和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

大阪弁で書き。

2019-06-18 | 本棚並べ
新聞は見出しだけで、
すぐにテレビ欄を見る私です(笑)。

けれど、ときどき、残しておきたい記事がある。
産経新聞2019年6月17日の文化欄は「追悼田辺聖子さん」
とあります。中西進氏が追悼談を載せておられます。
ここでは、横山由紀子さんの文。

「・・作家、田辺聖子さんが6日、91歳で亡くなった。
大阪に生まれ、大阪弁で書き、『東京へは行かへん』と
関西に居を構え、宝塚歌劇の大ファン。大阪を愛し
続けた人生だった。・・・」
こう書き出しておられました。

そういえばと、本棚をさがす。
司馬遼太郎氏な亡くなった際に、追悼文を読もうと、
雑誌の特集がでると、買ったりしておりました。
それも一段落したなあと、思っていたら、
日本エッセイスト・クラブ編の
97年版ベスト・エッセイ集が出たのでした。
別に買う気もなかったのですが、
題して「司馬サンの大阪弁」(文藝春秋)とある。
ベスト・エッセイの中の一篇の題名なのでしょうが、
気になり注文したのでした。
けっきょくは、その一篇を読んで本棚へ(笑)。
あらてめて、それを出してくる。

その「司馬サンの大阪弁」というエッセイは
田辺聖子さんが書いておりました。
はじまりは、

「司馬サンがふだんは砕けた大阪弁を使われた、
というと、(えーっ)と若いひとたちはいう。
・・・エラい大作家は、気楽な大阪弁など使う
はずはない。という気が退(の)かぬようである。

私といえば、
昔から司馬サンの大阪弁に親昵しているために、
司馬サンのどんなご本を読んでも、その底音に、
やわらかな、品のいい大阪弁がひびいているような
気がしてならぬのである。・・」

こうはじまる8頁。
うん。結局、買っておいてよかったのかなあ(笑)。
こうして、再読して感銘をうけている。
本文は、このあとがメーンなのですが、
今回は、ここまで。

もどって、新聞の中西進氏(談)とある文は、
こうはじまります。

「なにわ言葉で庶民の生活感覚や心情を
巧みに描き続けた『おせいさん』こと
田辺聖子さんは・・・」

そして、談話の最後はこうでした。

「・・多くの人から愛され、人を魅き付ける存在だった。
かくいう私も、大阪樟蔭女子大から
『生徒を集めるアイデアを』というオファーを受けたとき、
『そりゃ、大先輩の田辺聖子さんを生かすことでしょう』
と答え、その結果として、開館から10年ほど
田辺聖子文学館館長を務めてきた。
なにわ言葉を愛し、生涯を関西で暮らし、
宝塚好きという愛すべき『おせいさん』の
ご冥福を心からお祈りする。」


この中西進氏が田辺聖子さんの2冊を紹介しておりました。
それも、引用して、いつかは読もう(読めなくてもね)。

中西さんがとりあげた一冊目は、

「たとえば『姥ざかり花の旅笠』は
江戸・天保期の仲良し4人組の50代女性たちが、
わいわいと伊勢や善行寺、そして日光へと旅をする。
とても面白おかしい小説だけれども、
単なる娯楽小説にとどまらず、江戸文化を背景に、
中年女性の生き生きとした姿を、ひとつの
ストーリーに乗せて新鮮に描いている。

二冊目は、

「川柳に生涯をかけた岸本水府とその盟友たちを描いた
『道頓堀の雨に別れて以来なり』も名作。
笑いの文芸である川柳はとくに大阪で人気があり、
田辺さん自身も深い造詣と愛情があった。
いや、そもそも川柳自体が田辺さん風と言ってもいいだろう。」

うん。この二冊。
たとえ、読めないとしても、
私の読みたいリストに入れておこう(笑)。


ああ、最後に「司馬サンの大阪弁」から、
この箇所も忘れずに引用しておかないとね
それは司馬さんの大阪弁を語る箇所にありました。

「その大阪弁も品よく(というのは、
どこの方言もそうだろうけど、ことに都市としての
歴史の古い大阪弁は、ガラが悪くなると
どんどん悪くなる、その段階の刻みが多い)・・」
(p153)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

88歳の梅棹忠夫。

2019-06-18 | 本棚並べ
「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ新書)。
「梅棹忠夫に挑む」(中央公論新社)。

この2冊を本棚から出してくる。
どちらも、年齢は、88歳の梅棹忠夫氏。

「梅棹忠夫語る」は、2010年9月発売。
はい。私は、新聞か雑誌の書評で知り、新刊で読みました。
内容はテンコ盛り、私は満腹感だけで、そのままに本棚へ。

今回、あらためて本棚からとりだす(笑)。
「梅棹忠夫語る」の最後は、
梅棹忠夫略年譜で、年譜の最後はというと、
「2010年(平成22)7月3日 老衰のため自宅で死去。」


さて、「梅棹忠夫に挑む」のまえがきは、
ご自身が書いております。そこから引用。

「・・わたしの米寿に際して、
わかい友人たちがおいわいの会をひらいてくださるという。
それを、パーティーなどで飲みくいの席におわらせては
ざんねんであるとおもい、わたし自身をまないたに乗せて
議論をしたらどうかと提案した。
その結果、2008年6月1日に、大阪千里でわたしの
米寿の記念シンポジウムというのがひらかれた。
・・・・
わたしも年とともに、体力のおとろえを自覚している。
つづいて、気力がそれ相応によわくなってきた。
ただ知力は、まだそこそこあるつもりだ。・・・
遠慮せずに、わかい諸君はこの老いぼれにつぎつぎと
いどみかかってほしい。これがいまのわたしの
心からのねがいである。・・・」


新書「梅棹忠夫語る」の「はじめに」は
小山修三氏が書いております。そこからも引用。

「・・若い頃から『月刊みんぱく』(国立民族学博物館
の広報)の編集長として、館長対談に同席して
鍛えられたのだが、館長時代はどうしても公的で
アカデミックな枠を出ない発言だったと思う。
館長職をひいてからは、館内の梅棹資料室で、
・・整理、執筆のほか・・ときおり訪ねてくる
ふるい友人との話・・・ところが2004年から
つづけて大病を患い、再起が危ぶまれるほどだった。

さいわい小康をえて、
2008年に『米寿を祝う会』を・・
やろうという計画がもちあがった。ただし、
体調に不安があるので、まえもって私が聞き取りをして、
梅棹さんが来られない場合は、それを読み上げるという
次善の策を考えた。そのために2008年2月から、
週一回の聞き書きを始め、回数は15回におよんだ。・・」


さて、こんな箇所も。

「梅棹さんは、第二次大戦後の日本のゆくえを見据え、
世論をリードしてきた人の一人だった。
そんな人の現役をひいたあとの自由闊達な話しぶりは、
たとえば勝海舟の『氷川清話』をはじめとする語録に
見られるように、痛快であるとともに、
時代の証言として重要なものだ。・・・」


小川氏の「あとがき」も引用しなきゃ。


「梅棹さんには23巻におよぶ著作集がある。しかし、
一般人にとってはあまりにも量がおおく、
分野が多岐にわたり、高価すぎる。
もっと手にとりやすい本で、現代日本人への
メッセージを語ってもらいたいと考えた。
・・・・」(p217)


「高価すぎる」、梅棹忠夫著作集全23巻は、
それから9年たち、古本で安く買えました。

購入した著作集を忘れるようなら、繰り返し、
痛快な語録の「梅棹忠夫語る」をひらきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都ホテルと、知的世界。

2019-06-17 | 本棚並べ
身近に本棚から、京都が見つけられるとうれしい。

桑原武夫著「昔の人 今の状況」(岩波書店・1983年)

そこに、こんな箇所。

「ノーベル賞の経済学者、F・A・ハイエク博士が1978年の秋、
今西錦司と三回の対談をもつために来日したとき、世話役を
ひきうけていた西堀栄三郎と私は、ある晩、博士の宿舎であった
都ホテルに京都の学者たちを招いて、歓迎のレセプションを開いた。

吉川幸次郎が来てくれたのはよかったが、
何がきっかけであったか、西堀と口論をはじめてしまった。

国際的な中国文学の権威で、日本人として有史以来最も多く
の漢籍を読破した人と噂される吉川が、
世の中に本ほど尊いものはない、読書こそ人生最高の喜びだ、
と言ったのを聞きとがめて、
日本山岳会会長であると同時に、品質管理学の第一人者として
日本の貿易振興に最も貢献した西堀がからんだのである。

何をなし、何をつくるかが肝心なので、
本などなくてすめばそれにこしたことはない、
などと言いだしたのだから、もめるのが当然だ。

どちらもお酒が入っているのだから、ひっこみがつかない。
信念のぶっつけ合いからは何も生まれないことを知っている私は、
なかに割り込んでなんとか収めたが、記憶に残る一場面であった。

この二人を両極として、
その間に京都大学の知的世界がひろがっているのだなと思った。
上山春平、梅原猛、多田道太郎、川喜田二郎、梅棹忠夫などの
思想家がそこから輩出した。思想とは、ここでは
自分の専門領域を超えて広い世界について
独自の考えを示しうる人のことである。・・・」
(p68~69)


西堀栄三郎といえば、
桑原武夫著「人間素描」(筑摩叢書)に
「いま彼は南極の烈風と氷雪の中にいる。」
という言葉がある1957年6月に雑誌に掲載された
「西堀南極越冬隊長」という文がありました。


はい。両極の一端が、南極だったりします(笑)。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この日を記憶しておいてほしい。

2019-06-15 | 本棚並べ
小山修三氏が聞き手になった
「梅棹忠夫語る」に、

小山さんが、梅棹忠夫著作集への
司馬遼太郎氏の推薦文を引用した箇所があります。
それを引用したあとに、

梅棹】それはそういう評があたっている。
学問と思想のあいだを自由に往来した。
学問と思想と、ひとつでふたつ。
司馬遼太郎には見えていたんやな。・・・

小山】思想は学問じゃないのですか。

梅棹】学問から思想は出てこない。
   思想から学問はあるな。(p121)


さて、
梅棹忠夫氏の中国感を、思い描ける箇所、
「中国を信用したらアカン」思想の場面。

梅棹】わたしは2年いたから、中国のことはよく知っている。
それから後も、中国30州を全部歩いている。そこまでした
人間は、中国人にもほとんどいないと言われたけど、
わたしは全部自分の足で歩いている。
向こうで生活していてわかったんやけど、
中国というところは日本とはぜんぜんちがう。
『なんというウソの社会だ』ということや。
いまでもその考えは変わらない。・・・
ウソと言うと聞こえが悪いけれど、
要するに『表面の繕い』です。
まことしやかに話をこしらえるけれども、
それは本当ではない。

小山】梅棹さんは『中国を信用したらアカン』
と言ってましたね。

梅棹】いまでもそう思う。・・・・
(p31)

はい。この思想から、学問を組み立てられる?
ところで、
6月といえば、中国の天安門広場が思い浮かびます。

ここには、諸君!に連載された「紳士と淑女」から
引用してみます。1969年8月号(89年6月)の文に

「厳戒軍司令部は、はじめ天安門広場の学生死者を
23人だと言っていた。中国政府は6・4虐殺から
1日おいて6日には『兵士、暴徒および野次馬』の
死者は300人だと言った。
また7000人が負傷し、うち兵士の負傷者5000人、
それとは別に行方不明が400人だという。
しかし十カ所の病院に電話で問い合わせた
一医師の話では、少なくとも500人が死んでいる。
紅十字の情報では死者2600人。
 ・・・・
いまでは中国政府スポークスマンは、
学生の死者はゼロだったと言っている。・・・・

死傷者少数と発表されたラサの反乱鎮圧も、
同じようなことなのだろう。十二億もの民がいる
中国・・数字は著しく伸び縮みする。
いったい中国政府の数字の詐術を見た者は、
どうして南京虐殺30万説を信じ得よう。
・・・・
(p510.「紳士と淑女 人物クロニクル1980‐1994」)

それにひきかえ。
と指摘するのは「産経抄」1989年6月7日。

「それに引きかえというのも何だが、
わが日本の中国報道にはこれまで
みっともない過去がある。
文革礼賛記事にしろ、林彪失脚否定報道にしろ、
北京の顔色をうかがい、中国べったりの
『土下座政策をとった』(ギブニー著「人は城、人は石垣」)。
中国に屈服することを拒否した新聞の特派員は追放され、
北京に駐在する新聞の紙面は、
中国礼賛記事で埋まったのだった。

その状況は毛沢東時代から鄧小平時代に
移っても変わることはなかった。
恥ずべきことは・・・」
(石井英夫「クロニクル産経抄25年」・上p397)


ちなみに、この日の産経抄のはじまりは

「中国はどこへ行こうとするのか、
北京は混乱し、情報は交錯しているが、
『北京放送』英語アナウンサーの勇気ある
反抗報道に感銘を覚えた。
『1989年6月4日、この日を記憶しておいてほしい‥』。
そう前置きして、『中国の首都北京に重大な
虐殺事件が発生しました』と世界に向かって
語りかけ、血の弾圧の模様と状況を細かく伝えた。
・・・・」





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それは本当ではない。

2019-06-15 | 本棚並べ
日経プレミアシリーズ新書の
「梅棹忠夫語る」(聞き手・小山修三)。

そこに中国が登場する。


梅棹】 わたしは二年いたから、
中国のことはよく知っている。
それから後も、中国30州を全部歩いている。
そこまでした人間は、中国人にもほとんどいない
と言われたけれど、わたしは全部自分の足で歩いている。

向こうで生活していてわかったんやけど、
中国というところは日本とぜんぜんちがう。
『なんというウソの社会だ』ということや。
いまでもその考えは変わらない。
最近の経済事情でもそうでしょう。・・・
ウソと言うと聞こえが悪いけれど、
要するに『表面の繕い』です。
まことしやかに話をこしらえるけれども、
それは本当ではない。

小山】梅棹さんは『中国を信用したらアカン』
と言ってましたね。

梅棹】いまでもそう思う。
しかし、ある意味で人間の深い心の奥にさわっている。
人間の心の奥に、おそろしい巨大な悪があるんやな。
中国にはそれがある。
それでも中国は道徳的世界やから、表面を繕ってきて、
でっちあげたりする。コテコテ文化やな。
ヒンドゥーはこの道徳的世界とはまったくちがいます。
ヒンドゥーはむき出し、人間の一番いやなところ、
おそろしいところが目の前にある。
(p31~32)

ここの最初の方に、
「・・全部自分の足で歩いている。」
とありました。
足といえば、この新書にこんな箇所。

梅棹】・・・学問とは、ひとの本を読んで
引用することだと思っている人が多い。
それで、これはむかしの京大の教授だけど、
講義のなかで、わたしを直接名指しで、
『あいつらは足で学問しよる。学問は頭でするもんや』
って言ってた人がいた。頭でするもんやということは、
ひとの本を読めということやな。
『あいつらは誰も引用していない。こんなのはだめだ』
と。そういう言い方を講義のときにしたという
話を聞いたことがある。

小山】そういう雰囲気があったんですか。

梅棹】あるある、もう、ひじょうにある。・・

小山】(笑)しかし、引用しないで論文書くというのは、
むずかしいですね。『梅棹さん』の研究をしようと
したら、引用しなきゃならないんですよ。
梅棹忠夫研究ってやると、みんな、
引用して振りまわされてるでしょ。

梅棹】ああ、そうやね。

小山】『引用なんかするな』と言ってる
梅棹さんのことを研究するときに、
その引用で振りまわされてしまう矛盾
・・・・あ、これ、おもろいな。
(p105~106)


はい。このところ当ブログでは
梅棹忠夫を引用しておりますので、
『・・あ、これ、おもろいな。』という言葉の、
味わいを、ようやく理解できたような気分です。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『さん』づけもいかん。

2019-06-14 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「山をたのしむ」(山と渓谷社)。
登山部の京都と関東とを比べた対話の箇所。


小山】 ・・人間関係がずいぶん絡んでくるでしょう?
軍隊式登山部にはものすごく批判的ですね。

梅棹】それはそうや。われわれは軍隊式とはまったくちがう。
その点で関東のはいかん。

小山】こんどは関東か(笑)。

梅棹】関東のそういう学生団体の
上級生と下級生の関係は、京都とは全然違う。
第一、わたしら三高やったけど、三高山岳部においては、
新入生からいきなり、先輩にいっさい敬称を使ってはいけない。
敬語を使ってはいけない、『さん』づけもいかんと。
全部呼び捨てです。
北アルプスやら行くと、関東の山岳部の連中がやってくる。
下級生が一番重い荷物を背負って歩いている。・・・
この気風は少なくとも京都には全然ない。

梅棹】わたしがわからんのは、山へ行って、
どうしてしごきが成り立つのか。登山は、一番、
しごきから遠い世界やと思うんやけれど。

藤木】わたしも関学の山岳部の新人のころは、
ピッケルで殴られたり、ものすごくしごかれましたよ。

梅棹】へえ。

藤木】そんなもんや、と思うから、
つぎに後輩が入ってきたら、同じことをやるわけ(笑)。
 ・・・・今はないですけれど。

小山】わたしが驚いたのは、
民博に入った時、梅棹さんが館長で、
議論の時はみんな平等だ、
助手でも教授でも同じだと言ったことです。
そしてこの人がまた議論に強い。
結果的にシゴキだった(笑)。
本当に対等に議論するんです。
ふつうは、お前ら駆け出しにわかるか、
と押さえてくるんですが、
このかたは一切そういうことがない。
それが山の精神ですか(笑)。
 ・・・・

梅棹】山の精神や。
わたしらも学会で何人もそういうふうな学者と接した。
 ・・・・くやしかったら議論せい、と。
議論して負けたら、先輩といえども負けは負けや、あかん。


小山】あれは、日本としてふしぎな世界でしたね。・・
(p196~198)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都の修験道の先達。

2019-06-14 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「山をたのしむ」(山と渓谷社)。
うん。ここも引用しておきます。


江本嘉伸氏が聞き手です。
中学時代の話になります。

梅棹】・・・三年のときはもっぱら京都、
北山におりましたが、四年生のときに
三人の仲間とともに大和、つまり紀伊半島の
山へ行っているんです。まず台高(だいこう)山脈。
『台』は大台ケ原、『高』は高見山。
高見山、国見山を通っていっぺん下りて、
それから大台ケ原に登る。そこからまた下りて、
今度は大峰山系に取りかかるんです。
大峰山系といったら大きな深い山です。
 ・・・・
大峰山というものは不思議な存在でして、
これが日本における山岳宗教で修験道の中心です。
・・・
これのひとつが現在でもちゃんと生きておりまして、
本山派という派があります。
京都の聖護院がその本部になる。それから、
当山派というのは京都の醍醐寺です。これらが
大峰山を中心に展開しているんです。

わたしの父はその聖護院派、本山派の
いわゆる先達(せんだち)でした。
先達というのは、今でいうリーダーですね。

何度か大峰山に行った経験を積むと、
聖護院から先達という称号をもらうんです。
先達は市民たちの登山団体を組織して引っ張っていく。
私の父はこれをやっておりました。
ちゃんと行者の装束とつけて、
何年かにいっぺんは山へ行っておったのを覚えております。
 ・・・・
わたしの父は元鱗組という組で、
それのリーダーでした。多分、江戸時代に
始まったものだと思います。
・・・市民の中の登山団体なんです。
京都は当時すでに大都市ですから、
その大都市の市民の組織した講があった。
その講が大衆を連れて山へ行くわけです。
 ・・・・
これは世界的な傾向ですけれど、
山に住んでいる人は山へ行かない。
登山というのは必ず大都市で始まるんです。
・・・・
日本も同じことです。
だいたい信州の人は山へ行かない。
今はだいぶ行っていますけれど、
多くは京都の人です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都の北山。

2019-06-13 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「山をたのしむ」(山と渓谷社)。
そのあとがきには
「本書は、『著作集』の刊行以後、
ここ15年ほどのあいだに発表したもの
がほとんどである・・・」(p359)

とあります。
この本から引用。

「京都は三方を山にかこまれた盆地である。
東に比叡山(848㍍)がたかくそびえ、
大文字山から東山三十六峰がつづく。
西には愛宕山(924㍍)が
くろくおおきい壁をつくり、
それに西山連山がつらなる。
そして比叡山と愛宕山のあいだ、
つまり京都の北側いっぱいにひろがっているのが
北山である。
わたしは幼年のころから、
毎日これらの山やまの姿を見てそだった。

1932年、わたしは京都府立京都第一中学校
(京都一中)に入学した。現在の洛北高校
である。その三階だて校舎の屋上にたって
北をながめると、北山の連山のかさなりが
手に取るようにわかる。わたしはそれらの
峰みねを五万分の一地形図上に同定しながら、
あかずながめていたものである。・・・」
(p21~22)

ここからが本題なのに(笑)。
ここまでにして、
もう一箇所引用しておきたいところへ。

この本の最後には、小山修三氏との対談。
対談解説にこうあります。

「ときどき民博へ来てはしらべものをし、
わたしのところにも顔をみせておしゃべりをしてゆく」

「本書を出版するにあたり、・・・
山と探検をテーマにして、
小山氏と習慣のようになった対話を再開した。」
(p310)

はい、この対話のなかに、こんな箇所


梅棹】 ・・わたしも、子どもの時から、
その洗礼を受けています。
うちの親父が修験道の先達(せんだち)でした。
先達というのは山ゆきのリーダーで、
二、三派があるけれど、親父は聖護院派でした。
うちの玄関を入ったところの上に、
先達の菅笠と錫杖が飾ってあった。
親父は大峰山へせっせと行っていました。
(p317)


う~ん。これだけだと、単なる
山好きのエピソードで終ってしまう。
でもいいか(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

標準語は、「おもしろおすな」。

2019-06-12 | 本棚並べ
小長谷有紀編「梅棹忠夫のことば」(河出書房新社)。

この本は、10章にわかれていて、
各章のページをひらくと、

ページ右側、梅棹忠夫の短文。
ページ左側、小長谷有紀さんの解説。

単純でわかりやすく。
その8章は「京都のみかた」。
8章の副題は「特別の場所には特別の知恵がある」。
その8章から引用。


まず右ページの梅棹忠夫氏の言葉は

「『おもしろおすな』といういいかたも
地方のひとには注意を要するだろう。
これで京都のひとが興味をしめして
のりだしてくれるとおもってはならない。
ことがらとしておもしろいかもしれないが、
わたしは興味ありません、という意味なのだ。
それを『おもしろおすな』と表現する。」
(p168)

こういう、京都ことばに精通していれば、
標準語の素っ気なさにも、敏感に反応するのでしょうか。

それはそうと、
気になったのは、この箇所。
5章「家庭のすがた」の梅棹氏のことば。

「家庭内の雑誌や新聞の発行、
というようなこともおこなわれるようになるだろう。
小説をはじめとする文芸の運命も、そのあたりと
かかわりあっているとおもう。
文芸の究極形態は、読者を予想せず、
自分が自分にむけてかくということになるのでは
ないだろうか。セルフ・コミュニケーションである。」
(p106)

これに対して、左頁の小長谷さんの言葉は
「これって通信」と題して

「わが家では、自分の気に入ったニュースを
家族のメンバーにパソコンで配信する、という習慣がある。
・・・・・家族といえども迷惑しているが、いまのところ
着信拒否はしていない、という程度のものである。
こんなことも予言されていたのかと思うと、恐ろしい。
・・・・・
また、アクセスされないブログは、かぎりなく
自分のための、自分によるコミュニケーションになってしまう。
ツイッターはその反動的現象なのかもしれない。」
(p107)


表紙カバーの折り返しに書かれた
著者紹介文が印象的です。
短いので、ここは全文引用。

「梅棹忠夫
1920年、京都市生まれ。
1954年『アマチュア思想家宣言』で、
カメラのように思想を使いこなそうと提案する。
1957年『文明の生態史観序説』で、
文明の複線的な展開という考え方をしめす。
1959年『妻無用論』で
社会進出するよう女たちを鼓舞する。
1963年『情報産業論』で
ポスト近代のゆくえを提示する。
1969年『知的生産の技術』で、
市民のための情報生産活動を指南する。
1977年、初代館長として国立民族学博物館をひらく。
2010年、逝去。」



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あきまへんね、ぼくらは。

2019-06-11 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「知的生産の技術」の
第五章「整理と事務」のはじまり。

「わたしが小学生のころの教科書にあった
話だとおもうが、本居宣長は、自分の家の
書棚から、あかりをつけずに必要な本を
とりだすことができたという。また、
どこそこの棚の右から何番目、といわれてみると、
ちゃんとその本があった、というような話もきいた。」
(p79)

梅棹忠夫対談集「博物館の思想」(平凡社)の最後に
日高敏隆氏との対談「博物館の理想」が載っています。
はじまりは日高氏。

日高】目が不自由になられたということを聞いて
たいへんショックを受けたんです。
これからどうされるんだろうと思って、ところが、
どんどん本は出てくるし、さすがすごいと。

梅棹】いまはほとんど見えませんが、
著作はちゃんとできるんです。

  ・・・・・・・

日高】インプットがなくても、どんどん本ができる
のがふしぎです。

梅棹】幸いなことに、いろいろな仕掛けを持っているんです。
たとえば資料が全部、ファイリングシステムとカードシステム
になっている。だから、わたしはものを探すことがほとんど
いらないんです。こういう書類がこのへんにあるはずだというと、
ちゃんと出てくるんです。そこまでは仕掛けができていたんです。
整理していなかったら、それはとてもできません。

日高】『知的生産の技術』を読んだときに、そうせにゃあかんな
と思ったんですが、やっぱりなかなかできない。
あきまへんね、ぼくらは。

梅棹】わたしどもの博物館全体が、カートシステムの
延長のようなものです。
(p285~286)


さてっと、梅原忠夫著作集の第13巻月報に
楠田實氏が「闘士・梅原忠夫」と題して書いており、
ここでは、失明から後のことに、言及されています。

「梅棹さんが失明されたと聞いた・・・
退院後は月、水、金と三日間、民博に出勤するかたわら、
出版社と執筆の約束をしながら、
原稿ができないままになっていた
筆債の履行を、口述筆記で開始された。まず角川書店から
『梅棹忠夫の京都案内』、続いて『京都の精神』
『日本三都論――東京・大阪・京都』。
この三部作の完成が弾みになって、懸案の
『梅棹忠夫著作集』に手をつけることになったものである。」

はい。失明する以前のことも、語られております。

「かつて、大阪千里の万博跡地に国立民俗博物館を創設すべく、
・・梅棹さんが、政・財・官界の関係者の一人びとりに会って
趣旨を訴え、協力を要請した。予算獲得のために文部省の
科学官室に一か月も泊り込んだ。あのときの気迫はすごかったが、
こんどの著作集刊行も、それに劣らぬ気迫を感じさせるものがある。
周辺に独特のメカニズムが構築されているとはいえ、おそらく
数十冊になるであろう著作集を、頭の中で整理して完成するのは
気の遠くなるような大作業である。並たいていの気力では
できるものではない。それをやり抜くところに、
闘士・梅棹忠夫の真骨頂をみる。」

楠田氏の月報の文の最後を引用しなければ、
「闘士」の意味が通じないかもしれません。
ということで、最後を引用。

「わが国でも近年、国際文化交流の重要さが
認識され始めたが、きっかけは梅棹さんの発言であった。
 ・・・・・・
その中で梅棹さんは次のように語った。
『私が前から言っている単純明快なセオリーがある。
国際交流とはピースミールの戦争だ。
ドンドンパチパチ本当に始まる前に、
なしくずしで、みんなの心のなかを
ぐちゃぐちゃにしておく仕事だ。
そうすると戦争が起らなくなる。
相互理解というとカッコいいけれど、
本当はよその文化を理解するなんて不愉快きわまることだ。
お互いに腹の立つことはいっぱいある。
しかし腹を立てて殴り合っては損だから、
お互いにいやなことでも辛抱し、
情報を交換して意思の疎通をしておいた方がいい。
私の言う国際交流とはこういうことです』。

この発言の社会に対するインパクトは大きかった。
主要新聞が一斉に社説やコラムでとりあげ、
政治や行政の認識が深まって
日本の文化交流事業に追い風が吹き始めた。
梅棹さんというのはそういう人なのである。」


はい。この月報は、はじまりが川喜田二郎さんです。
楠田實さんの文は全文引用したくなるほどなのです。

ちなみに、梅棹忠夫著作集は全22巻、別巻1。
私はまだ、月報を数枚読んだばかり(笑)。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ハウ・ツーもの」の視線。

2019-06-10 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)。
購入した本は、1973年1月第17刷発行とある。
その最後に自分の書き込みがしてあった。
「1990 4月20日読了。以前何も読みとれなかったことを感じる」。
この新書が背から二つに割れてしまって、もう読むのがめんどう。

このさい、あたらしい新書で。そう思って
購入したのが、2007年2月第77刷発行の新書。
なんとも同じ本を新しく購入するのは、新鮮。
今まで、線引きの箇所を確認して満足でした。
ごちゃと書き込みで読めなくなったノートを、
真新しくしたみたいになり気持ちがリセット。

きれいな新書に、落書きしてゆく楽しみ。
再度、今まで何を読んでいたのかと思う。

どうも、これは私がハウ・ツーものとして
読もう、読もうという姿勢があったためと、
読み手の一方的な思い込みに気づかされる。

ということで、「はじめに」の最後を引用。

「・・などとかんがえてもらっては、こまる。
研究のしかたや、勉強のコツがかいてある、
とおもわれてもこまる。そういうことは、
自分でかんがえてください。

この本の役わりは、議論のタネをまいて、
刺激剤を提供するだけである。
どのようなものであれ、
知的生産の技術には、王道はないだろうとおもう。
これさえしっていたら、
というような安直なものはないだろうとおもう。
合理主義に徹すればいい、などと、
かんたんにかんがえてもらいたくないものである。
技術という以上は、ある種の合理性はもちろん
かんがえなければなるまいが、知的活動のような、
人間存在の根底にかかわっているものの場合には、
いったいなにが合理的であるのか、
きめることがむつかしいだろう。
機械や事務組織なら、きわめて目的合理性の
たかいものをつくることもできるだろうが、
人間はそうはゆかない。

知的生産の技術について、いちばん
かんじんな点はなにかといえば、おそらくは、
それについて、いろいろとかんがえてみること、
そして、それを実行してみることだろう。
たえざる自己変革と自己訓練が必要なのである。」
(p20)

あれ、こんな箇所があったっけ?
と思いながらページをひらいてゆきます。
本は変わらないのに、加齢とともに、
浮ついた「ハウ・ツーもの」思考は消え、
変わったのは自分だったのだと思わせる、
そんな自分をのぞき込む鏡のような一冊。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京とはちがう地方文化。

2019-06-09 | 本棚並べ
「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ新書)の
最初の方に、和辻哲郎氏が語られている場面があり、
印象的でした(聞き手は小山修三)。

小山】 和辻哲郎さんなんかはもう、ヨーロッパ賛美でしょ。

 こう和辻さんを話題にする小山さんです(笑)。

梅棹】 和辻さんという人は、大学者にはちがいない。ただ
『風土』はまちがいだらけの本だと思う。中尾がつくづく言ってた。
『どうしてこんなまちがいをやったんだろうな』と。

小山】 机上論とヨーロッパ教。

梅棹】そうや、どうして『風土』などと言っておきながら、
ヨーロッパの農場に雑草がないなどと、そんなバカなことを
言うのか。そうしてそんなまちがいが起こるのか。中尾流に言えば、
『自分の目で見とらんから』です。何かもう非常に清潔で、
整然たるものだと思い込んでいる。
ヨーロッパの猥雑さというものがどんなものか。
そんなことが、現地で見ているはずなのに、どうして見えないのか。
  ・・・・
見せかけにだまされるのならまだいい。
それとはちがうな。あれは思い込みや。

わたしが『ヨーロッパ探検』などと言い出したので、
びっくりされたこともあった。『ヨーロッパは学びに
行くところであって、調査に行くところとちがう』と。
それでわたしは怒って、文部省にガンガン折衝して、
ヨーロッパがいかにそういうイメージとちがうところか
ということを説得した。・・・・
『学びに行くヨーロッパ』がいかに『ヨーロッパの本質』
とちがうか、それがわからない。
民博設立のベースには、多少そういうものがあったと思う。

小山】 まだパリやロンドンの体験がないのに、
ヨーロッパはそんなものとはちがうって言い切れる
自信はどこにあったんですか?

梅棹】 それはやっぱり中国大陸とインドの体験が大きい。
中国とインドを知っている。その延長としてのヨーロッパ
があるっていうことだったんやないかなあ。もう
はっきり覚えてないから、ちょっとちがうかもしれんけど。
(p26~28)


え~と。そうそう、
「言語生活」昭和31年1月号の座談会をひらいていたら、
座談の話題に和辻哲郎氏が登場する箇所があり印象深い。

西尾実】 ・・ぼくはいつか和辻(哲郎)さんに、
―――和辻さんは兵庫県ですが、
あまり向こうのことばのくせがないんですね、
『どういうふうに郷里のことばを感じますか』と聞いたら、
『大嫌いだ。小さい時から自分は今の口語文、
標準語的な言葉が好きだった』。
『何で覚えましたか』と言ったら、『(巌谷)小波の物を
読んで小さい時にああいう文体で文章を書いた』
と言われたことを覚えていますがね。
(p4)



思い浮かんできたのは、
桑原武夫・司馬遼太郎対談
『人工日本語の功罪について』でした。

桑原】・・・東京とはちがう地方文化、
例えば北海道や鹿児島で独特の地方文化を持つのは
無理至難なのではないか。それを持ちうるのは、
その地方の人々が方言で喋ることを恥としない、
あえて誇りと思わなくても、少なくとも恥としない
ところにしか地方文化はない。それが
わたしの地方文化の定義です、といったんです。

そうすると、地方文化がまだあるのは上方だけです。
わたしは場合によれば京都弁を喋る。
大阪の作家はみんな日常大阪弁を使う。
しかし、例えば名古屋では、これは名古屋の人が
聞いたら怒るかもしれないけれど、
『そうきゃあも』などという名古屋弁を
もう使わなくなりましたね。恥じている。
東北地方の人にもそれがいえます。

そこへ、片方からラジオやテレビで
ローラーをかけていますからね。
地方の言葉を捨てて
地方文化を守るのは不可能だと思うんです。

司馬さんも語ります。

司馬】 地方に住んでいる人は、いままで、
標準語を使えないということで劣等感がありましたが、
最近はちょっとひらき直って、
多少の自信を持つようになったのではないでしょうか。
まあ、標準語で話すと感情のディテールが表現できない。
ですから標準語で話をする人が、
そらぞらしく見えてしょうがない(笑)、
あの人はああいうことをいってるが、嘘じゃないか(笑)。
東京にも下町言葉というちゃんとした感情表現力のある
ことばがありますが、新標準語一点張りで
生活をしている場合、問題が起きますね。
話し言葉は自分の感情のニュアンスを表わすべきものなのに、
標準語では論理性だけが厳しい。
ですから・・・・・」

うん。時代は和辻哲郎コースを、
歩んできてしまったらしい(笑)。

農場に雑草がなく、きれいな和辻哲郎コース。

和辻哲郎コースから見た北朝鮮賛美。
和辻哲郎コースから見た、中国賛美。
和辻哲郎コースから見た、韓国賛美。
このコースから降りられなくなった、
和辻哲郎コースに、寄り添う新聞。
それらの新聞に寄り添う地方新聞。

なんてことに、思い至るのであります。

ちなみに、
「言語生活」の座談会は1956年1月号。
そして、
桑原・司馬対談の「文藝春秋」掲載は、
1971年1月号となっておりました。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんとかなっているやないか。

2019-06-08 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)の
「まえがき」には、

「わたしは、わかいときから
友だち運にめぐまれていたと、自分ではおもっている。
学生時代から、たくさんのすぐれた友人たちにかこまれて、
先生よりもむしろ、それらの友人たちから、
さまざまな知恵を、どっさりまなびとった。

研究生活にはいってからも、
勉強のしかた、研究のすすめかた、などについて、
友人からおしえられたことがたいへんおおい。・・・
研究のすすめかたの、ちょっとしたコツみたいなものが、
かえってほんとうの役にたったのである。」


はい。「知的生産の技術」再読。
今回、新書から著作集へ連想がひろがります。

梅棹忠夫著作集第16巻。
その「第16巻まえがき」にこうあります。

「第三部の『山の交遊録』は、山を通じての
先輩や友人たちとの交友の記録である。
わたしは山の先輩や友人からたくさん
のものをおしえられた。・・・・」


第16巻の目次をひらくと、単行本とか、雑誌で、
以前に読んでいて、印象に残っている文がある。
その、印象に残る箇所をここに引用。


「ひとつの時代のおわり ーー 今西錦司追悼」
には、文章指導の箇所がある。

「わたしは今西が理学部の自室で黙々と読書を
している姿をおもいだす。・・・・
読書指導のほかに、青年たちに対する文章の指導
もまことにきびしかった。論文をかいてもってゆくと、
徹底的になおされるのである。
文章をなおされるばかりではない。
論旨をなおされるのである。
おまえのこのかんがえはまちがっている、
と徹底的にたたかれるのである。
なおされて、もとの文章がほとんど
なくなってしまったこともある。
しかし、このきびしい論文指導のおかげで、
わたしは文章がかけるようになったとおもった。」


「西堀栄三郎における技術と冒険」では、
『南極越冬記』に関するこの箇所を引用。

「西堀さんは元気にかえってこられたが、
それからがたいへんだった。講演や座談会などに
ひっぱりだこだった。越冬中の記録を一冊の本に
して出版するという約束が、岩波書店とのあいだにできていた。

ある日、わたしは京都大学の桑原武夫教授によばれた。
桑原さんは、西堀さんの親友である。
桑原さんがいわれるには、
『西堀は自分で本をつくったりは、とてもようしよらんから、
君がかわりにつくってやれ』という命令である。
わたしは仰天した。
まあ、編集ぐらいのことなら手つだってもよいが、
いったい編集するだけの材料があるのだろうか。
ゴーストライターとして、全文を代筆するなどということは、
わたしにはとてもできない。

ところが、材料は山のようにあった。
大判ハードカバーの横罫のぶあついノートに、
西堀さんはぎっしりと日記をつけておられた。
そのうえ、南極大陸での観察にもとづく、
さまざまなエッセイの原稿があった。
このままのかたちではどうしようもないので、
全部を縦がきの原稿用紙にかきなおしてもらった。
200字づめの原稿用紙で数千枚あった。
それを編集して、岩波新書一冊分にまでちぢめるのが
わたしの仕事だった。

わたしは原稿の山をもって、
熱海の伊豆山にある岩波書店の別荘にこもった。
全体としては、越冬中のできごとの経過をたどりながら、
要所要所にエピソードをはさみこみ、
いくつもの山場をもりあげてゆくのである。
大広間の床いっぱいに、ひとまとまりごとに
クリップでとめた原稿用紙をならべて、
それをつなぎながら冗長な部分をけずり、
文章のなおしてゆくのである。

この作業は時間がかかり労力を要したが、
どうやらできあがった。この別荘に一週間以上も
とまりこんだように記憶している。

途中いちど、西堀さんが陣中見舞にこられた。
そして、わたしの作業の進行ぶりをみて、
『わしのかわりに本をつくるなんて、
とてもできないとおもっていたが、
なんとかなっているやないか』と、
うれしそうな顔でいわれた。

岩波新書『南極越冬記』は1958年7月に刊行された。
たいへん好評で、売れゆきは爆発的だったようである。」


そういえばと、
「今西錦司追悼」の最後を引用。

「わたしが師とあおいだ先学はすくなくない。
桑原武夫、西堀栄三郎、宮地伝三郎、貝塚茂樹、湯川秀樹
の人たちである。かれらはみんなほとんど同年輩で、
20世紀の初頭にうまれでて、この世紀をいきてきた人たちである。
・・・・・・・
わたしたちの世代は、それをこの先人たちからひきついだのである。
しかし、みんないなくなってしまった。ひとりずつ消えて、
そしていま、最後の巨星が消えた。ひとつの時代がおわったのである。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こんなもんあかん。

2019-06-07 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)の、
「まえがき」と「はじめに」だけで、私は満腹。
先へと読みすすめなくてもいいや(笑)。

うん。「はじめに」のなかに「やりかた」を
書いている箇所があるのでした。
その箇所と、梅棹忠夫著作集第16巻の月報の
木村雅昭氏の文とを並べてみたくなりました。

はじめに、新書のこの箇所を引用。

「高尚な、むつかしい話とはちがうのだ。
学問をこころざすものなら当然こころえておかねばならぬような、
きわめて基礎的な、研究のやりかたのことなのである。
研究者としてはごく日常的な問題だが、
たとえば、現象を観察し記録するにはどうするのがいいか、
あるいは、自分の発想を定着させ展開するにはどういう方法があるか、
こういうことを、学校ではなかなかおしえてくれないのである。

このことをわたしは、わかい研究者諸君の
指導をする立場にたつようになってから、気がついた。
大学をでて、あたらしく研究生活にはいってくる人たちは、
学問の方法論については堂々たる議論をぶつことはできても、
ごくかんたんな、本のよみかた、原稿のかきかたさえも
しらないということが、かならずしもめずらしくないのである。」
(p3~4)

はい。この箇所から、
著作集第16巻の月報が思い浮かびました。
月報の最初は、木村雅昭氏の「偉大なる先輩」。
月報のはじまりは

「私が初めて梅棹先生に親しくお目にかかったのは、
30年近く前のことである。たしか1964年に私たちが
中部ネパールのガネッシュ峰に遠征した直後のことと思う。
『新しい世界を経験した者には、
そのことを世に伝える義務がある』ということで、
梅棹先生のお世話で・・・登頂記、旅行記を
書かされるはめとなった。・・・
なにしろマーケットに売りに出す文章は、初めてのことである。
私を含めて4名の学生隊員は大いに苦労しつつも
とにかく書き上げて、監修者梅棹先生のところへ、
おそるおそる持参した。」

はい。肝心なのは、このあとです(笑)。

「先生は・・しばらく原稿に目を通しておられた。
そしてやおら開口一番『こんなもんあかん。
君達の文書を読んでもちっともイメージがわいてこんし、
それに思想性も全然ない。全面書き直し』。

『どこが悪いのですか』と尋ねても『全部や』の一点張り。
われわれはがっくりきた。とにかく先生に『ウン』と
言ってもらわないと本は出ない。
【もっと山に登りたい】という気持を押さえて、
泣く泣く書き直すはめとなった。

二度目に原稿を持っていっても、合格点はもらえない。
ついに先生は、自らペンをとって、私たちの文章を
真赤になるまで直して下さった。
なるほど見違えるほど良くなった。
『文章とはこのように書くのか』と、
眼からウロコが落ちた感じだった。
これを手本に書き直すように言われたが、
眼からウロコが落ちても、いざ自分で書き出すとなると
なかなか思うようにいかない。

結局、たった一冊の新書を仕上げるのに、
ずいぶんと先生の手をわずらわせてしまった。
先生は原稿すべてに目を通されなければ気がすまなかったが、
既に多忙をきわめておられた先生である。
なかなかその時間が見つからない。
やっと見つかって先生の御宅に押しかけても
『眠うてあかんわ』と寝てしまわれる。
・・横のソファーでは、梅棹先生がスヤスヤ眠っておられる。

とうとうこの本のために先生は、
私たちと共に徹夜して下さり、
やっと出版にこぎつけることができた。
いくらアドバイスしてもちっとも良くならん、
とサジを投げられた結果かもしれない。」


木村氏は、「1964年・・遠征した直後のことと思う」
と時期を書きこんでおりました。
ちなみに「知的生産の技術」が、新書として出たのは、
1969年7月となっておりました。

さらに、「知的生産の技術」の「まえがき」には
「1965年の4月から、岩波書店で発行している
雑誌『図書』に『知的生産の技術について』という題で、
連載記事をかきはじめた。はじめは、ほんの3,4回で
おわるつもりであった。かきはじめてみると、
これはとても、そんなにかんたんにカタがつくはなしではない、
ということが、はっきりしてきた。・・・・」

どれも、時期的に符合しあっております。
よくぞ、月報に書いておいてくれました。
そんな、ワクワク感が月報にはあります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「せいとん」と整理。

2019-06-06 | 本棚並べ
あらためて、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)を、
読み直そうと、ぱらりと開くと、
5章「整理と事務」のはじまりが気になる。

「わたしが小学生のころの教科書にあった話だとおもうが、
本居宣長は、自分の家の書棚から、あかりをつけずに
必要な本をとりだすことができたという。また、どこそこ
の棚の右から何番目、といわれていってみると、ちゃんと
その本があった、というような話もきいた。・・」(p79)
 
これが第5章のはじまりでした。
それで、思い出すのは
八木秀次監修「尋常小學修身書」(小学館文庫)。
そこをひらいていたら、「せいとん」という文があった。

「本居宣長は、わが国の昔の本を読んで、
日本が大そうりっぱな国であることを
人々に知らせた、名高いがくしゃであります。

宣長は、たくさんの本を持っていましたが、
一々本箱に入れて、よくせいとんしておきました。
それで、夜、あかりをつけなくても、思うように、
どの本でも取出すことが出来ました。

宣長は、いつもうちの人に向かって、
『どんな物でも、それをさがす時のことを思ったなら、
しまう時に気をつけなければなりません。
入れる時に、少しのめんどうはあっても、
いる時に、早く出せる方がよろしい。』
といって聞かせました。

宣長が名高いがくしゃになり、
りっぱなしごとをのこしたのには、
へいぜい物をよくせいとんしておいたことが、
どれだけやくにたったか知れません。」
(p86~87)

うん。梅棹忠夫さんは、この話が
記憶の片隅にあったのでしょうか。
章のはじめに、枕のように引用しておりました。

その本居宣長の「せいとん」から
はじめた梅棹忠夫氏は、つぎに
ご自分のことを書いております。

「わたしは子どものころから、
ものもちのいいほうで、いろいろな
ものを保存するくせがあった。・・・
友人たちからもらった手紙類や、
学校関係のパンフレット、紙きれまで、
後生大事にのこすようになってしまった。
ただし、いっさい整理ということをしらないから、
なんでもかでも、箱のなかに乱雑につめこんで
いただけである。わたしはいまでも、すくなくとも
高等学校時代からの、このような『遺産』の山を、
なすすべもなくかかえこんでいる。

学生時代はためこむだけでよかった。
いよいよ自分の仕事がはじまってみると、
これではどうしようもなかった。
・・・・・
わたしは、自分自身の文書を整理するために、
いろいろなことをやってみた。なんべんも失敗したが、
そのたびに、すこしずつかしこくなった。そして、
どうやら整理についての基本的原則みたいなものが、
すこしわかったような気がしている。」(p79~80)


うん。「知的生産の技術」を再読してみます。
あらてめて、読み直すと、どのようなことを
思い浮かべるのか、という楽しみ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする