和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

鴨川堤から、京都北山の連山が。

2019-06-06 | 本棚並べ
雑誌「中央公論」1992年8月号。
忘れられない雑誌です。
梅棹忠夫が「ひとつの時代のおわり」と題して
今西錦司追悼の文を掲載していた。
その印象は、鮮やかでした。

私が、鮮やかといってもしょうがないか(笑)。
それでは、司馬遼太郎さんは、どう書いたか。

梅棹忠夫編著「日本の未来へ」(NHK出版)
副題は「司馬遼太郎との対話」。
そのなかに、梅棹さんがインタビューに答えて
こう語っておりました。

梅棹】 ・・・今西錦司先生が90歳で亡くなったとき、
その追悼文を『中央公論』に書いたら、司馬さんから
すぐ手紙が来て、『これぞまことの文学』という
ほめ言葉で激賞してもらった。そういうことがあった・・
(p214)

うん。梅棹忠夫の今西錦司追悼文は、
「梅棹忠夫著作集第16巻」に入っていると、
今月になってわかりました(笑)。
ほかに、「フォト・ドキュメント 今西錦司」(紀伊国屋書店)
にも、今西錦司追悼文は掲載されておりました。


これで、古雑誌が探し出せなくなっても大丈夫(笑)。
いつでも、本で読みかえせる。

さてっと、著作集16巻の、その追悼文には
梅棹氏ご自身による解説があります。
私ははじめて読みました。
それを、はじめから引用。

「今西錦司博士は4年1カ月にわたる入院生活ののち、
1992年6月15日、90歳で永眠された。遺体は即日・・
京都下鴨の自宅にかえった。・・・

翌16日午後7時から今西邸でお通夜がおこなわれ・・
17日、朝10時から密葬がおこなわれた。
柩は年下の友人たちにかつがれて、自宅のすぐそば
の鴨川堤にでた。そこは、今西氏がわかいころ川床の
石をひっくりかえしてカゲロウの幼虫をしらべ、
有名な『すみわけ理論』を着想された場所であった。
鴨川堤からは、登山家今西氏をはぐくんだ
京都北山の連山がみえる。
葬列は今西氏の愛唱歌であった三高の『紀念祭歌』を
うたいながら、しばらく鴨川堤を行進した。・・・

本葬は6月20日午前11時から、今西家の菩提寺である
千本十二坊の上品蓮台寺(じょうほんれんだいじ)で
とりおこなわれた。・・・・・・



6月16日に、わたしは『中央公論』から追悼文執筆の
依頼をうけた。締切は目前にせまっていて、まにあうか
どうかあやぶまれたが、わたしは執筆をひきうけた
ちょうど18日に、国立民族学博物館において館長と
報道関係者との月例の懇談会がひらかれた。その席上で、
わたしは今西博士追悼のスピーチをおこない、
今西氏の業績とひととなりをかたった。
これが原稿執筆のための準備作業となった。
19日には、前日のスピーチをもととして口述をはじめ、
原稿の前半をつくった。
20日は、葬儀のあと今西邸にたちより、そののち、
京都グランドホテルにおいて口述で原稿の後半を執筆した。
21日には、午前中に原稿はすべて完成し、葬儀のために
京都にきていた『中央公論』編集長の宮一穂氏に原稿を
わたすことができた。・・」
(p464~465)

そうなんだ。
1986年に、ほぼ失明された梅棹忠夫氏が
口述で原稿執筆した追悼文を、
時をおかずに、読めた幸せ(笑)。
著作集であらためて読める幸せ。

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コンピュータの後ろの、自由な感覚。

2019-06-05 | 本棚並べ
古い雑誌は、本棚にあっても、探しだせない(笑)。
どこにあるのか、忘れては探せなかったりします。

季刊「本とコンピュータ」1999冬号。ここに、
鶴見俊輔・多田道太郎対談が掲載されてます。
そのはじまりの、二人の写真が魅力です。
どっか、夜の路地を二人して歩いてる。
少し前に大笑いしながら鶴見さんが歩いて、
その右腕を後ろから押さえている多田さん。
二人の親密さが、一枚の写真で伝わるようです。
題して「カードシステム事始」。
副題は「廃墟の共同研究」とあります。
その対談の最後の方に登場する梅棹忠夫さんの話題を引用。


鶴見】 梅棹さんのカードは、この共同研究から出発しています。
梅棹さんはルソー研究のあとにやった、百科全書研究のときに
参加したんです。このときは彼がアンカーになって書いた。
彼は自分の文章に対する自信があるから、
他人の人と一緒にやるのいやなんだよ。(笑)
たくさんの人がやったディスカッションを、
自分で流れをつくって書き直したんだ。
非常に立派な出来栄えですよ。

多田】そのときの経験を、梅棹さんはフィールドノートと
結びつけて、独自の分類学に高めていった。その集積を
国立民族学博物館という建物にしたんですね。

 ・・・・・

鶴見】 私たちが京大でやったのは・・
いわば、穴居時代の技術です。・・・
穴居時代の技術は何かということを、
いつでも視野においていかなきゃいけない。
それとね。
コーヒー一杯で何時間でも雑談できるような
自由な感覚がありました。
桑原さんも若い人たちと一緒にいて、
一日中でも話している。
アイデアが伸びてくるんだよ。
ああいう気分をつくれる人がおもしろいんだな。

梅棹さんもね、『思想の科学』に書いてくれた
原稿をもらうときに、京大前の進々堂という
コーヒー屋で雑談するんです。
原稿料なんてわずかなものです。
私は『おもしろい、おもしろい』って聞いているから、
それだけが彼の報酬なんだよ。
何時間でも機嫌よく話してるんだ。(笑)
雑談の中でアイデアが飛び交い、
互いにやり取りすることで、
そのアイデアが伸びていったんです。

いま、インターネットで世界中が交流できる
ようになってきているけど、コンピュータの
後ろにそういう自由な感覚があれば、
いろんな共同研究ができていくでしょうね。
(p206~207)


ちなみに、対談に「京都に熱波くるとね」というセリフ。
それが対談ででてくるので、そこ紹介しておきます(笑)。

鶴見】 共同研究のために無給の研究生を募集して
 ・・・・・

多田】 ・・・・でも、無給なんですよ。
研究会に出させてやるという恩恵だけは
与えられたけど、肩書も何もない。
大人の感覚で言えば、アホくさいことですわ。
(笑)だけど、それを『あっ、これは面白いなあ』
と思って、共同研究というものにのめり込んでいったんです。

鶴見】そのとき、多田さんは私より二つ下の24歳。
年が近かったから、共同研究を進めるのが楽だったわけ。

多田】研究会は、週一回やっていましたね。

鶴見】毎週金曜日ごとに、各自が発表しました。
討論が白熱して、夜までかかることもしばしば
ありました。恐ろしいのはね、夏も研究会を
やったんだ。京都に熱波がくるとね、
あまりにも暑くて、皆がしばらくジーッと
黙ってしまうんだ。(笑)
(p200)

はい。夏の京都が、こんな箇所に登場。
この雑誌の、この対談の次のページは
加藤秀俊の文「知的生産に王道なし」。
せっかくなので、そこからも引用。

「この共同研究の最大の特色は、
なんといっても『知識の共有化』だった。
じぶんの研究を秘密にするのではなく、
完全に公開することに全員が心がけた。
そしてそのために『カード方式』が発明された。
とにかく、じぶんが読んだ書物の一部引用や、
かいたメモの断片にいたるまで、カードに
しるしてそれを共通のカード箱にいれておく。
そうすればお互いの知恵や知識が
『個人』のものではなく、
『集団』の共有財産になるからだ。・・
こんなふうにして手作業でみごとな
『知恵の宝箱』をみんなでつくった。・・」
(p209)

はい。この雑誌が本棚からでてきて、
あらためて、読むことができました。
雑誌はすぐ、どこかへ紛れ込みます。
忘れないうちに、ブログへ書きこみ。






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京都ことば・歴史的価値。

2019-06-04 | 本棚並べ
え~と。
梅棹忠夫著作集第17巻の月報に
寿岳章子さんの文があり、その文に刺激されて、
寿岳章子著「暮らしの京ことば」を古本で購入。
月報で語られた箇所が、さらに具体的に読める。
それが、「京ことばに生きる男たち」という章。

単行本には、雑誌のバックナンバーまで紹介されていて、それが
「言語生活」1956年4月号、『動物のことば――ニホンザルを中心に』。

「日本の古本屋」で雑誌をネット検索すると、
はい。その4月号が買える。買う。それが届く。
指摘された、お目当ての「愉快な座談」を読む。

もどって、どうして私は、この雑誌を読みたくなったか、
こういうことって、すぐに忘れるので月報に掲載された、
雑誌『言語生活』が登場する部分を引用しておきます。

「・・・私の京都府立女専時代の友人が、
雑誌『言語生活』(このきわめてユニークな雑誌は
相当長くつづいたが、残念なことに今は廃刊)
のアルバイトのようなことをやっていたその仕事の
一つに、・・『ニホンザル』の社会、といったような
ことをテーマにした座談会を京都で行なうというのが
あって、京都にやってきた。
とりわけ仲よしだった彼女に出会って、
その入洛の目的を聞いた私は、同伴を頼みこんだ。
記事作りの手伝いをするから、その話を聞かせて、
という私の願いを彼女は快くきいて、その会場にでかけた。」

「今西(錦司)、梅棹(忠夫)二氏は全くの京ことば
・・・だから私はそのお二方の京ことばぶりが
十分に文字化されるよう、文末のデリケートな
特に助辞をていねいメモした。念のため、
ゲラ刷りにも目を通させてもらった。

その、京都ことばで学問的内容が語られる
ということじたいに、おそらく歴史的価値
が生じるにちがいないと判断したからである。

・・あるのやで・・・つかめてへんわ
・・どうやいな・・・逃げはったんやな
・・作るのんや・・・。
堂々とこういう形で京都方言を駆使して
話すサル話はとても楽しくもありおもしろかった。
私の大収穫は、『東京ことばでしゃべらんかてもいいのや』
というテーマを得たことであった。
やがて、後々の同じ『言語生活』で梅棹さんは
『第二標準語論』を唱えられるに至るが、
私はそのテーマの実践者としての氏の発言の
よって来たるところがよくわかる気がした。」


はい。その雑誌を古本で購入できた。
う~ん。雑誌の座談は内容を含め読めてよかった。
有難いなあ、居ながらにして、古い雑誌が届くたのしみ。

はい。私の場合、本を購入していると、
あとで、どうしてこの本があるのだと、
さっぱり分からなくなることしばしば、
途中で、興味が目移りして、とぎれる。
それが、私の弱点。それならどうする。
すぐに、忘れるのはしかたないとして。
その本を、どうして買いたかったのか、
その最初の場面を反芻するように記録。
それが、ブログでできますように(笑)。




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なんで 大阪弁。

2019-06-03 | 詩歌
島田陽子詩集「うち 知ってんねん」(教育出版)は、
タテ17センチ、ヨコ13センチ。かわいらしいサイズ。
しかも、表紙・挿絵は、飯野和好。

島田陽子さんは、
大阪万博の歌「世界の国からこんにちは」の作者。
この詩集のあとがきには、

「わたしは東京生まれです。・・・
小学校五年生から大阪に住むことに・・・・

ある日、その大阪ことばのひびきが、
とてもやわらかくて、丸くて、美しいことを発見しました。
そのうえ、子どもの心を子どものことばで書く童謡の詩も、
大阪ことばのほうが書きやすい時があるのを知りました。

大阪ことばは、毎日の生活の中で使われる話しことばです。
家族や友達に自分の思っていることを話す時に使う、
ふだん着のことばです。
書きことばであり、よそゆきのことばのように思える
共通語ではうまく伝えられないことも、
大阪のことばなら言えるのです。

大阪は武士よりも町人が多く、
商業都市(あきないのまち)として発展しました。
ですから、すぐ人となかよくなり楽しく話を進めよう
とする気くばりのあることばが育ちました。

また、お上(かみ)をおそれず、たよらずに、
橋でも学校でも自分たちの手でつくってしまうような
自由な心をはぐくんできました。・・・」(p76~77)

はい。一篇の詩を引用。

   なんで 大阪弁

 大阪うまれの おじいちゃんは
 東京生まれの およめさん もろた
 こどもは 三にん 大阪うまれ
 大阪べんしか つかわへん
  ふたりで してはる くちげんか
  かつのは いつかて 東京べん
  ことばの せェだけや あらへんねん

 大阪そだちの おとうちゃんは
 鹿児島そだちの およめさん もろた
 こどもは ふたり 大阪うまれ
 鹿児島べんかて ようわかる
  そやけど すきなんは 大阪べん
  まいにち つこてる 大阪べん
  なんでて うちの ことばやもん

 

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上方の日常性の語感。

2019-06-02 | 本棚並べ
松田道雄の本16「若き人々へ」(筑摩書房)には、
「小学校の会パンフ」(49・10)という3頁ほどの
文など収録されていて、たのしいのですが、
そこから引用。

「私は茨城県で生まれて、半年後に京都につれてこられた。
両親は茨城で生まれ、そだち、ともに青年期のあるみじかい
期間を東京でおくった。彼らが私をそだてる家庭のなかで
つかった日本語は東京の中心部のことばであった。

私が友人と京都の町であそぶとき、学校の休み時間で
はなすときもちいたのは京言葉であった。また
結婚してからの妻との会話も京言葉であった。
したがって子どもたちとの会話も京言葉だった。

また、中年に、しかつめらしい文章をかく
ようになって私がつかった言葉は標準語だったが、
激論する研究会での用語は京言葉だった。

両親がなくなって私は東京言葉を家でつかわなくなった。
そして、『論文』をかくことが少なくなってくるとともに、
京言葉をつかうことがおおくなった。

東京言葉から遠ざかることは、私にとって何ほどか
支配と形式とから解きはなされることであった。
そのときがきて、はじめて
上方の言葉にたいする語感がわかったといえる。

しいていえば上方の言葉は、
日常性をもっとも正確につたえる媒体である。

かすかな気分の動き、わずかな感情のかげりは
上方の言葉によってしかあらわせない。

支配とか儀式とかの公的な生活が遠慮もなく
おしつぶしてしまう人間の心のリズムが
博動しているのは、私的な日常性においてである。
・・・」(p208~209)


「かすかな気分の動き、わずかな感情のかげりは
 上方の言葉によってしかあらわせない。」
とありました。

うん。『かすかな気分の動き』なんて、
どうなんでしょうね。
文章にされたら、私なら読み過ごしてしまう。

そういえば、司馬遼太郎・ドナルドキーンの
『日本人と日本文化』(中公新書)の
「はしがき」を司馬遼太郎さんが書いており、
そこに『かすかな』『わずかな』という語感に
ふさわしいような箇所がありました。

そこを引用。

「私は日本の作家の名簿の中に入っているが、
それらの名簿は他人が作ったもので、
私自身は自分を作家だとおもったことがなく、
むしろそう思わないように努力している。

また自分が書いているものが小説であるか
何であるかということを自分で規定したことがなく、
もしそう規定すれば一字も自分の文章が書けない
ということも自分でよく知っている。

・・・・日本文学史という重層の下であえぎながら
小説、もしくはそれらしいものなど書く勇気など
とても持ちあわせていないから、その種の知識が
頭に入りこむことをできるだけふせいできた。」


この『わずかな』『かすかな』姿勢のちがいを、
まるで読み分けられなかった、私がおりました。






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京の晴れ舞台。

2019-06-02 | 本棚並べ
そういえば、ドナルド・キーンだと思って、
「ドナルド・キーン自伝」(中公文庫)を
本棚からとりだしてくる。


「『千鳥』の太郎冠者 生涯に一度の晴れ舞台」
という章のはじまりは、

「京都に住んだお陰で、
たいした苦労もなく日本の歴史について多くを
知ることになった。以前は、たとえば銀閣寺を
建てたのが義満であったか義政であったか、
なかなか思い出せなかった。しかし、実際に
銀閣寺を訪ねて義政の彫像を見てからは、
二度と二人の将軍を取り違えることはなかった。」
(p166)

以下、京都に関係する箇所を引用。

「当時、最大の楽しみは狂言の稽古だった。
その時私の頭にひらめいたのは、伝統芸術を
学べば日本の文化がよりよくわかるのではないか
ということだった。いろいろな可能性について
考えた中から、狂言を選ぶことにした。

私は能に深い感銘を受けていたが、
一方で狂言の言葉にも惹かれていて、
『候ふ』よりも『御座る』と言った方が
おもしろいのではないかと思った。
・・まわりまわって大蔵流の茂山千作(先代)
の耳に届いた。先代は、私が狂言を学ぶ初めての
外国人ということもあって、子息の茂山千之丞を
先生に選んでくれた。

毎週の狂言の稽古は、実に楽しかった。
稽古は私の家で行なわれた。そこは隣家と
随分離れていたので、狂言のセリフを朗々と
述べる大きな声のために誰かが迷惑する
ということもなかった。狂言を覚えることは、
まったく新しい経験だった。・・・

狂言では想像力は必要ないのだった。
私に課されているのは、千之丞の声や仕草を
出来るだけそのまま真似することだった。
この世界では一人前の狂言師になって初めて、
『型を破る』ことが許された。

自分の先生をひたすら真似することは、
私をがんじがらめにするどころか、
むしろ私に喜びを与えてくれた。
まるで私は、前任者たちが代々受け継いできた
狂言の長い歴史の一番お尻のところに
自分が連なっているような気がした。

『狂言師』としての私の短い経歴の頂点は、
1956年9月13日に喜多能楽堂で『千鳥』の
太郎冠者を演じた時だった。
 ・・・・・・
それは、私の生涯に一度の晴れ舞台だった。」
(~p174)

なにか、夢のような京都です。
そうだ、夢といえば、『いろはかるた』。
ということで、本棚から出してきたのは
池田弥三郎・檜谷昭彦「いろはかるた物語」(角川書店)。
ひらいたのは『京の夢 大阪の夢』。
そのはじまりは

「『いろはかるた』の最後の一枚である。
『いろは』は四十七文字から成る。・・
その47文字に『京』の一字を加えて48文字とした。
『ん』を加える例もあるが、うたやかるたに『ん』
では意味をなさない。
双六の場合を考えればもう少しよくわかる。
上がりはやはり『京』が良い。
あそこは上京する所で、
京へ着いて旅は終わることになっている。
・・・・
『いろは』は『伊』にはじまって『京』に終わる。
節用集の題名に『伊京集』というのがあるのもそれである。
・・江戸の火消しを詠んだ笠付の雑排にも、
『ゑひもせず・京では聞かぬいろは組』というのがある。」


池田弥三郎氏の文は、いろいろと深いのでカットして
あとは、ここを引用。

「上方は『京に田舎あり』といった。
尾張の『かるた』にこの項はない。
京のような文化の中心地、大都会にも
やはりひなびた田舎がある、
文化の恩恵に浴さぬ僻地があるというのである。」
(~p248)


ちなみに、時田昌瑞著「岩波ことわざ辞典」で
「京に田舎あり」をひくと、
「収められたことわざに出入りのある
上方系のいろはカルタにあって、
これは決って採用されている。」とあります。
そして、最後に
謡曲『粉川寺(こかわでら)』からの引用がありました。
せっかくなので、その謡曲の引用箇所を孫引き

「げにや情(なさけ)は有明の、
月の都にすみなれて、
人こそおほけれど
かかるやさしき事はなし。
京に田舎あり、
田舎にも又都人の
心ざまは有べしや」
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きょうは、けいこ日や。

2019-06-01 | 本棚並べ
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋)に
一読忘れられない箇所があります。

「こんなことを書けば奇異に感じる人もいるだろうが、
私は日本の詩歌で最高のものは、
和歌でもなく、連歌、俳句、新体詩でもなく、
謡曲だと思っている。
謡曲は、日本語の機能を存分に発揮した詩である。
そして謡曲二百何十番の中で、『松風』はもっとも
優れている。私は読むたびに感激する。

私ひとりがそう思うのではない。
コロンビア大学で教え始めて少なくとも
7回か8回、学生とともに『松風』を読んだが、
感激しない学生は、いままで一人もいない。
異口同音に『日本語を習っておいて、よかった』と言う。
実際、どんなに上手に翻訳しても、
『松風』のよさを十分に伝えることは、
おそらく不可能であろう。」(p57)

う~ん。これを読んでハッとさせられたのですが、
ハッとしたまま、謡曲への興味は消えておりました(笑)。

それでも、『謡曲』という言葉があると、
いったい、どう書かれているか気にはなります。

昨日、松田道雄の本12「私の手帖から」(筑摩書房)の
目次をひらくと、「謡曲とピアノ」という題がある。
ご存知のとおり、松田道雄は小児科のお医者です。
大正のはじめ、父親が、京都の真ん中で中京(なかぎょう)に
小児科を開業した時は、借家でした。
さて、途中から引用します。

「・・私の家は借家だったので、
お祭りとか、おせんどんとかの
伝統行事からはずされていました。
異端者であったためでしょう。
私は周囲の子どもたちの生態を
いくらか客観的に観察することができました。

学校にいきだしてすぐ気がついたのは
『いちろく』とか『さんぱち』とかいって、
友人が放課後のあそびにくわわらないことでした。
彼らは謡曲の先生のところにかよっていたのでした。
『いちろく』というのは、一のつく日、六のつく日に
稽古があるということでした。『さんぱち』は三と八です。
 ・・・・・・
『いちろく』とか『さんぱち』とかで、
街路でやる三角ベースという、一塁、投手盤、ホームベース
しかない野球に参加できなくても、
謡曲をならいにいく子はそれほど不服
のようでありませんでした。
『きょうはけいこ日や』
という彼らの口調は、
きょうは雨がふっているわと
自然現象をはなすときとおなじでした。

彼らの父親も祖父も、彼らの年齢のときは、
『いちろく』か『さんぱち』かには、
謡曲のけいこにいきました。
かえってきて祖父か父親のまえでおさらいをしました。
それは祇園祭やおせんどのように、
昔からきまっていることでした。

学芸会にも、読本の朗読や、唱歌の独唱とならんで、
謡曲や仕舞がありました。
伝統芸術というのは、ああいうものだと思います。
それは、このごろよくテレビにでてくる伝統芸芸術とちがって、
観光とは無縁です。・・・」(p188~189)


中京の商家の子どもの『きょうはけいこ日や』を読んでいると、
ドナルド・キーンさんの先の言葉を、思い浮かべてしまいます。

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