和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

あこがれの地熱は。

2011-02-14 | 詩歌
堀口大學の詩「お目あて」に

   ―― 現代詩?

   ―― 小さい! 小さい!
      僕の狙いは
      永遠の詩ですよ


というのが、あります。
永遠。
せめて、現代よりも古典のほうが、永遠にすこし近いかも。

山口仲美の「日本語の古典」をパラパラめくって、
手ごたえがあったので、同じ岩波新書の
山口仲美著「日本語の歴史」を古本で注文。
まあ、それはそれとして、
「日本語の古典」のプロローグはこう始まります。


「日本の古典は、今や瀕死状態。
現代人にほとんど顧みられない状況をみると、
『もったいない』という気持ちが
むくむくとわきあがってきます。
自分たちの祖先の培ってきたさまざまな英知を
なぜ現代人は学び、吸収しようとしないのか?
過去から学ぶ物は何もないと思えるほど、
私たちは優れているのか?
・・・・・・・・・・・・・・」

う~ん。永遠などいらない時代なのでしょうか。
そういえば、田辺聖子著「古典の文箱」(世界文化社)
のあとがきで

「古い遠祖たちの心を受け継ぐ、というのは、
かたちにあらわすと古典を愛し尊び、親昵する、
というのもその一つではなかろうか。
現代の若者には古典アレルギーが多い。
漢字制限が行なわれ、
漢文学教養がなおざりにされてゆく当節の学校教育だから、
古典にも、うとうとしくなってゆくのは当然かもしれない
・・・・・・・
そして私の感触でいえば、人々の古典へのあこがれの地熱は、
想像以上に熱いものがあるようだ。
ほんの少しの手引き、あと押しがあれば。
・・・古典はまだこの国の人々の心から消えていないと、
信ずるに足る証拠を、私は得た。
人の心が古典を愛することで柔らかく(なめ)されれば、
日本の四季や自然の風物の、愛すべく貴(たつと)むべきを
知るようにもなるはず。」(平成11(1999)年卯月)


「あこがれの地熱」を、私もせめてすこしだけでも。
ということで、現代詩はもういいや。
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棋士の持ち時間。

2011-02-13 | 手紙
板坂元著「発想の智恵表現の智恵」(PHP研究所)は新書サイズ。
発想のタネになる格言を2~3行引用してコメントを1~2頁書いて、つぎつぎと並べております。その最初の箇所に「手紙」が登場しているので、それじゃあ、この一冊に手紙が何ページに出てくるのか、ぱらぱらとめくってみることにしました。

まずは、最初の箇所。
「・・・アイデアとはそういう努力の果てに生まれるものなのだ。その意味では、人と話したり手紙を書いたりすることが、大いに役立つことがある。私の場合は、知人に手紙を書いているうちに、うまい考えが出ることが多いので、何か仕事を始めると、同じ日に二度も友人に手紙を書いたこともある。状況を詳しく説明するような手紙を書くとき、頭の中が整理されてきて、気のつかなかったアイデアが飛び出してくるものだ。」(p14)

「慣れれば人を待つ五分間でハガキ一枚くらい書くことができる。手帳を開いてスケジュールをチェックしたり、ショッピングリストを作ったり、いろいろなことが五分間で果たせる。棋士の持ち時間のように無駄なく使えれば、人生は豊かになる。・・・」(p16)

「日本の企業はレターヘッドにあまり関心を払わない。・・・・
そして何より日本の会社に手紙を出しても返事がこない、というのはアメリカ人の間で定評になっている。心すべきだろう。」(p52~53)

「『自分はフェアバンク教授に読んでもらう、ということを頭に置かないで書いたことは一度もない。 T・H・ホワイト』
・・・・フェアバンク教授・・若き日の教授の物心両面にわたる援助を受けたホワイトは、その恩に報いるために一生懸命に書いたのである。その名文の陰には『恩師に手紙を書くつもりで書く』という基本的精神があったのだ。手紙の場合、読み手がどれだけ知っているかは先刻承知している。そして、そういう情報はすべて省略するのが礼儀でもある。文章を書くときも、相手の知っていることをくどくど書くのは失礼だし、気の短い読み手ならカンシャクを起してしまうだろう。」(p72)

「手紙を書くことによるコミュニケーションは、面と向かって話すことや電話で話すことよりも難しい。アメリカの社会人類学者アルバート・メラービンの説によると、実験の結果・・・
目とか口などで相手に通じるものがもっとも有力で、つぎが声の調子、そして言葉によってわずかなものが相手に伝達されるというわけだ。つまり、面と向かって話せば100%、電話で話せば45%、手紙で書けば7%しか効果が上がらないことになる。だから『手紙を書くように』というのも、説得のためには相当に難しい仕事と覚悟しなければならない。文章も、文体とか言葉づかいは別にしても、欲を言って『手紙を書くように』からさらに一歩進んで『面と向かって話すつもり』『電話をかけて説明する』といった気持ちで書くように努力すべきなのだろう。」(p73)

「たとえどんな小さな問題でも、既に学会の定説になっているもの以外は、いちいち断ってその説を立てた人の名前を記す必要がある。几帳面な人は『何月何日の何々との談話による』とか『某氏の手紙による』などとフットノートをつけている人もいるが、そういうクセを若いときから身につけておくことは非常に大切だ。」(p74)

「『かつて永井荷風は毛筆書きの手紙でないと読まずに破り捨てたという。』
私は、若い人からよく手紙をもらうが、ときどきノートを破りとった紙に手紙を書いてくる人がいる。永井荷風ほど偏屈ではないが、あまりうれしくは思わない。同じことで、絵葉書や航空書簡を使うのも場合によっては失礼になる。用件が多かれ少なかれビジネスなり公用に関するもので、特に未知の人や目上の人には絵葉書を出すものではないし、航空書簡も親近感がない人には出すべきではない。・・・・・
私信はできるだけ手書きがより。水茎のあと麗しき便りが廃れて久しい今日この頃、ワープロ打ちの手紙の最後に自分の手で署名することさえしない人が多い。・・・・アメリカでも、結婚祝いに対するサンキューレターや、パーティなどへの招待状に対する返事、お祝いの手紙、弔問・慰めのレターなどは手書きが普通になっている。年長者とか新しい知り合いに対しても、自筆の手紙のほうが親しみの度を深めるものだ。
年賀状や挨拶状なども、せめて自分の氏名の部分だけは手書きにしたほうが人間的ぬくもりが生れてくるだろう。・・・」(p76~77)

あと、夏目漱石から芥川龍之介への手紙(p138~139)や
小説『チャリング・クロス街84番地』(ヘレン・ハンフ著)(p140)などもありました。

以上「 発想の智恵 表現の智恵 」における手紙のしめる割合。

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ビーナスの両腕。

2011-02-12 | 短文紹介
筒井康隆著「漂流 本から本」(朝日新聞出版)についての鼎談
1月30日朝日新聞(丸谷才一・筒井康隆・大江健三郎)を読みおわって思い浮かんだのは、両腕がないミロのビーナスでした。

丸谷さんの鼎談での言葉に

「本というのは、おのずから他の本を読ませる力があるものなんです。ある本が孤立してあるのではなく、本の世界の中にあるのだから、感動すればごく自然に、他の本に手が出る仕組みになっているんだ。」


そうすると、一冊の本だけを読むというのは、ミロのビーナスじゃないですが、両腕がなくなったような喪失感があるのかもしれないなあ。などと、本を読まないと妙なことを思います。

ミロのビーナスに両腕がないのなら
千手観音は、どうなのだ。
阿修羅は、腕が6本。

「他の本に手が出る仕組み」
いったい、何本の手があればよいのか?

鼎談では丸谷さんが、こうも語っておりました。

「本を読みすぎるのはよくないね。国語学者の大野晋さんは大読書家なのに、『考えるぶんだけ頭を空けておかなくてはならない。だからほどほどにしか読んではいけない』と言っていた。ぼくはそれを聞いて、今日はヒマだから本を読もう、ではなく、ヒマだから考えようとするように努めていますが、考えるのにくたびれてつい読んじゃう(笑)。」

うん。ぼけっと、
ミロのビーナスの両腕のことを考えていると、ついくたびれます。
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かな・なかなか。

2011-02-11 | 短文紹介
ブログ「書迷博客」で、私が好きなのは週一回の書き込まれる「今週買った本」。毎週気になりながら見ております(笑)。
さてっと、「かな」について、あれこれ気になりだしたので
思い浮かぶ箇所を列挙していきたのですが、
まずはじめに、「書迷博客」の2月6日「今週買った本」から
引用させて頂きます。

「・・かなについての本を探すとなると、まず藝術の棚で書道のコーナーをさがし、かなの成り立ちについてならば言語のコーナーを見なければならない。また、それがどのように定着、普及したのかを調べるには教育の棚の教育史である。また、たとえば新古今和歌集を活字ではなく、手書きの文字で読もうと思えば古典文学のコーナーで探すことになる。ほかにも考古学、歴史学に関わる部分もあって、図書館のあちこちをうろつく。これは新刊書店であっても同様だ。
かなは分野を横断しているということだが、言葉をかえれば、ジャンルがはっきりしないということでもある。とりわけ言語の棚では文字については圧倒的に漢字に関する本が多くて、かなについてはわずかしかない。それでかえって調べる側にも俄然やる気が出てくるのだが。」

さてっと、つぎは順不同で
半藤一利さんは鼎談で、こう語っておりました。

「・・・日本人の場合、江戸時代以前に書かれたものは、手紙でも日記でも草書体だからいまはなかなか読めないし、私じゃ歯が立たない。・・歴史は史料に基づくものなのに、結局は私たちは活字でしかそれを読めず、活字になる史料は時の支配者にとって手前(てめえ)に都合のいいものでしかない。敗者側の史料は容易に活字にならないし、草書の文字の裏側に大事なものが潜んでいても、お手上げです。これからは草書体はますます読めなくなるわけで、日本人は公正な歴史というものからどんどん離れていくんじゃないか。これは最近『幕末史』に取り組んだ時、官軍でない方の史料を懸命に読もうとして感じたことです。」

つぎに、池澤夏樹編「本は、これから」(岩波新書)に登場している、中野三敏氏の文を引用。中野氏は「和本リテラシー」という言葉をつかっておりました(ちなみに、ブログ「読書で日暮らし」では、池澤夏樹編「本は、これから」のなかでは、内田樹・紀田順一郎・中野三敏・松岡正剛の4氏の文をお薦めしております)。


「・・・木版本、及び写本類である。これが過去千二百年の間に積み上げられた日本人の経験と思弁の総体であることは言うまでもないが、そう総数・・・大方、百万点を超すと考えて誤るまい。・・本当の問題は、誰がそれを読むのかという所にある。
知っての通り、この書物群は、楷書体の漢文著作以外はすべて、変体仮名と草書体漢字、即ち『くずし字』によって記されている。出版物が現在のような仮名字体に定められたのは、明治33年に、一音節を一文字に限定した小学校令が施行されて以来のことで、よほど特殊なものでない限り、活字体の漢字と右の仮名文字で記され、くずし字は手書きの場合のみとなった。それでも昭和戦前までの教育を受けた人には、自然とその能力(これを私は「和本リテラシー」と呼ぶ)は残っていたが、決定的にそれを失ったのは戦後のことなので、せいぜい65年ほどにしかならないのに、今や大学院を出た人でも、国文・国語・国史といった学科の、それも近世以前を専攻する人のみが辛うじて具えるのみで、それ以外は壊滅状態といえる。むろん字体を限定したことによるメリットの大きさは十分わかるが、そのデメリットに関してはほとんど一顧だに与えられなかったのではないか。
・・これはまた確認できないが、和本リテラシーをもつ人の総数は、前述の専攻に因んだ研究者とその卵を数えあげたとしても、おそらく三千人を少し越えるほどの数であろう。日本人の0.003%にしかならない。そこで、既に活字化された書物だけでもということになれば、その総数は歴史・芸術・思想・社会・文芸、ともかくあらゆる領域を総ざらいしてみても、おそらく一万点には及ぶまい。総数を百万点として、わずか1%にしかならないのである。
日本の知識人で古典は必要ないと言いきれる人はおそらくあるまい。そして、そうした人達はおそらく、必要な古典はほとんど活字化されているにちがいないと思いこんでいるのではないか。しかしそれ以外の活字化されないものは読めないとなれば、実際の所、日本の知識人の大半は、先人の知的遺産のわずか1%しか利用していないことになる。これほどもったいないことがほかにあろうか。」(p170~172)

まだ続くのですが、これくらいで、つぎにいきます。
そういえば、中野三敏著「古文書入門 くずし字で『百人一首』をたのしむ」(角川学芸出版)の帯をロバート・キャンベル氏が書いておりました。

「くずし字が読めれば、もっと楽しくなる! 文字を忘れた日本人よ、江戸の理解は平仮名から。」


つぎいきましょう。
板坂元著「発想の智恵 表現の智恵」(PHP研究所)に草仮名・読解法がありました(p134~135)。そこも大半引用します。

「私は江戸文学を専攻していたので、卒論を書くに当たって、まず草仮名を読むことから始めた。私が学生のころは、手引書など全くないため、いきなり元禄ごろの文献を筆写することにした。平均的日本人なら三週間前後で一応の基礎ができるはずだ。方法は簡単だ。まず、草仮名の表を手に入れる。これを手掛かりに、江戸時代の板本を読む。私は井原西鶴の好色本などをよく読んだ。内容に興味があるから、集中度が高くなる。
こうして基礎ができると、運転免許のとりたてのように、やたらに実力を発揮したくなる時期がくる。掛け軸もよし、自分に関係のある文書でもかまわない。とにかく頭を突っ込んで力をつけていけばよい。要領は、ただ読むだけでなく鉛筆で紙に写すという写字作業をすることだ。はじめは読めない箇所が多いけれども、だんだんパズル解きのように空欄が埋まってくる。つぎに、浮世絵に出てくる字だとか、芭蕉の短冊写真だとか、読みやすいもので鑑賞にたえるものを取り上げて集中していくことだ。俳句なり書画なり、何でもよいから字を読むこと以外の目的を立てて、字を読む練習をしなければ、上達は途中で止まってしまう。・・・・」


そういえば、ブログ書迷博客では、板倉聖宣著「変体仮名とその覚え方」(仮説社)もとりあげておりました。私はですね。まずは「くずし字で『百人一首』を楽しむ」を読みこなすぞ。


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師弟の友情。

2011-02-11 | 短文紹介
板坂元訳のノーマン・マルコム著「ウィトゲンシュタイン」(平凡社ライブラリー)を、とりあえずパラパラと読了。読みおわってから著者のあとがき(1974年)を見ると、そこにこうありました。


「アメリカで教鞭をとっていて、さまざまな問題にぶっつかって行きなやんでいる学生に、私はよくこの本を読ませることにしている。学問に対する態度、職業倫理、そして人生観のすべてにわたって、この天才の言動は凡夫をして奮い立たしめるものを持っており、読んだ学生たちのことごとくが、なにがしかの生きるすべを教えられたと報告して来るのが常である。・・・・師弟の間の美しい友情が、アメリカでも日本でも失われつつある現在、教える側の人にも教えられる側の人にも、ぜひ読み通していただきたいとの念願をいだきながら翻訳を進めた。・・」(p200)

うん。読みおわって。この言葉に触れると、あらためて、この本の価値に気づかされる思いです(それは、学生の悩みに対するカタルシスとして作用するのかと)。いっしょに訳されている第二部の「小伝」も、全体像をつかめて理解を助けます。

ここでは、簡単な紹介など、まず誰よりも、ウィトゲンシュタインさんが怒るにちがいないので、やめときましょう(笑)。読めてよかった。こんかいは板坂元氏のファンとして読みました。
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理髪店浮世話。

2011-02-10 | 前書・後書。
読売新聞の読売歌壇・俳壇を読みたいので、月曜の週一回購読(笑)。
さてっと、2月7日(月曜日)に「読売文学賞の人びと 4」とあり、
鵜飼哲夫氏が黒岩比佐子さんを紹介しておりました。
ありがたい、読めた。『パンとペン』で評伝・伝記賞。
ちょっと引用。

「『売文は、私にとってすごく身近な言葉でした』。27歳でフリーになった黒岩さんにとって、生活(パン)と書くこと(ペン)の両立は切実だった。40歳になる年に出した初の評伝・・ははじめ3社から出版を断られ、失望したこともあった。」

最後は、こうありました。

「残り少ない日々、家族に語っていた。『宝石とか洋服とか、贅沢なものは何もないよ』。遺されたのは大量の古書と、自分の『子供』と言っていた、命を削って書いた本だ。」


うん。襟を正して、また黒岩比佐子さんの本を読みたいと思わせてくれる紹介文。ところで、関容子著「日本の鶯」(岩波現代文庫)の解説で丸谷才一氏が「篠田鉱造」をとりあげており、気になったので岩波文庫の「幕末明治女百話」・「増補幕末百話」とを古本で注文したのでした。それが届き。尾崎秀樹氏の解説を読んだら、そこにありました。

「篠田鉱造は明治4(1871)年12月6日に東京赤坂に生まれた。号は胡蝶庵。24歳で報知新聞に入り、当時森田思軒に替って新たに編集長となった村井弦斎の指導を受けた。・・」(「幕末百話」解説)

ちなみに、この箇所も引用。

「篠田鉱造は祖父の指示に従って、17歳のおり、場末の理髪店でみっちりと読書するために下宿したというが、読書より理髪店での浮世ばなしに魅せられ、実話にとりつかれたと告白している。浮世床は篠田鉱造にとっては『私の大学』ともなるものだった。この魅力を新聞記者となって、実話読物執筆に活かしたのである。・・・・」(p326)


そうそう。
黒岩比佐子著「『食道楽』の人 村井弦斎」(岩波書店)には、最後に人名索引があり、手軽に「篠田鉱造」の箇所を読めるようになっておりました。ありがたかった。
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雲散霧消の恐れ。

2011-02-09 | 前書・後書。
「和田恒追悼文集 野分」(非売品)になかで、
青木和夫氏の文が印象に残ります。
はじまりは、
「昭和39年の初秋から40年の早春にかけて、和田さんは私のためにずいぶん迷惑なさった。40年早々から刊行の中央公論社版『日本の歴史』第三巻の編集を和田さんが担当し、その巻の執筆者がたまたま私だったためである。」
その次も引用しておきます。

「各巻は一人で執筆というこの企画に加わることを先輩から勧められたとき、私はためらった。勤め先の大学では概説を担当していたけれども、概説書を若いうちに書いて世間に知られることは嫌だったからである。・・・・和田さんは、すでに引受けられた各巻執筆者の名を教えてくださった。そのなかには私の畏敬していた篤学者S先生の名があった。私は安心して引受けることにした。だが和田さんは付けたした。『S先生にお勧めするとき、もう引受けてくださった先生がたのお名前をあげようとしましたらね、「それは言わないでください。お名前をうかがった後で私がお断りしたら、その方々に失礼になってしまうから」、「私は企画に賛成だからお引受けしたのです」って』。私は自分のことは棚に上げて、和田さんも、事の後でぼくに聞かせるなんて、けっこう悪いおひとだと思った。」

このあと、遅々として進まない原稿のことが語られるのですが(それも引用したくなるのですが)、それは省いて、最後の方をすこし。

「年賀状を書くのも返事するのも家内に任せ切りの正月あけには、さすがに原稿も書き終えていた。『遅くなった分は校正で取り返します』とか言って、私は大曲に程近い三晃印刷に連夜のように通った。和田さんは『最初の計算より倍も売れていますから、お書きになりたいことがあったら、何でもどうぞ。本を厚くして読者にサービスしましょうよ』という。私は必要最小限で納めるつもりであったが、勧めにのって少々書き足した。余白を減らすため、本文の最後に五行ばかり、感慨じみた文章を付加したのも、午前一時すぎ、印刷所の校正室で疲労困憊した挙句であった。この五行は、書物の最後しか読まぬ書評家たちに恰好の餌食となった。しかし和田さんは私に何も言わなかった。忘れることのできない仕事の日夜が過ぎてからも、何かにつけて私は和田さんに逢った。・・・・」

ついつい引用しちゃいました。
じつは「書物の最後しか読まぬ書評家たち」というのが引用したかっただけなに(笑)。

話はかわりますが、
山口仲美著「日本語の古典」(岩波新書)をパラパラめくっていたら、
最後の「エピローグ」は、こうはじまっておりました。

「この本の編集担当をしてくださったのは、早坂ノゾミさん。彼女とは拙著『日本語の歴史』(岩波新書)以来のお付き合いです。早坂さんが定年を迎えると聞いて、私はお世話になった御礼をしたいと思いました。私に出来ることといったら、よい本を書くことしかないのです。私は、自分の専門を生かしつつ、多くの方に読んでほしい本の企画をたてました。それが、この本です。」

え~。本の前書きと後書きしか読まない私は、おもわず、それじゃあ、と本文を読み始めたわけなのでした。日本の古典を30冊紹介していきます。その手腕たるや。一冊を語るのに、その本の一箇所をおもむろに取り出してみせるのです。
たとえば、今昔物語集では、伏見稲荷での顛末。まるで昨今の漫才タレントとその奥さんとのやりとりを撮影したテレビ番組でも見ているように活写しております(笑)。
また、題名にある「日本語」ということでは、
「語学的にも、『今昔物語集』は、現在の漢字かな交じり文の元祖となる文章様式を採用しており、重要な地位を占めています。・・・名詞や動詞などの自立語を漢字で大きく、助詞・助動詞・活用語尾をカタカナで小さく右に寄せて書いてある。時には、カタカナの部分が二行の小書きになる。一見とっつきにくい文章の様式ですが、これこそ、今の私たちの使っている漢字かな交じり文の元祖なのです。今日では、読みにくいので、原典のカタカナの部分を漢字と同じ大きさにしたり、さらにカタカナの部分をひらがなに直したりして通読しやすいテキストにしています。」(p107)
まあ、こんな風に日本語としての視点を生かして新書が編まれておりました。そして、その視点から「伊曾保物語」・「蘭東事始」を取り上げてもおります。

う~ん。プロローグもいいんだなあ。
けれど、ここではエピローグのこの箇所を引用しておきます。
それは、「心がけたこと」とあります。

「私がこの本を書くときに極力心がけたことがあります。
それは、できるかぎり自分の読書経験を大切にすることです。溢れるばかりの研究文献を読み漁っているうちに、いつしか書きたいことが雲散霧消してしまうことを恐れたのです。私は研究者ですから、それまでの研究論文を読破し、その上に自説を展開することに慣れているのです。でも、それでは、一般の方々には読みにくいだけです。自分で、初心にかえって作品そのものに向き合った時に感じたことを大切にし、それを研究で培ってきた分析力を使って説得性を持たせる。そういう本が、最も自分の個性が出る本になる。そう思えたからです。数々の研究文献に惑わされずに、自分の感性と分析力を生かす。それを最大のモットーにして書きました。」

う~ん。このエピローグに恥じない本文です。ですが、さらりと古典を触れていると勘違いして、ややもすると読み過ごしやすい。ということも、なきにしもあらず。私は、本棚に置いておきたい、単純にして貴重な一冊なのでした。
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本届く。

2011-02-08 | 地域
古本で注文しておりた川喜田二郎編著「雲と水と 移動大学奮戦記」(講談社)が今日届く。山口仲美著「日本語の古典」(岩波新書)をパラパラと読んでるところ、伊曾保物語や蘭東事始をとりあげている視点が鮮やか。
今日はこれから、親戚のお通夜受付の手伝いででかけるところ。
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紙漉(かみすき)。

2011-02-07 | 詩歌
BK1の書評で「銀の皿」さんが津野海太郎著「電子本をバカにするなかれ 書物史の第三革命」(国書刊行会・¥1890)を紹介されておりました。そこで引用されていた箇所に「紙の書籍に背負わされた重たいものを、少しずつ電子書籍が肩代わりすればいい」というのがあるのだそうです(興味深い本ですが、私は買わないぞ)。
さてっと、話題をかえて「紙の書籍」といえば、紙へと連想がひろがります。橘曙覧に「紙漉」と題した歌が7首あり、一読印象に残っております。
そのことについて、
「橘曙覧は、文化九年(1812)五月、越前福井城下の石場町(福井市つくも一丁目)に生まれた。父は正玄(正源)五郎右衛門(1783-1826)。紙筆墨商を営むと共に、家伝薬巨朱子円製造販売の老舗の主でもあった。・・・」(岩波文庫「橘曙覧全歌集」解説)

この箇所を窪田空穂の文に、たどってみると、
「福井では豪族としての名声を保って来て、商家ではあったが藩主から特別の扱ひを受けていたという。又、彼の父という人は商才に富んでいて、紙商といはれていたという。この人は長男曙覧の15歳の時に没したので、彼は家を継いで家長となったという。彼は幼少の時母に死別して、家には以前から継母があり、継母にも男児があって同居していたという。彼は結婚すべき年齢となって、妻を迎へ、子も挙げていたという。そういう位地にいた彼が、35歳の時、家を異腹の弟に譲り、自分は妻子を伴って、身に付ける物もなく別居したというのである。身に付ける物云々は、委しくは分からないが、彼のその後の歌に赤貧を侘びているものがあり、又、妻の生家の者が、妻に離縁を勧めたことが伝記にあるところからも察しられる。・・・」(p435「全集」第十巻)


ここでは、橘曙覧の生家は、紙商をしていたのを確認できます。
つまり、「紙」は曙覧にとってごく身近な空気のような、よく知る世界だったのでしょう。
ここから、あらためて「紙漉」と題した曙覧の歌を、そのまま引用しておきます。


  家家に 谷川引きて 水湛へ 歌うたひつつ 少女(をとめ)紙すく

  水に手を 冬も打ちひたし 漉きたてて 紙の白雪 窓高く積む

  紙買ひに 来る人おほし さねかづら 這ひまとはれる 垣をしるべに

  居ならびて 紙漉くをとめ 見ほしがり 垣間見するは 里の男の子か

  黄昏に 咲く花の色も 紙を干す 板のしろさに まけて見えつつ

  鳴きたつる 蝉にまじりて 草たたく 音きかするや 紙すきの小屋

  流れくる 岩間の水に 浸しおきて 打ち敲く草の 紙になるとぞ 


曙覧の身近によく知る世界が、四季を通してポッと中空に浮かんででもいるかのように歌われている。そんな味わい。う~ん。この歌を読んでいると「紙漉」を背景にして、曙覧とごく自然にすれ違っているような、そんな気分になってきます。


  
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堂々とほめる。

2011-02-06 | 短文紹介
朝日の古新聞が来ました(笑)。
さっそく整理。といっても天声人語を読むこともなく、
地方版を気にしながら、読書欄を切りとるくらいです。
他紙と比べ、紙面に広告がのさばる構図が顕著で、
ついつい広告に視線が奪われます。
いつもながら落着かないなあ。などと思いながら、
ありました。ありました。
1月30日(日曜日)に
筒井康隆×丸谷才一×大江健三郎の鼎談。
その写真がいい。丸谷さんを真中に。筒井さんが嬉しそうです。
まるで映画監督と並ぶ淀川長治さんみたいにニコニコ。

ちなみに、三人の写真の下に
  丸谷才一  1925年山形県生まれ
  筒井康隆  1934年大阪市生まれ
  大江健三郎 1935年愛媛県生まれ

とあります。
うん。そういえば、読書欄での筒井康隆氏の連載をページごと切り抜いて読まずに段ボール箱へ入れといた。あらためて、連載順に並べると、結構な連載が中途で途切れております。彫刻でいえば、手と足のないトルソーみたいに連載が切れております。なんとも適当。これが私の切抜きの正体、いつもこんな感じです(笑)。
それでも、何でとってあったかといえば、毎回筒井氏の写真が連載中に掲載されるのが、めずらしくおもしろく思ったものですから、捨てるには忍びなかったわけです。
たまに、奥さんとお子さんと三人での家族旅行のスナップ写真が載っていたりで、連載中に、ちらりとそれを見るだけでも楽しめました。単行本『漂流 本から本へ』のほうは、あのアルバムのような写真は消えちゃうんだろうなあ。と買いもしないで残念がったりしております。

さてっと、鼎談の最後に丸谷才一さんが語っておりました。

「本というのは、おのずから他の本を読ませる力があるものなんです。ある本が孤立してあるのではなく、本の世界の中にあるのだから、感動すればごく自然に、他の本に手が出る仕組みになっているんだ。」

こうもありました。

丸谷】 我々が子どもの頃、読むに値する本は本当に少なかった。最近の出版文化論は『本が売れない』という話ばかりで愚の骨頂。昔、吉行淳之介は文学がわかる人がそんなにいるわけないから売れないと悲しむ必要ないとよく言ってた。本なんて、そんなに売れるもんじゃないんだ(笑)
筒井】 その通り。戦後すぐは、子どもが読めそうな本を古いものでも手当り次第に探したりしたんです。
丸谷】 いまはいいよ。翻訳読んでも意味がわかるんだもの(笑)。昔は訳が悪かったからねえ。


さてっと、なぜこの三人がそろったのかは、
筒井さんの『漂流』の連載を読むとわかってきます。
たとえば、

「なにしろ十年に一度しか長篇を書かないと言われている丸谷才一の作品だから常に待ちかねていて、そのほとんどすべてを読んでいたのだが、この『女ざかり』には感心した。当時の書評(注:これは筒井さんが書いた書評のことだと思います)には『ディケンズ的な長篇の技法が駆使されていて、その巧みさたるや退廃的ですらある』と書いている。この評は丸谷氏のお気に召したようで『退廃的とまで褒めてくれたのはありがたい』という礼状が来たりもした。実際この作品の面白さたるやただごとではなく、ベストセラーになり、映画化されたのも当然と言える。作者の最高傑作のひとつであろう。・・・」

ちなみに、これは2010年7月18日に連載された箇所で、その時の写真は全集完結のパーティーで、後ろに奥さんの着物姿が写っておりました。それが連載第65回で、その時の文の最後は

「今この小説があまり読まれていないらしいことが不思議だったのでamazonで検索してみたところ、なんと品切れ。さっそく丸谷氏にそのことを伝えると、しばらくしてから 『増刷になりました。友情に感謝』というはがきが来た。その昔『ベトナム観光公社』を書評で絶讃され世に出してもらった恩返しになったのかなと思い、そのはがきは大事にしている。」

ついでに、2010年5月30日の連載第58回は、写真がパーティーでの大江さんとのツーショット。そのはじまりは

「共通の友人だった塙嘉彦が亡くなる少し以前から大江健三郎との交際が始まっていたように記憶している。『同時代ゲーム』が出た時には率先して褒め称え、『失敗作である』という悪評が出た時にも『失敗作であることさえ度外視すれば傑作』と書いて、このフレーズは大江さんのお気に召したようだ。なんとしてもこの作品を不評から守りたくて・・・・・」


ここらで、また鼎談へともどります。
そこで、丸谷さんは

「『失敗作であることさえ度外視すれば傑作』というあの批評、面白いね。文学作品の魅力という一筋縄ではとらえられないものを、上手に言っている。」

大江さんは、鼎談の初めのほうで、丸谷さんと筒井さんについて語っております。

「二人とも堂々とほめるんです。ほめ言葉が大げさなくらい丸谷さんはほめる尺度が歴史的、世界的で・・・・・筒井さんはハチャメチャ的なほめ方。新聞にふつう載らない桁外れの言葉を押し出す。でも二人とも声がよく通り、客席の隅ずみに達する。違う個性で並び立つ、説得的な批評家。」


おたのしみは、これくらいで(笑)。

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堀口ファン。

2011-02-05 | 短文紹介
関容子著「日本の鶯 堀口大學聞書き」(岩波現代文庫)を、読んでたのしかった。
このたのしさを、他の方はどう語っておられるか。それをたどるのも、これまた楽しみ。

ということで、以前にでた講談社文庫の「日本の鶯」を、古本で注文。
それが届きました。講談社文庫での解説は河盛好蔵氏。
それは、堀口大學氏のお通夜の晩のことから、書き出されておりました。
そして、「日本の鶯」を遅まきながら読んでの感想が以下に語られておりました。

「・・有り難いことに関さんは早速この本を送って下さったので、遅まきながら、私も愛読者の仲間に加わることができ、たくさんのことを教えられるのみならず、私自身の堀口論のなかでもしばしば引用させて頂いた。全く『日本の鶯』は堀口大學を研究し、理解するための世にも貴重なモノグラフィーであって、これだけ行き届いた聞書きをよくぞ作って置いて下さったと、私たち堀口ファンは心から感謝している。・・・多年堀口先生の人と作品に親炙してきた者の一人として、この本を読みながら、目からウロコの落ちる思いをしたことが少なくない・・」

もう一箇所。

「この聞書きは一ヵ月一回の割りで、それが十五回も続くという、聞く人にも、更にそれ以上答える人に努力と忍耐を要求する気の重い仕事であるが、回を重ねるに従って、両者の息が次第に合ってくるのは読者にもよく分かり、思わず話のなかに、こちらも割り込んでゆきたくなるのは、本書のこの上もない魅力になっている。」

六ページほどの河盛好蔵氏の解説を読めてよかった(笑)。

さてっと、あとは

  「丸谷才一批評集第五巻 同時代の作家たち」(文藝春秋)
   丸谷才一著「挨拶はたいへんだ」(朝日新聞社)
  「河盛好蔵 私の随想選 第五巻 私の日本文学Ⅱ」(新潮社)

に、堀口大學が読めるのでした。そちらも覗いてみましょう。


ちなみに、岩波現代文庫の解説で、丸谷才一氏は
こうも語っておりました。

「・・・わが国最初の聞書きの名手が篠田鉱造であることは、わたしが改めて言ひ立てるまでもなく、すでに名声が確立してゐるが、その先駆者の業績の最も優れたものは、男から話を聞いての『幕末百話』や『明治百話』ではなく、女たち相手の『幕末明治 女百話』であるやうに見受けられる。昭和になってからの仕事だから、かなりの年配の人たちばかりから聞き出したものだが、それでも明治初年、おそらく旧幕臣の子弟として東京赤坂に生れ、報知新聞記者となつた、これもかなりの年の人物の男としての魅力が老女たちに作用して、それで昔語りを引出すことにこれだけ成功してゐるやうに思はれてならない。ここでもまた性差が霊験あらたかな力として作用してゐた。まつたく同じことが『日本の鶯』の場合にも見て取れる。・・・・」

読む読まないは別にして、
ついつい、『幕末明治 女百話』を古本で注文(笑)。
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顔つくり。

2011-02-05 | 詩歌
新聞の歌壇を見ると、どうしても詠む方が年配の方々が多いせいか、ご自身のことを語る歌の内容も、自然と過ごしてきた年月のことになりがち。
そんななかに、対象として若い人が歌われているのは、ついつい目をひきます。

毎日歌壇(1月23日)篠弘選の5首目。

 三人が座席に開く教科書のページにマーカーの線がひしめく
       東京 庄野史子

毎日歌壇(1月30日)伊藤一彦選の最初の歌は

 物の怪に取り憑かれたるごと女高生一心不乱に顔つくりをり
        愛西市 坂元二男

この伊藤一彦氏の選評は
「公の場での化粧に対する非難の歌はよく見るが、この作は違う。あまりの『一心不乱』さに作者は感嘆したのだ。」

ここで、私は板坂元著「発想の智恵表現の智恵」をオモムロに取り出すのでした(笑)。この本には、発想の発句のような、考えを展開させてくれる発端まで、つれていってくれる楽しみがあるのでした。たとえば、この新書の目次をみると、こんな箇所がある。


p58「目で殺す」(目のメークアップは一首の魔除け。人を威嚇する効果がある)
それでは、そのページの文の前半部分を引用。


「リチャード・クロスによれば、目のメークアップは、見知らぬ人から見つめられるのを避ける作用を持っているという。知らない人同士が目を合わせるのは不快な経験だ。相手の目をのぞき込むのは、相手のプライバシーに割って入ることになるので親しい間柄とか、誰かにきちんと紹介されたのでなければ、社交上はタブーとなっている。
アフリカのバンブーン(ひひ)が敵をにらみつけるとき、瞼をあげると鮮やかな色が露出して相手を威嚇することになる。これと同じように目のメークアップは、一種の魔除けの役を果たすのだという。歌舞伎の隈取りも目を強調して人を威嚇するために用いられているからこの例に当てはまる。
ついでながら、日本でチンピラが『ガン(眼)をつけられた』と怒るのは、プライバシーの自由を損なわれたと感じるからだ。女性のメークアップも、クロス説では『ガンをつけられる』のを防ぐ目的があるという。・・・・」


「物の怪」と「魔除け」。
そうすると、坂元二男さんの一首は、日々プライバシーを守る儀式を「一心不乱」に行っている姿を、目にしてしまったという歌になるのでしょうか(笑)。何でしょうねえ。何事も「一心不乱」な姿は、興味を惹かれるものですし。


たのしみは、歌のおもわぬ切りこみに、目からウロコと味わえるとき。
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ことわざ話。

2011-02-04 | 詩歌
いつのまにか、日めくりカレンダーが3つ(笑)。
毎日3枚、日をめくる。
もっとも、ときどき、日めくりを怠ったり(笑)。

梅棹忠夫著作集第11巻(中央公論社)をひらいていたら、
そこに『百人百話』という本のこと(p272~273)。
なんでも、梅棹氏が本の監修をしたようです。以下引用

「1976年、株式会社三井銀行は創立100周年をむかえる。それを記念して、『百人百話』と題する出版物を刊行したいという。各界の名士100人に、ことわざがらみで人生観、金銭観をかたらせようというのである。池田弥三郎氏とわたしのふたりが監修者となった。・・」

うれしいのは、ネットで古本を買えること。
気分よく、手元に届きました。さっそくパラパラ。

題名は「ことわざにみる日本人の心と姿 百人百話」。
めくっていると思い浮かぶこと。
そういえば、いろはカルタには、
上方カルタと江戸カルタとがあったなあ。

ふたりの監修者が、ちょうど江戸と上方です。
これは、企画の勝利。上方の人選を
とりあえず列挙してみると、
今西錦司・上田篤・上田正昭・貝塚茂樹(この方は東京生まれ)・加藤秀俊・川喜田二郎・多田道太郎・奈良本辰也・西堀栄三郎・宮地伝三郎などなど、それぞれが見開き二ページで短文を書いているのでした。

ここでは、いつか読んでみたい川喜田二郎氏の文
(じつは、私は「発想法」も読んでおりません)。

題は「人間到るところ青山あり」
はじまりの箇所

「監修者の方から、執筆の参考にと提供された諺の一覧表がある。数えてみると、しめて457。そこで私は、半ば茶目っ気から、半ばまじめに、次のような作業をした。それは、この夥しい諺の中から、私が食欲を覚えるものをどうしぼって見いだせばよいか、その作業なのである。・・・」

なかばほどには、

「かつて軍隊に初年兵で入ったとき、消灯ラッパと共に冷たい寝床で瞼に浮んできたのは大興安嶺だった。また、ヒマラヤ第二回目の探検行の後、その当時の行を共にした仲間は、『もう一度あそこへ帰りたい』と、よく語りあったものだ。『行きたい』とは形容しなかった。大興安嶺もそのヒマラヤ奥地も、行くまでは全く未知の異郷だったのである。ところが、そのどちらもが極めて充実した旅であり、そこで私たちは、すばらしい何かを摑んだのだった。いわば創造的な達成体験を持ったのである。そうしたら、その異郷が第二の故郷になってしまったというわけ。」

文章の最後は、

「うまく達成するために、私はどんな諺を使っていたのだろうと図解をよく見ると、次のことが判明した。まず必要なのは、強烈な悲願を持つことだ。優れたアイディアを抱き準備する。『蒔かぬ種は生えぬ』。そしてケチくさくない夢を抱く。『棒ほど願って針ほど叶う』わけだ。他方、逆境を恐れないこと。『雨降って地固まる』、それに『災いを変じて福となす』悲願と逆境の思想を踏まえて、『石の上にも三年』静かなること林のごとく。その代わり、動けば果敢に火の如く水の如く・・・・。どうやらこのあたりで、一覧表では足らず武田信玄も必要になる。
そして最後は楽天家の勝利らしい。『寝る子は育つ』、そして『笑う門には福きたる』。どうも諺とはなかなかよいものだと思えてきた。ここでいいたいことを諺なしで述べようと思ったら、多分千万言必要だったろう。」(p108~109)


ちなみに梅棹忠夫氏は、諺についての本文を書いておりません。
でも、「監修をおえて」からの梅棹氏の言葉を引用。

「・・いただいた原稿を拝見して、さすがにみごとなものと感心した。わたしなどより、はるかにみごとにこの企画にのっておられる。どういうことになるかと心配していたのに、みなさん、はじめからこの企画をしって、まちかまえておられたのではないか。おかげで、たいへんおもしろい本ができあがったとよろこんでいる。現代世相史の一資料として、後世の人たちにも利用してもらえそうである。・・・・」


なんとなく、「後世」とは、今じゃないかと思う。
ことわざに興味ある方に、お薦め。
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言葉ならべ。

2011-02-03 | 詩歌
春の七草は言えても、その草を知らない私は、味気ないですね。
秋の七草といえば、万葉集の山上憶良で、
「秋の野の花を詠める歌二首」があります。
ここでは、まず、その二首をならべてから。

秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数えれば 七種(ななくさ)の花

萩が花 尾花葛花 ナデシコの花 をみなへし 又藤袴 朝顔の花

ちょっと、花では、どんな花かわからずにピントこなかったりします。
最近の毎日歌壇(1月23日)の伊藤一彦選の最初の歌は

げそがんもたまごだいこんたこつみれちくわはんぺん雪はしんしん
            名古屋市 可知豊親
また、産経歌壇(2月1日)の小島ゆかり選の2首目は

仲見世の羽子板市の灯に競ふ白鵬阿覧把瑠都魁皇
            名古屋市 可知豊親

同じ方が投稿しておりました。

言葉をならべるといえば、大岡信の詩「はる なつ あき ふゆ」。
はじまりは、こうでした。

   はるのうみ
   あぶらめ めばる
   のり わかめ みる
   いひだこ さはら さくらだひ
   はまぐり あさり さくらがひ
   やどかり しほまねき
   ひじき もづく いそぎんちゃく
   
さてっと、
橘曙覧全歌集(岩波文庫)のp161に、こんな一首

      山中

 樵(きこ)り歌 鳥のさひづり 水の音 
ぬれたる小艸(をぐさ) 雲かかるまつ


この文庫の注には
「五つの名詞を聴覚と視覚によってとらえ、各句ごとに景物を据えて並べた。山中ののどかな情景で、俳句的な発想といわれる。」

この一首については、折口信夫が「歌の話」でとりあげておりました。
そちらも引用。


「山中(さんちゅう)という題です。山中目に見、耳に聞こえるものを五とおり並べて、そしてもの静かな山のようすを考えさせようとしたのです。けれどもこれは、和歌ではまず出来ない相談で、おそらくこの人が、こういうふうな思想の表し方をする俳句にも、興味を持っていたから出来たものなのでしょう。どう考えても、この五つの現象が、一つの完全な山のありさまに組み立てて感じられては来ません。・・・・」


ここいらは、意見のわかれるところで、おもしろいなあ。
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台所で。

2011-02-02 | 短文紹介
谷川俊太郎の詩集の題名に、
「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」というのがありました。
私は、詩よりもその題名にひかれたことがあります。

さてっと、台所といえば、アガサ・クリスティに
「台所で皿洗いをしているときが、本のプランをたてるのにいちばんよい時間です。」という言葉があるそうなのです。
板坂元著「 発想に智恵 表現の智恵 」の二番目に登場しておりました。
そこで板坂氏はどう説明していたか。

「皿洗いで手を動かしながら、頭の中ではアイデアがふつふつと湧いている状態なのであろう。アイデアを生む秘訣とは、頭を適当に自由にして、適当に刺激を与えるということにあるらしい。たとえば作家のトルーマン・カポーティは、朝起きて何種類かの新聞をくまなく読んで、それでもたりないときは新聞売場に行って立ち読みまでするらしい。そうしながら小説のアイデアを引き出すのだ、と語っている。新聞の中からタネを拾い出すのではなく、新聞を読みながら、頭の外のところで小説のことを考えているのだ。・・・・」


ここから、そういえばと思い浮かぶのは、
与謝野晶子でした。
関容子著「日本の鶯 堀口大學聞書き」(岩波現代文庫)に
「一夜百首の会」の様子が語られておりました。そこを引用。


「新詩社ではその頃、月に一回くらいの割りで、一夜百首の会というのがあったのね。一晩中に百首の短歌を結字でつくる。出来上がったら仮眠をとってもいいというわけだね。一枚の紙の上の方に、たとえば、原、稿、用、紙というように、一字ずつ題が並んでいる。その字を入れて一首ずつつくってゆくんだが、なかなか出来るもんじゃないのよ。・・・・
それが晶子先生となると、ご自宅にいらっしゃるわけでしょう。女中さんなんか置いていらっしゃらないし、その夜の食事はお弁当を取り寄せて、それを皆に運ぶだけにしたところで、お茶を入れて下さったり、いろいろお手数がかかる。小さいお子さんも多いから、その内泣き出したり、おねしょをするのもあるしね。それでいて百首は、もう誰よりも早くつくっておしまいになる。それが皆、いいお歌なんだね。『奥さん、大丈夫なんですか。そんなことなすってて』と誰かが気にして言うと、『ハイ』とそれはもう鈴虫が鳴くような細くておきれいな声でお答えになって、さっさと書いておしまいになるんだ。」(p12~13)


三題噺として引用するなら、もうひとつ(笑)。

大岡信著「百人百句」(講談社)に鈴木真砂女の句が載っておりました。
ちなみに、この本が出た2001年は鈴木さんはまだご健在でした。

選ばれた句は

 春寒くこのわた塩に馴染(なじ)みけり  真砂女

さて、大岡氏の説明は

「・・鈴木真砂女の句には料理の素材を扱った句が多い。彼女自身、銀座の一隅で繁盛する小料理屋を経営し、自ら魚河岸まで材料を仕入れに行く生活を長年続けた人だからである。料理では新鮮な素材を客に提供することが大切である。これはいわば、季語の修練の場が、彼女の生活そのものでもあるということである。真砂女は、俳句の季語がもつべき実際的な力、つまり単なる特別の言葉ではなく、季語の一つひとつに生活感がきちんとあるのだということをあらためて思い出させてくれる俳人といってよい。・・・『春寒くこのわた塩に馴染みけり』という句も生活感からきている。『春寒く』という季語が生きてくるのは、『このわた』という、酒飲みにはこたえられない突き出しが、塩に馴染んでいるという感覚がぴったりくるからである。・・・」(p74)


そういえば、どなたかの随筆に、この繁盛する小料理屋で、俳句会をすると、つねに料理を運ぶ真砂女の姿があったのだそうです。そのなかでの句会を、あれやこれやと思い描くのでした。

う~ん。このようにして、
板坂元著「 発想の智恵 表現の智恵 」から
発想を学ぶことは多そうなのでした。
発想と表現のテキストを、
こうして、反芻しながら、たのしむよろこび。 
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