Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

主体と客体の間(2)

2023年06月06日 06時30分00秒 | Weblog
 「そうですね。正直言って、ヨハナーン自体はそれほど強く惹かれるキャラクターというわけではありません。このオペラでもっとも興味深い役はサロメであり、他の人物は彼女のストーリーを描くための補助的な存在だと考えています。したがって、ヨハナーンは特別な人物というより、サロメが手に入れられないものの象徴なのだと思います。

 「手に入れられないものの象徴」という解釈は的確で、(批判はあるものの)オーソドックスなフロイトの解釈とも合致する。

 「われわれが個々の神話の解釈を試みることは少ないが、首なしメドゥーサというおぞましい神話像についてはすぐに解釈できる。
 首を切るということは、去勢するということである。」(p277)

 明快な解釈だが、これをさらに発展させたのがラカンの説である。

 「子どもはペニスの象徴(=ファルス)を作り出すことで、母親=世界におけるペニスの欠損を補完する。これはしかし、ペニスの実在性をあきらめて、その模造品で満足しようという、大きな方向転換を意味している。だから、象徴を獲得するということは、存在そのものの所有はあきらめる、ということと同じことを意味している。
 このあきらめのことを「去勢」と呼ぶ。そう、ペニスをとっちゃうことだね。エディプス期における「去勢」こそが、人間が人間になるための、最初の重要な通過点なんだ。ここをくぐり抜けて、子供は言語を語る存在、すなわち「人間」となるんだから。なぜかって? ファルスこそは、あらゆる言語(=シニフィアン)の根源におかれた特権的な象徴にほかならないからだ。だからファルスってのは、さっきペニスの模造品って言ったけど、実体が伴わないかわりに、なんにでも形を変えられる特性を持っている。この変幻自在さが、そのまま言葉の自由さ、柔軟性につながっている。

 フロイトとラカンを読み合わせると、「サロメ」におけるヨカナーンの意義と、彼の首をサロメが欲した理由が明らかになる。
 サロメにとってヨカナーンは、「所有出来ないもの」の象徴であり、その首を切ることは「去勢」、つまり「『象徴』の獲得」を意味しているわけである。
(「特権的な『象徴』」を消去することによって「象徴」を獲得するというやや分かりにくいロジックだが、「独裁者を排除して共和制を樹立する」行為などを想定すると分かりやすいか?)
 ちなみに、「所有出来ないもの」を殺してしまわないまでも、それに近い状態にした例がギリシャ神話に存在する。
 エンデュミオーンがそれで、彼は、アルテミス(ローマ神話ではディアナ)によって永遠の眠りに就かされる。
 いわば「客体化」されたわけである(主体と客体の間)。
 だが、この「客体化」は、およそ「愛」の対極にあるもので、そんことは、サロメの最期の言葉が示すとおりである(それにしても、広瀬先生の本はよく出来た本だわ!)。

 「私は生きているが おまえは死んだ
  お前の首はいまや 私のもの・・・
  なぜ私を見なかった
  私を見ていれば 私を愛したはず
  私にはわかっている 私を愛したはず
  愛の神秘は
  死の神秘よりも 深いのだから」(p90~94)
コメント
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