時代は経過して、蔵の跡地は夢のあと。
秩父事件とは
1884(明治17)年10月31日から11月9日に掛けて、
埼玉・群馬・長野などの民衆数千人が 負債の延納、雑税の減少などを求めて武装蜂起した。
山国秩父では、江戸時代なかば以来、養蚕がさかんだった。
農民たちは、石だらけの傾斜地に桑を植え、蚕を飼って糸をとった。
『昔、秩父には、゛秩父暴徒〝という大変に恐ろしい出来事があった』と、
お年寄りが話していたことを、私は、記憶している。
井上伝蔵
井上伝蔵は、安政元年6月生まれ - 大正7年6月23日は、
秩父事件の中心人物の一人。
井上伝蔵氏が隠れたの最奥地からの眺め
母屋と物置を残すのみ
上の説明に同じ
*印
井上伝蔵が隠れていた蔵の跡地
この詳細は下記に説明
通じる道
当時は母屋の裏から通じていたといいますが、広い新たな道が南に出来たため
昔の面影はない。
入り口の道筋に山吹の花
*七重八重山吹咲けど隠れ家は
代々変わり話し途切れし
井上傳蔵の隠れ家
小生もこの辺は、遊びに行ったのでよく知っている。
蔵があり、大尽であったと言うイメイジが強い。
幼少期には、そんなことはつゆ知らず、
秩父暴徒=秩父事件と言う位で、
井上伝蔵隠れ家などということは、全く知らなかった。
月日が経過して、65年ぶりに訪れると
天と地の違いでした。
付近の様子やら道筋さえ違っていた。
間違えて隣の家を尋ねると、この下(しも)の家だと教えられた。
談・・・・・・。
・・・しかし尋ねても、お婿さんですから(井上伝蔵隠れ家)知らないでしょう。
・・・と、アドバイスを頂いた。
斎藤家のご主人 談
写真*印の付近を指差しながら、
この辺に有ったと言う事は聞いています。
しかしこの家に、婿入りした時は蔵は既に無く、
多くの方たちが訪ねて来られますが、失礼の有様です。
・・と、言いながら現地を案内してもらいました。
やはり燐家の方がおっしゃる通り詳細は皆無でした。
指差した先は、*印 草ぼうぼうでした。
・・・・兵どもの 夢の跡。
その2へ続きます
コメ欄はその2を開いております。