雑誌「中央公論」1992年8月号。
忘れられない雑誌です。
梅棹忠夫が「ひとつの時代のおわり」と題して
今西錦司追悼の文を掲載していた。
その印象は、鮮やかでした。
私が、鮮やかといってもしょうがないか(笑)。
それでは、司馬遼太郎さんは、どう書いたか。
梅棹忠夫編著「日本の未来へ」(NHK出版)
副題は「司馬遼太郎との対話」。
そのなかに、梅棹さんがインタビューに答えて
こう語っておりました。
梅棹】 ・・・今西錦司先生が90歳で亡くなったとき、
その追悼文を『中央公論』に書いたら、司馬さんから
すぐ手紙が来て、『これぞまことの文学』という
ほめ言葉で激賞してもらった。そういうことがあった・・
(p214)
うん。梅棹忠夫の今西錦司追悼文は、
「梅棹忠夫著作集第16巻」に入っていると、
今月になってわかりました(笑)。
ほかに、「フォト・ドキュメント 今西錦司」(紀伊国屋書店)
にも、今西錦司追悼文は掲載されておりました。
これで、古雑誌が探し出せなくなっても大丈夫(笑)。
いつでも、本で読みかえせる。
さてっと、著作集16巻の、その追悼文には
梅棹氏ご自身による解説があります。
私ははじめて読みました。
それを、はじめから引用。
「今西錦司博士は4年1カ月にわたる入院生活ののち、
1992年6月15日、90歳で永眠された。遺体は即日・・
京都下鴨の自宅にかえった。・・・
翌16日午後7時から今西邸でお通夜がおこなわれ・・
17日、朝10時から密葬がおこなわれた。
柩は年下の友人たちにかつがれて、自宅のすぐそば
の鴨川堤にでた。そこは、今西氏がわかいころ川床の
石をひっくりかえしてカゲロウの幼虫をしらべ、
有名な『すみわけ理論』を着想された場所であった。
鴨川堤からは、登山家今西氏をはぐくんだ
京都北山の連山がみえる。
葬列は今西氏の愛唱歌であった三高の『紀念祭歌』を
うたいながら、しばらく鴨川堤を行進した。・・・
本葬は6月20日午前11時から、今西家の菩提寺である
千本十二坊の上品蓮台寺(じょうほんれんだいじ)で
とりおこなわれた。・・・・・・
6月16日に、わたしは『中央公論』から追悼文執筆の
依頼をうけた。締切は目前にせまっていて、まにあうか
どうかあやぶまれたが、わたしは執筆をひきうけた
ちょうど18日に、国立民族学博物館において館長と
報道関係者との月例の懇談会がひらかれた。その席上で、
わたしは今西博士追悼のスピーチをおこない、
今西氏の業績とひととなりをかたった。
これが原稿執筆のための準備作業となった。
19日には、前日のスピーチをもととして口述をはじめ、
原稿の前半をつくった。
20日は、葬儀のあと今西邸にたちより、そののち、
京都グランドホテルにおいて口述で原稿の後半を執筆した。
21日には、午前中に原稿はすべて完成し、葬儀のために
京都にきていた『中央公論』編集長の宮一穂氏に原稿を
わたすことができた。・・」
(p464~465)
そうなんだ。
1986年に、ほぼ失明された梅棹忠夫氏が
口述で原稿執筆した追悼文を、
時をおかずに、読めた幸せ(笑)。
著作集であらためて読める幸せ。
忘れられない雑誌です。
梅棹忠夫が「ひとつの時代のおわり」と題して
今西錦司追悼の文を掲載していた。
その印象は、鮮やかでした。
私が、鮮やかといってもしょうがないか(笑)。
それでは、司馬遼太郎さんは、どう書いたか。
梅棹忠夫編著「日本の未来へ」(NHK出版)
副題は「司馬遼太郎との対話」。
そのなかに、梅棹さんがインタビューに答えて
こう語っておりました。
梅棹】 ・・・今西錦司先生が90歳で亡くなったとき、
その追悼文を『中央公論』に書いたら、司馬さんから
すぐ手紙が来て、『これぞまことの文学』という
ほめ言葉で激賞してもらった。そういうことがあった・・
(p214)
うん。梅棹忠夫の今西錦司追悼文は、
「梅棹忠夫著作集第16巻」に入っていると、
今月になってわかりました(笑)。
ほかに、「フォト・ドキュメント 今西錦司」(紀伊国屋書店)
にも、今西錦司追悼文は掲載されておりました。
これで、古雑誌が探し出せなくなっても大丈夫(笑)。
いつでも、本で読みかえせる。
さてっと、著作集16巻の、その追悼文には
梅棹氏ご自身による解説があります。
私ははじめて読みました。
それを、はじめから引用。
「今西錦司博士は4年1カ月にわたる入院生活ののち、
1992年6月15日、90歳で永眠された。遺体は即日・・
京都下鴨の自宅にかえった。・・・
翌16日午後7時から今西邸でお通夜がおこなわれ・・
17日、朝10時から密葬がおこなわれた。
柩は年下の友人たちにかつがれて、自宅のすぐそば
の鴨川堤にでた。そこは、今西氏がわかいころ川床の
石をひっくりかえしてカゲロウの幼虫をしらべ、
有名な『すみわけ理論』を着想された場所であった。
鴨川堤からは、登山家今西氏をはぐくんだ
京都北山の連山がみえる。
葬列は今西氏の愛唱歌であった三高の『紀念祭歌』を
うたいながら、しばらく鴨川堤を行進した。・・・
本葬は6月20日午前11時から、今西家の菩提寺である
千本十二坊の上品蓮台寺(じょうほんれんだいじ)で
とりおこなわれた。・・・・・・
6月16日に、わたしは『中央公論』から追悼文執筆の
依頼をうけた。締切は目前にせまっていて、まにあうか
どうかあやぶまれたが、わたしは執筆をひきうけた
ちょうど18日に、国立民族学博物館において館長と
報道関係者との月例の懇談会がひらかれた。その席上で、
わたしは今西博士追悼のスピーチをおこない、
今西氏の業績とひととなりをかたった。
これが原稿執筆のための準備作業となった。
19日には、前日のスピーチをもととして口述をはじめ、
原稿の前半をつくった。
20日は、葬儀のあと今西邸にたちより、そののち、
京都グランドホテルにおいて口述で原稿の後半を執筆した。
21日には、午前中に原稿はすべて完成し、葬儀のために
京都にきていた『中央公論』編集長の宮一穂氏に原稿を
わたすことができた。・・」
(p464~465)
そうなんだ。
1986年に、ほぼ失明された梅棹忠夫氏が
口述で原稿執筆した追悼文を、
時をおかずに、読めた幸せ(笑)。
著作集であらためて読める幸せ。