和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

大川小と釜石の小学校。

2011-07-15 | 短文紹介
中央公論8月号に
「なぜ大川小学校だけが大惨事となったのか」と題して菊池正憲氏が書いておりました。
副題には「津波で全校児童の七割が犠牲に」とあります。
大川小学校については、テレビで断片的に知らされていたので、具体的な様子を知りたいと思っておりました。
では菊池氏の文から

「海岸から四キロ離れた大川小には、もともと大津波が来ると想定していなかった」(p169)
宮城県石巻市の釜谷地区にある大川小学校です。
「市の防災計画やハザードマップでも、釜谷での大津波は想定されていませんでした」(p172)

助かった親子の言葉として、
「釜谷は300年以上、津波が来ていなかったと言われた地区で、五十年前のチリ地震津波でも被害はなかった。津波への警戒心は薄く、実際に地元住民も多数亡くなっているんです。あの裏山は急傾斜で、低学年の子では登れないと思います。私も息子もたまたま助かっただけです。・・・」(p171)

具体的な記述としては
「大川小は津波の際の市の避難場所に指定されているし、校庭に出るのがまずは最善と思われた。だが、この直後、現場にいた11人の教員たちは・・・このまま校庭に居続けるか、津波を想定して逃げるとすればどこに避難すれば良いのか、すぐに結論が出なかったのだ。校舎の西脇にある裏山に逃げるべきだとの声も出たが、『倒木や雪がある。余震も続いている』などと異論が出た。鉄筋コンクリート二階建てで高さが10メートルある大川小に屋上がなかったことも、選択肢を狭めた。・・・」(p167)
ちなみに、校長先生は不在だった。


畑村洋太郎氏の対談で、畑村氏は岩手県釜石市の小学校について、こう語っているのでした。

「釜石市の小学校では、群馬大学の片田敏孝教授の防災教育が見事に功を奏して、学校にいた児童は全員助かりました。児童たちに日頃から津波がどんなものかを自分の頭につくり上げる教育をした上で、『想定を信じるな』『その状況下で最善の避難行動をとれ』『率先避難者であれ』と教えてきたのです。児童たちは、自分の判断で真っ先に避難をした。
今回の津波は、想定を超えた津波によって備えが役に立たなかったという単純な話ではなく、詳細に見ていくと、やはり防潮堤があったこと、子供への教育や連作網があったことなどが被害を軽減した側面は大いにあるのです。・・・何が機能しなかったのか。それらの理由は何か。そういうことをきちんと検証していかなければなりません。」(p87・潮8月号)
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大槌稲荷神社。

2011-07-14 | 地域
潮八月号に畑村洋太郎氏の対談が掲載されておりました。
なんでも、最後にこうあります。
「本対談は、畑村氏が福島第一原発【事故調査・検証委員会】委員長就任前に行われたものです」。
こと地震津波に関しては、貴重な言葉が拾えるのでした。
ということで、畑村氏の言葉を丁寧に引用してみたいと思います。

「じつは15年ほど前から津波についての調査研究を三陸海岸の地域でやっていましたから、その被災地がどうなっているか非常に気になっていました。」

「15年前の調査のときに、鈴木亨(とおる)さんという大槌町の消防団の人と知り合っていました。ご承知のとおり、今回の津波で大槌町は甚大な被害を受けた。その鈴木さんと連絡がついたので、現地に行って話をうかがうことができました。
まずわかったことは、地震と同時に停電したために、緊急放送のスピーカーもサイレンも使えなくなったということでした。それで、消防団の人が物置から取り出してきた古い半鐘(はんしょう)を火の見櫓の上で叩いて、住民に津波が来ることを知らせた。新聞でも報道されていましたが、その半鐘を叩いた越田冨士夫さんという方は亡くなっています。実際に行ってみたら、消防団の屯所も火の見櫓も、跡形もなくなっていました。」

「話を聞くと、『車から出て逃げろ』と叫んでも出ようとしなかった人がたくさんいた。どうしても車の中にいると安心だという心理が働いてしまうのでしょう。もっと驚いたのは、消防団の人たちが『津波が来るから逃げろ』と言っても逃げない人がいたことです。・・・一概にどの町で何人が犠牲になったといっても、どういう場面で人がどういう判断をし、どんな行動を取ったのかということまで把握していかないと、本当の意味で防災とか減災には役立たないと思います。」

「・・・今回の津波は、想定を越えた津波によって備えが役に立たなかったという単純な話ではなく、詳細に見ていくと、やはり防潮堤があったこと、子供への教育や連絡網があったことなどが被害を軽減した側面は大いにあるのです。とりわけ消防団のような社会の預託を受けた人々のアクティビティが果たした役割は大きかった。そういうものがなければ、もっと甚大な被害を生んでいただろうと想像します。何が機能して、何が機能しなかったのか。それらの理由は何か。そういうことをきちんと検証していかなければなりません。」

「大槌町の人々が避難していた大槌稲荷神社に行ってみましたが、みんなで協力して炊事場も風呂場もトイレも造っていた。皆で村祭りをやってしまうような共同体のパワーなのです。いわば、日頃から共同体として働く訓練ができている。自衛隊と同じです。ああいう災害時には、政府の動きも大事だけど、現場の共同体の力があるかないかが非常に大きな差になると思います。」

話はかわりますが、7月16日は私の地区では神輿の渡御(とぎょ)があるのでした。
今日は神社の庭なぎで朝から旗竿を立てて、夜は神輿の歌と踊りの練習があります。うん。飲みます(笑)。
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率先避難。

2011-07-13 | 地域
畑村洋太郎著「危険な学校」(潮出版社)の最後に、こんな箇所がありました。


「昔、三陸では多くの人が津波で亡くなりました。1896年の三陸大津波における死者の数は約22000人にのぼり、これ以降、どこの地域でも津波の発生を想定して人々が一気に裏山に駆け上がる避難訓練を行っていました。ところがこの避難訓練の回数は、津波の被害の記憶が薄れるにつれて減り、以前は年三回行っていたのが、いまでは年一回になっています。再び大きな津波がこないかぎり、このままいくとそのうちに避難訓練がまったく行われなくなるかもしれません。これは誰が悪いとかそういうことではなく、もともと事故や災害の記憶というのは時間の経過によって薄れやすく、それとともに人々の備えがおろそかになっていくのは世の常なのです。・・・・・
津波の避難訓練の例でいうと、たとえば運動会などの学校行事に、裏山を一気に駆け上がる競技を取り入れることを私は提案します。子どもたちに意味合いをちゃんと教え、達成したときになにかしらのご褒美を与えるようにしたら、これは子どもたちにとって楽しい行事になります。そしてこれを何年、何十年もやり続けたら、その地域に住む大多数の人には津波から身を守る術(すべ)が自然に身についていくでしょうし、まさしくそれが津波の知識が文化になっている状態なのです。子どものときに教わったことは、大人になってからも意外と覚えています。・・・」(p198~199)

ちなみに、この本のあとがきの日付をみると、2010年2月となっておりました。

さてっと、潮8月号に畑村洋太郎・郷原伸郎対談「『地震・津波・原発』危機管理の失敗学」(p84~89)が読んで印象深かったのでした。
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我が国のこのたびの実例。

2011-07-12 | 他生の縁
産経新聞7月12日を読むと、菅直人を知るためのレッスンとなっておりました。総合欄「単刀直言」で鳩山由紀夫前首相は、こう語っております。

「菅直人さんは、私が首相のときに副総理として、何度も『厳しい局面に立たされたら、別の大きなテーマを示せば、そちらに国民の目が向いて局面を打開できるんだ』と進言してきました。・・・今も同じなのか、思い付きのように別の話をすっと作るのは上手です。・・・」


さて、「正論」欄は古田博司氏が書いておりました。
題して「民主主義なき市民運動の果てに」。

ところどころ、はしょって引用していきます。

「・・・2010年3月16日、参議院内閣委員会で、政治的指導力に関する自民党の古川俊治氏の質問に、当時、鳩山由紀夫政権の財務相だった菅氏は、あまりにも途中で政権が代わりすぎるのはよくない、よほどのことがなければ4年間任せるべきだとし、語弊があるかもしれないが、と前置きしながら、『議会制民主主義というのは、期限を切った、あるレベルの独裁を認めることだ』と述べていた。」

「・・・根本問題は、左派知識人たちが読み替え続けたイデオロギーに、そもそも民主主義が欠如していたことではなかったか。菅政権の支持率急落の契機は、2010年9月7日の尖閣諸島沖中国漁船衝突事件だ。国民の知る権利を途絶して『地球市民の平和社会』を守るべくビデオを隠匿、外務省を無視して中国当局と個別折衝に入るという驚くべき専横は彼らの言葉では『政治主導』だった。菅首相の場合は、『政治主導』は『独裁』の域に達してはいないか。東日本大震災で10万人もの自衛隊員に出動を命ずるのに安全保障会議を開かずに法律を無視、閣議決定を経ず関係省庁・電力会社にも通告せず突如、浜岡原発の停止を要請、被災地の国民支援に遅滞して訪問先の避難所で『もう帰るんですか』の怒声を背に浴びた。公論衆議を途絶する行為をわが国では独裁というのである。」

最後も、引用させてください。

「もちろん・・・市民運動派は今日の国民の権利意識を育んできた。
だが、運動が目的である運動家たちがひとたび国家権力を掌握したときに、民主主義から最も乖離した独裁を行うようになってしまうという我が国のこのたびの実例を思うにつけ、我が国の市民運動の基底にそもそも民主主義の概念があったのか、という疑念をどうしても払拭できないのである。」



ついでに、新聞一面「歴史の交差点」での山内昌之氏の文のこの箇所も引用。

「・・カリスマは、大衆を動員するのに慣習や手続きを無視し、あるいは合理的判断を必要としない政治的力量に恵まれているので、迅速な対応を必要とする危機的状況には有効な指導者とされてきた。
震災や原発事故を収拾できない菅氏は、人を魅了する資質に欠けるだけでなく、内政や外交の懸案に切り込むほどの豪胆さや政治的力量を持ち合わせていないため、顔をいくらこわばらせても滑稽な印象しか人に与えない。そもそも民主党内さえまとめられず、信服する党や国対の幹部もいない・・首相ひとりがカリスマであるはずもない。」

山内氏の文の最後は、

「カリスマ的人物は秩序を創造する感情の独裁者にもなれば、渾沌状態をいっそう悪くすることもある。ひょっとして菅氏のことだから、日本政治を無政府状態に追いこんだ【自己過信のカリスマ性】に酔って、独善的な脱原発解散に打って出ないともかぎらない。民主党の閣僚や党幹部も、そろそろ連袂(れんぺい)辞職など腹をくくるときが来たのではないか。」

うん。「連袂辞職」か。
ちなみに、「連袂」を辞書でひくと「(たもとを連ねる意)何人かの人がそろって同じ・進退(行動)をすること。・・」

そういう「民主党の閣僚や党幹部」がいるかどうか。
固唾をのんで待つ。
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とうとい。

2011-07-11 | 短文紹介
潮8月号が出ていたので、買いました。
ちなみに、中央公論8月号を注文。
週刊誌は、もういいや。買わないことにします。
潮には、内田樹氏が六ページほどの文を寄稿していたので、まず、そこを読んでみました。内田氏は、阪神大震災の被災者だったのですね。知りませんでした。そこをすこし引用。

「1995年の阪神・淡路大震災で被災したとき、私は住む家を失い、怪我を負ったが、翌日から大学の瓦礫撤去の土木作業に従事した。手で浜辺の砂をすくうようなエンドレスの労働だったが、再建作業に集まってきた教職員学生の顔は思いがけなく明るかった。人々はみな微笑みを絶やさず、互いに声をかけあい、気遣い合った。声を荒立てるものも、うるさく命令するものも、不満をかこつものもそこにはいなかった。・・・・手の付けようのないほどの混乱に遭遇したときには、まず自分の手元、足元を片づけるところから始めること。自分で決めたルールに従って、規則正しく、できれば機嫌よくその仕事を果すこと。それをそのときに学んだ。・・・」(p70)

この内田氏の文は印象に残ります。

印象に残るといえば、
毎日新聞7月10日「今週の本棚」。
若島正の書評はクラフト・エヴィング商会「おかしな本棚」。
荒川洋治書評のボルヘス「詩という仕事について」(岩波文庫)。
この二つの書評を読みました。
たとえば、荒川氏の書評に、こんな引用があります。

「『私は詩論のすべてを、一篇の詩を物するための単なる道具と考えています』といったことばも、とうとい。こんなことをさらりといってくれる人はいないからだ。」

「『自分が読んだものの方が自分で書いたものよりも遥かに重要であると信じています』も、読むことを支柱に生きた人のことばだ。」


「とくに新しい詩論が展開されているわけではない。それなのに読む人の視界が一気にひろがるように思えるのは、ボルヘスが他のことは切り捨て、だいじな点にしぼって確認しているからである。」

この岩波文庫も注文。
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将棋でいうと。

2011-07-10 | 短文紹介
米長邦雄・渡部昇一対談「生き方の流儀」(到知出版社)。
この対談の興味深いところは、この箇所でした。

「対談し始めると間もなく、あの大地震が起こった。われわれは、ホテルニューオータニの37階にいた。『大船に乗った気で』という言葉があるが、正に豪華客船に乗って大洋を航海するようなものだった。・・シャンデリアも大きく揺れて天井にぶつかりそうであったので、若い編集者がテーブルに上って押さえなければならなかった。その揺れは異常に長かった。・・・われわれはホテルの避難指示の館内放送を無視して対談を続けることにした。」(p1~2)

これが、大地震の直後でも続けられた対談だったと思いながら読むと、
また、違った味わいがあるのでした。
たとえば、こんな箇所。

米長】 ナポレオンが、「勝ったと思った瞬間が、最大の危機である」という名言を残していますね。つまり、金持ちになったと喜んでいてはだめなので、やはり「勝って兜の緒を締めよ」でなくてはいけない。
渡部】 ああ、それは反省の弁ですね。ナポレオンはこうもいっていますね。「どんな小さい戦争でも、負けた知らせはすぐ教えろ。勝った知らせは少しゆっくりでもいい」と。
米長】 ああ、それは素晴らしいですね。
渡部】 負けたときにはすぐに手を打たなければいかんということですね。
米長】 話が飛びますけど、昨年の総選挙で民主党が大勝して、衆議院に三百議席も持っているでしょう。勝った、と思ったでしょうね。なんでも好き放題にできるわけですから。でも、それが民主党にとっては最大の危機だったんです。鳩山首相が沈没して、菅さんだっていつまで持つかわからない。将棋でいうと、アマチュア初段以下というレベルでしょう。本来は、三百議席を持っているということは必勝形なのだから、負けるはずがない。少しくらいヘマをやってもどうってことはないはずです。・・・・(p195)



対談が終ってから、私たちは、そのアマチュア初段以下の指し手の、お手並みを見て過さなくてはならなかった。しかも、この指し手は、『なんでも好き放題にできるわけですから』まだ将棋を指したがっている。誰と指したがっているかといえば、相手にしているのは『市民』。現在進行形の原発問題でも、津波被害問題でもなく。背後に響く言葉は「ヘマをやってもどうってことはないはずです」。
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警報のサイレン。

2011-07-09 | 前書・後書。
注文してあった吾妻書房の福原麟太郎著「かの年月」が、今日届く。古本が500円と、送料が185円。福原麟太郎の日記です。
「この日記は昭和19年の10月から、翌20年の10月に至るもの・・」とあり、「前半20年2月末までのはこんど始めて発表するもの」とあります。
ちなみに、研究社の「福原麟太郎著作集 8」(随筆Ⅳ 日記・芸能)は昭和44年発行。そして、この吾妻書房「かの年月」は昭和45年。そのまえがきは、こうはじまっておりました。

「この間の戦争の最後の一年の日記を、ことによったら、何かの役に立つかも知れない、すくなくとも、一種の記録としては意味があるかも知れないと思って、まとめてみた。私自身驚いたことは、警報がいつ出て、いく解除になったかを、よくこんなに丹念に書きとめたものだということであった。どうしてその時間を覚えていたのか、思い出せない。メモに取った記憶もない。おそらく警報のサイレンを一つも聞き逃してはいけないものであるという意識につきまとわれていたに相違なく、また空襲がいかにしつこく、いかにそのしつこい繰り返しによって、われわれの神経を痛めていたかを語るものであろう。・・・・」

比較にならないのでしょうが、
つい、身近な地震や津波の警報を思い描いてしまいます。
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わが身とすみかと。

2011-07-08 | 短文紹介
今日など、風があってそれなりに涼しいのですが、なんせ汗をかきます。古典を読むのは、こんな時とばかりに、方丈記。ワイド版岩波文庫で。文章に涼しさを感じるのって、古典の強み。

「すべて世中のありにくく、わが身とすみかとのはかなくあだなるさま、又かくのごとし。」

うん。現代語の参考書をあらかじめ読んでいて、水先案内をしてもらったから、チンプンカンプンでも、何となく読み通せるような気がしております。わからないながらも、

「所、河原近ければ、水難も深く、白波のおそれも騒がし」なんて、わかりやすい箇所をひろってゆくだけの読みなのですが、それでも、短いなりに楽しめるような気がしてきました。短歌の密度を、随筆へ移行させたような文体とでも呼べるのでしょうか?その緊密さ、という味わい。こういう梅雨時には、簡潔さがありがたく読解をうながします。


「又同じころかとよ、おびただしく大地震(おおなゐ)振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾(かたぶ)きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。・・・都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、ひとつとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)にことならず。家の内にをれば、忽ちにひしげなんとする。走り出づれば、地われさく。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。・・」

その後に余震についても書かれておりました。

「しばしにてやみにしかども、そのなごりしばしは絶えず。世の常驚くほどの地震、二三十度振らぬ日はなし。十日二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、若しは一日まぜ(一日おき)、二三日に一度など、おほかたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。」

そして、これにつづく文も味わいがあるのでした。

というわけで、短く簡潔で、ときに読み直す古典が
身近にあると、いまさらながらに気づかされました。

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この非常時に。

2011-07-07 | 短文紹介
佐々淳行・渡部昇一対談「国家の実力」(致知出版社)を読んで、つぎに米長邦雄・渡部昇一対談「行き方の流儀」(到知出版社)を買ったところです。

佐々】 大学の頃、私は日本育成会の特別奨学生だったんです。17歳の時におやじが亡くなったから、どん底ですよ。奨学金がなかったら、たぶん大学には行けなかったでしょう。でも、あの頃の日本国はすごかった。敗戦の中から英才を育てようというので、公務員給与が月平均4200円の時に、4000円もらっていましたからね。東大の学費が一年間で3600円でしたから、奨学金で母親を養えたんです。その代わり、試験で一桁に残っていないと普通奨学生に格下げになるんです。だから自分には、日本育成会に恩になったという思いがありました。奨学金というのは私自身のことを何も知らない納税者のお金ですから、それに恩義を感じて『みんなのために役に立つ奉仕者になろう』と思うようになったんです。そんな時にたまたま高野先生の講義を聞いて、進路に警察庁を考えるようになり、結果的に、警察庁と防衛庁と外務省と内閣で仕事をしました・・・・」(p161~162)


「生き方の流儀」のまえがきは、渡部昇一氏でした。
そのまえがきに、福原麟太郎氏のエピソードが登場しておりました。

「対談し始めると間もなく、あの大地震が起こった。われわれは、ホテルニューオータニの37階にいた。・・・結局、われわれはホテルの避難指示の館内放送を無視して対談を続けることにした。・・こういうときに私の頭の中に浮かぶのは、福原麟太郎先生の『かの年月』という本だ。これは昭和19年10月1日から昭和20年10月20日までの一年間の日記である。つまり日本の敗戦が顕著になりはじめてから敗戦、それから戦争直後のゴタゴタの二か月間に至る一年間の生活記録だ。福原先生は英文学――当時の敵国の文学――の教授である。その福原先生とその周囲の人々、またその弟子たちがいかにその非常時に生きていたかである。福原先生は授業やゼミでは及ぶ限り平時の如く英文学を講じ、自宅でも読書をされている。空襲のために中断して防空壕に入ったり、登下校の電車が停まったり、弟子が出征したり、停電したりする。しかし先生は及ぶ限り平和時の如く勉強を続け、授業を続けようとしておられた。学徒勤労動員で軍需工業に行っている学生のためには、昼休みの時間にも英文学の話をしている。
当時の多くの人たちからは『そんなことをしてこの非常時に何になるのか』と思われたことであろう。しかし福原先生は国のお金で留学して英文学を研究する機会を与えられ、国から英文学教授として給料を与えられている。国から別の命令がこない限りは、本職の仕事を及ぶ限りやり続けるという御覚悟のようであった。
若い頃にこの福原先生の本を読んだとき、『自分がこんな非常時に遭うことはなさそうだが、何かあったときは、及ぶ限り先生の如く生きたいものだ』と思った。戦時に比べれば、東京のホテルで体験した地震などはとるに足らないことであった。しかしそのとき、頭に浮かんだのは福原先生の日記のことだったのである。自分が今慌てて何をしようと、誰のためにも、何の役にも立たない。眼前の仕事を続けるのがよいのではないか。米長先生も到知出版社の人たちも同じ気持ちで、対談は深夜まで続けられたのである。」(p3~4)
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若手を探してる。

2011-07-06 | 短文紹介
佐々淳行・渡部昇一対談「国家の実力」(致知出版社)の最初の章は「震災が明らかにした民主党政権の無責任さ」。そして最後の章に、こんな箇所がありました。

佐々淳行氏が、こう語っておりました。

「私はずっとそういう若手を探しています。・・・・というのも、もう少し時間がたつと、もっと切迫した危機が日本に起こるのではないかと考えているからです。そういう時に出てくる若手を探しているのです。」(p192)

そのすこし前には、こんな箇所も。

「玄葉氏に限らず、鳩山――菅内閣で要職に就いた若手の民主党議員について、共通していえることがあります。枝野・福山・細野・安住・原口各氏らいずれも野党時代はキラキラ輝いていて、将来どんなすばらしい政治家になるかと期待していました。でも、顕官栄職についてしばらくすると、みんな小粒になっていてガッカリしました。・・・すなわち直言諫争(かんそう)して総理・官房長官の過ちをただし、結果的に総理に、政府にプラスをもたらすという補佐官魂が、日に日に失せて自己保身になっていったのです。・・」(p188)


この本を、あらためて、最初から読み。
教えられ、納得しながら、読みすすめました。
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真剣な関心事。

2011-07-05 | 地域
「正論」8月号。そこに、古森義久の文あり。
そこから、引用。

「米側の大手メディアは徹底した検証報道を続けてきた。この熱心さは当然ながら日本の政治や政治家としての菅氏への関心ではない。日本の政府の原発事故への対応上のミスや不備はアメリカにとって、重大な他山の石である。日本が原子力発電の不測の事態にどう対応したかはアメリカ全体にとって真剣な関心事なのだ。
この角度からの米側の報道ではニューヨーク・タイムズ6月13日付の東京発の長文の記事が象徴的だった。・・・記事の要旨は次のようだった。『原発が水素爆発を起こしてすぐ、菅首相は原子炉の冷却に海水を注入することのリスクについて補佐官たちに質問した。菅氏は自らの政治経歴を産業界と官僚の癒着に疑惑を抱くことによって築いてきたともいえる。そのうえに東京電力への深い不信を抱いていた。だから海水の注入についてもどの報告をも信用せず、その結果、確実なことはなにもわからない状態にあった。・・・・・菅首相は首相府に1986年から存在した危機管理システムの【内閣安全保障室】(後に「安全保障・危機管理室」)を無視することを決めた。そのかわりに各省や民間から自分で選んだ少人数のアドバイザーの集まりに危機への対応を任せようとした。だがこのアドバイザーたちはこの種の危機対応の経験が少なく、危機管理の手段の全体像をつかんでもいなかった。その結果、菅首相自身が原発関連の危機の深刻さや規模をきちんとつかむことができなかった』
その種のレポートがきわめて詳細に、しかも当事者たちからの直接の取材をもとに書かれていた。このニューヨーク・タイムズの記事から浮かぶまず最大のイメージ、というより実像は、やはり菅直人氏の欠陥であり、過誤だった。こうした菅氏の危機管理上での遅れや過ちは、ワシントン・ポストでもワシントン・タイムズでも同様に細かく報じられた。そのうえでの今回の不信任決議案の騒ぎだったのだ。だから米側のメディア全体の論調がきわめて辛辣で冷淡であることは当然の帰結でもあった。」(p71~72)


現代版大本営発表である、NHKや朝日新聞を見ているだけでは、この米側メディアの報道検証が伝わらずに、モヤモヤとぼかされるのであります。報道から「真剣な関心事」を選ぶこと、それが痛感されるのでした。
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子供の眼

2011-07-04 | 地域
短歌で、気になっていたのがあります。

 日本語の すでに滅びし 国に住み
        短歌詠み継げる 人や幾人

これを最初に読んだときに、
私は、水村早苗著「日本語が滅びるとき」(筑摩書房)の題名を連想してしまったので、この国というのは、ひょっとして日本国のことかと、思ったりしたのでした。でもこれ「台湾短歌」のサイトの始まりにある短歌。

話題をかえます、
吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)の第二章「昭和八年の津波」のなかに、「子供の眼」という箇所があり印象に残っております。
今度出た新刊「つなみ 被災地のこども80人の作文集」文藝春秋8月臨時増刊号は、この大津波を体験した小学生・中学生を中心に作文を掲載しております。地区別に掲載されているので、私ははじめて、どの地区がどのようだったのかの様子がわかった気がしました。

たとえば、石巻市の大街道小学校四年水越咲良さんの作文に

「いつもと変わらぬ教室で六時間目をむかえた。・・・・私は最初、父が来た。でもその日は父は当直の日で、ちょっと話して、すぐに行ってしまった。その後に母が来た。母は一緒に住んでいたおばあちゃんをむかえに行くため、戻った。その後だった。津波警報が放送で流れたから、二階に行った。そのとき何気に見た窓から、家とのすき間から水がサーとくるのが見えた。友達は『水だ!』とさけんでいた。次に三階の家庭科室に行った。すでに窓から見た体育館は水が入っていた。校庭もすべり台の上ぐらいまで来ていた。・・」(p62・難しい漢字は、ひらがなで書いてありましたが、それを直しておきました)


名取市 宮城県農業高校一年永山晶尊さんの文には

「小学校に着き、妹の教室に向かうと妹がそこにいた。・・家族全員が無事でいることを知って安心したのもつかの間、自分の耳に信じがたい言葉が入ってきた。『津波だ、津波がくるぞ、逃げろ、逃げろ』、自分は突然の出来事に言葉が出ずその場から動くことができなかった。すると母親が『早く逃げろ』というのだ。するとあれだけ言うことをきかなかった体がやっと言うことをきいてくれたのだ。・・・屋上にいてもなんら安心感はなく、このまま学校も津波で流されてしまうんではないかという不安で頭がいっぱいでした。」(p40)


この臨時増刊号の「はじめに」は森健氏が書いておりました。
題は「『子供の眼』が伝えるもの」。
そこに、こうありました。
「ヒントになったのが故吉村昭氏の『三陸海岸大津波』だ。同書は過去三度の津波被害を丹念な取材で記録した作品だが、その中に『子供の眼』という章がある。・・・・」(p11)
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幅書店の本棚。

2011-07-03 | 短文紹介
新刊を買うときに、ついでに気になる本を、つい買ってしまいます。
ということで幅允孝著「幅書店の88冊 あとは血となれ、肉となれ。」(マガジンハウス)が手元にあります。
たとえば、
「結局のところ、本屋で本を積んだり、平台のタイトルを並び替えたり、面陳列(本のカバーを見せる並べ方のことです)を取り替えたりしている作業中が、僕も確かに最も落ち着くのだ。」(p184)こうはじまるのは、エリック・ホッファーの2冊を紹介する文のはじまり。
あとがきにかわる「感謝の言葉」の日付をみると、2011年5月25日とあります。
その「感謝の言葉」の次のページに引用文があったりします。
そこも引用してみますね。

「 本を読む人の美点は、情報収集力にあるのではない。
  また、秩序だて、分類する能力にあるわけでもない。
  読書を通じて知ったことを、
  解釈し、関連づけ、変貌させる才能(ギフト)にこそある。
     アルベルト・マングェル『図書館 愛書家の楽園』」

そうそう。
花森安治著「一銭(銭の左の金なし)五厘の旗」を紹介する文には、

「2011年の大震災で平常を失った僕らが、いま読むべき一文だとも言える」(p57)
ところで、そのあとに続けられる花森氏の引用文がありました。
そこをちょっと引用。


「 ・・・・・
  民主々義の[民]は 庶民の民だ
  ぼくらの暮しを なによりも第一にする ということだ
  ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら
  企業を倒す ということだ
  ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら
  政府を倒す ということだ
  それが ほんとうの[民主々義]だ
  ・・・・・・・・         」

2011年の大震災のとき、民主党が政権をとっておりました。
こういう場合「政府を倒す」とは、どういういことなんだろう。
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方丈記・人間地震。

2011-07-02 | 地震
岩波文庫「方丈記」を読んでも、ちんぷんかんぷん。
ということで、三省堂の新明解古典シリーズ「大鏡 方丈記」(監修・桑原博史)をひらく。本文に続く解説欄を読んで納得しながら、分かった気分。つづいて堀田善衛著「方丈記私記」をぱらぱらとめくっておりました。

ということで、とりあえず手にとったのは
 岩波文庫「方丈記」
 新潮古典文学アルバム「方丈記・徒然草」
 三省堂新明解古典シリーズ8「大鏡・方丈記」
 堀田善衛著「方丈記私記」


ここでは、堀田善衛の本から

「・・・長明の青春は惨憺たる時代におかれたものであったとは、言って過言ではない。はじめの火事騒ぎは、長明25歳の時、その次の大風は28歳の時、都遷りという祭事的災禍の時は同じく28歳、大飢饉は29、30歳の時、最後の三ヵ月にわたる連続大地震は、33歳の時である。この間の戦乱、群盗跋扈などの不安はさておくとしても、これらのすべては平安期という一つの大時代が地底から揺り動かされ、音をたて砂煙をまきたてて崩壊して行くことの、一つ一つの表徴なのでもあった。・・・この連続大地震の政治・社会のこととしての背景として記しておかなければならいのは、前々の福原遷都事件の年の8月には頼朝挙兵のことがあり、二年連続大飢饉の間を通じて源平の戦いが断続的に行われ、木曽義仲までが横から暴れ込んだりして、元暦二年(文治元年)7月9日正午の大地震までの間には、平家はすでに完全に滅亡して5月には建礼門院右京大夫は出家し、頼朝と義経の間柄は、すでに、次第に雲行きが怪しくなっているのである。朝廷は右往左往、義仲、平家、頼朝などにほとんど交替交替にあいつを討てと命じ、宣旨の取消しがなかったとしたら、誰と誰と誰がなぜ戦っているのかわけがわからなくなる。しかもなお、そういう乱戦の間を通じて若き定家の父俊成は、千載和歌集の撰をつづけているのである。・・・・政治はあたかも第二の人間地震でもあるかのように、『大地にいたりては異なる変をなさず』どころか、二重地震が、地と人間の双方を揺すぶりかえしている様がありありと見えて来る。・・・」(「四、古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず」)

「・・・『世中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。』というところへかかって行くものであったからである。水の話や泡の話ではない、人の住む住居の話なのであった。人の世の無常は『ゆく河の流れ』や『淀みに浮ぶうたかた』に托されているのではなく、それをうけた人と家、住居に托されているものであった。」
こうある「八 世中にある人と栖と」の章も面白いなあ。仮設住宅というか、組み立て住宅の話になってゆくのでした。
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上目遣いに。

2011-07-01 | 地域
週刊新潮7月7日号に
「『民主党』の未熟を津々浦々に知らしめよ 今は辞めるな『菅総理』!」という3ページの特集。気になる題名なので、買って読みました。
はじめにこうあります。
「・・・自民党を激怒させて、信頼関係を崩しておきながら、野党との協議が不可欠な法案の成立を辞任の条件に掲げたわけである。・・・」

政治アナリストの伊藤敦夫氏の言葉。
「菅さんを支えるべき内閣と党の幹部らがこぞって【総理の退陣時期を話し合っう会合を開く】なんて、こんな悲惨な政党を私は見たことがありません。民主党は完全に【学級崩壊】してしまっている。」

ジャーナリスト高山正之氏の言葉。
「高山氏は突き放す。『すべての原発が止まれば、産業は立ち行かなくなり、日本は間違いなく停滞します。しかし、それもいいかもしれない。平和憲法や反原発が良いと考える国民にはとことん痛い思いを味わわせるしかない。戦後60年以上経っても、未だ気づかないわけですから。多くの学者やマスコミが菅首相にならい、反原発を煽っているのがその証拠です。国民が日本人として覚醒するためには、本当に堕ちるところまで堕ちるしかないかもしれません』」

ここに、上目づかいの総理の写真が掲載されておりました。
そういえば、谷沢永一と会田雄次の対談「阪神大震災でわかった日本人の苦い側面」での言葉が浮かんできます。そこを引用。


会田】 出世するのは・・・こっそり上目遣いにどこによいエサがあるかを見ている・・人間。そんなのが非常事態に役に立たないのは当然です。
谷沢】 ついに日本は非常事態に対応できない国に成り下がってしまいました。日本がとことんまた貧乏になって、アジア諸国のなかで、どこかに追いつかなければならないというようなことになったら、はじめて有能な人を探すでしょう。そこまでいかないと、絶対にだめだと思う。


うん。これはここまで。
そういえば、方丈記。
あれは実体験だったそうですが、どのようだったのか

「作者の十代後半から【方丈記】執筆の現在に到る間に実体験した、都に起った五大災厄を記す部分。即ち、安元3年(1177)4月、都の三分の一が灰燼にきした大火、続いて治承4年(1180)4月、中御門京極辺から六条辺まで、約3キロ近くも吹き抜けた辻風、また同年6月に突如敢行された福原遷都による都の混乱と荒廃、ついで養和元年(1181)から2年にかけての大飢饉、それに元暦2年(1185)の、山は崩れ、津波が襲い、土は裂け、余震が数ヵ月も続いた大地震がそれである。・・・」(「新潮古典文学アルバム12 方丈記・徒然草」より)

うん。短いくせに、やけにチンプンカンプンの方丈記を、ここらで、ひらいてみます。
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