフィットする論考が必ずあるはずだ。私が共感できたのは山田洋一氏の文章だった。


 「MC力の前提にあるもの」と題された文章には、書写指導の一場面を例に実際の大事なポイントが二つ書かれてある。山田氏は「MC力は、観察力+解釈力+コミュニケーション力の総体」とまとめた。的確な分析だと思う。いわば「仕切る」力を高めていくために、必要な要素になる。バラエティ司会者も同じだ。


 思い浮かぶ一人に明石家さんまがいる。かつて上條晴夫氏が書かれた名著もあった。昨日届いたメールマガジンに、城ヶ崎滋雄氏がさんまの話術について書かれていた。口癖のような言葉は、実は「共感・関心・深化、広がり」の三要素に分析できるという。MC恐るべしと思う。学ぶ気になれば、どこからも学べる。

行き当たりばったりの思想に気づく

2014年09月04日 | 読書
 「2014読了」92冊目 ★★★
 
 『反省しない。』(桶渡啓祐  中経出版)


 ネットでも評判になっていたし、先日読んだ雑誌記事に触発されたので、取り寄せて即購読した。合わせて付録のDVD(講演)も視聴した。

 さすがに今、スパークしている人物だなと感じる。
 共感できる、というより学びとりたい多くの提言があった。

 逆風なら向きを変えて追い風にする

 スピードは最大の付加価値

 完成力より修正力



 しかし、著者の一番根底にあるのは、この書名「反省しない。」とつながる次のことではないか。

 行き当たりばったり

 仮に「行き当たりばったりの思想」と名づけ、その精神の在り様を探ってみたい。
 なぜなら、自分にとってまったく縁遠いと感じているからである。

 「行き当たりばったりでいい」という考えは、おそらく自分自身への揺るぎない肯定感に支えられる。
 しかももちろんそれは過去の自分ではなく、現在の自分に対する強い感覚だ。
 課題をクリアできる自信というような方向性ではなく、対象を面白い、惹きつけられていくという意欲や関心の高さと関わりをもつ。

 だから、失敗は当然予想されることであり、そこでの消耗は少ない。

 また、対象へ向かう力の凝集度が高いと言えるだろう。
 「やる気スイッチを無理に押さない」と言っているのは、自分のなかで意図的に展開させるなという意であり、流れの中で見せる動きの力強さは、文章や講演から十二分に伝わってきた。

 「行き当たりばったり」を、どのレベルに落とし込んで信条とするかは、よくよく考えねばならない。

 市図書館を今のようにすることに「大義」はないと書いているが、確かにそうかもしれない。様々な政策も同様だろう。
 著者にあるのは、言ってみれば「自分への大義」である。

 引きこもりだった高校生の頃、聴いた隣町の町長の話に将来を見出し、東大に入り国家公務員になり、生まれ故郷の市長になった。
 紆余屈折を乗り越えるなかで、いわば「行き当たりばったり」によって、人物が大きくなっていく典型のようなものである。

 そういう物語は、変革期にあるのだろうなあ、よくドラマ化される戦国時代や幕末、維新などは最たるものだ。
 講演に見る手練手管の語り口などは、かの歴史上の人物もそうだったのではないか、と思わせられる。イメージできるのは…。

 変革期のリーダー像は「行き当たりばったりの思想」の持ち主だということに、今頃になって気づかされた。
 いろいろな提言は、全てそこに収斂されている。

「難解な絵本」は,まったくもおだ

2014年09月03日 | 読書
 「2014読了」91冊目 ★★

 『難解な絵本』(いとうせいこう 角川書店)


 どなたかが評していた。
 まさに「奇書」。

 そもそも題名からして、奇抜である。

 これは「難解な」絵本なのか。それとも、「絵本」とはそもそも難解なものなのか。
 著者は序にこんな文章を記している。

 もともと絵本は難解であることが多い。
 意外なことだが、それが幼児向けであればあるほど難解度は増す。



 この言葉を額面通りに受け取る気持ちがあれば、この絵本にはまるかもしれない。

 幼稚園児の革命宣言

 子供の新興宗教

 非転校生声明



 これらの見出しを見ただけでも、その特異さがわかるだろう。

 部分的な引用では、その貌が想像できない。
 比較的わかりやすい「子供の警句(アフォリズム)」より、2つほどメモしておこう。

 人生の悲劇とは牛乳瓶の口が母親の乳首より冷たいことだ

 人生への期待は、砂場への期待に似ている。においたつ場所を掘り進めば、埋もれているのは猫の糞ばかりだ。だが、それは必ず新しい。


 
 まさしくこれらの警句を読んだだけでも、著者に対する警戒を感じないか。

 人類学にも習俗などにもほとんど素養はないが、「柳田くんと折口くん」と題された、「熊楠」の日記には笑ってしまった。
 まったくどこに嵌まるか予測不能の絵本である。

 ちなみに「Toshi」と記名されている絵は、個人的に西原女史を連想させ、これもまたまったくしょうがないと思うしかなかった。

現実が背景になってはいけない

2014年09月02日 | 雑記帳
 勤務校のブログホームページをリニューアルしたことは先日書いた。ホームページにグーグルストリートビューのリンクを貼っていたのでアクセスしてみたら驚いた。なんと本校所在地までアップされている。試しにと思い,自宅前やら親類宅を検索するとなんと映るではないか。まあよくもこんな田舎まで。今年の6月作成らしい。ずいぶん拡がっている。


 昨日は振替休業日だったので,何の気なしにNHKの『あさイチ』を観ていたら,最初の話題として「AR~拡張現実」ということが取り上げられた。紙に描いた図がスマホのアプリで,実際に動き出す画像になるものだった。その原理を利用している絵本の紹介もあった。「拡張現実」…初めて聞く言葉だ。「仮想現実」は結構一般的だが,調べたらこういうこと


 「拡張現実」とはよく言ったものである。簡単に言えば,現実にコンピュータによる情報が付加されることだが,それで何が拡張されるのか。動かす主体である人間の言動,思考ということになるのだろうか。コンピュータ使用がスマホやタブレットの浸透によって機動性を持ち始め,個々の現実に関わってきた。しかし,なんとなくその現実は背景に思えてくる。


 ストリートビューも地図という現実に付加された映像情報。改めて思うに,私たちは常に監視され,調査され,分析され,情報化される。膨大なそれらが生身の現実に働きかけられて,行動を促すきっかけになるのだと思う。消費行動が多くなるのはやむを得ないが,何か危険なことに結びつく可能性は常にあるのではないか。私たちは背景になってはいけない。

声を聴かなくなった人々へ

2014年09月01日 | 読書
 「2014読了」90冊目 ★★★

 『想像ラジオ』(いとうせいこう 河出書房新社)


 昨年話題になった小説だ。
 芥川賞の候補作となったことも聞いたが,文学的にどうなのか正直よくわからない。
 ただ,混沌と見える話題の中にも作者の思いはよく伝わってくる話だ。

 第4章は一組の男女の会話で構成されている。
 このやりとりは,例えば風に波打つ湖面のように変化があって面白い。

 いつからかこの国は死者を抱きしめていることが出来なくなった。


 どきりとする。

 それは「声を聴かなくなった」からだという。
 『想像ラジオ』という題名は,そこに直結する。


 感受性だけ強くて,想像力が足りない

 二人の会話の中で「最悪」と評価された,そんな生き方をしている人が増えてきたようだ。

 感受性の行き場所はいつも自分であり,それゆえに苦しみ悩み,他者を思いやる余裕に欠ける。

 死者を悼む気持ちがどんどん痩せていることに,時々苦いものがこみ上げてくる。
 そしてそれをいつも社会や周囲のせいにして,自分から目を背けているのだ。


 「DJアーク」が選曲しアーティストの半分以上は,自分も若い頃に聴いた音楽だった。
 そこからずいぶん離れてしまったが,もう一度耳を澄ませて聴き入る夜があってもいい。
 そういう時間を持った方がいい。