小岩市川関所跡の対岸(市川市)に
矢切の渡し下流、2kmほどに位置します
市川関所と呼ばれることもあったが、多くの場合は
「小岩・市川関所」と記されていた。
幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、
市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、役人を補佐した。
黄色丸、小岩市川関所跡 赤丸左小岩関所跡、右市川関所跡
江戸時代以前の江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていた。
奈良・平安時代の関所跡周辺には、井上駅家(いかみのうまや)がおかれ、都と下総国を往来する
公の使が太日川の渡し船と馬の乗りかえをおこなった。
また、室町時代には、市川を旅した連歌氏の宗長が、その時の紀行文『東路の津登』のなかで、
市川に渡(わたり)があったことを記しており、古くからここに人々が集い、
川を渡っていたことがわかる。
〔上の看板概略〕
左下が小岩市川関所跡、 中右が市川側
柵が設けられているのが分かります。