スポーツ選手が「勝ち負け」に注力するのは当然のことかもしれない。
だが、一般社会でやたらと「勝ち負け」にこだわる、「ゼロサム思考」、「マウント思考」の人たちを見かけるのはなぜだろうか?
一つの答えは、「乳幼児期に”よい体験”よりも”わるい、いやな体験”が多かったために、『対象』が分裂したままで統合されないから」というものである。
(乳児には)「いろいろな体験が断片として表象化するわけですが、主として”よい体験の記憶痕跡”と”わるい、いやな体験の記憶痕跡”が別々の表象の元になる、と言われています。情緒体験として異質なものを連続的に記憶するのは難しいから、情緒的に近いものが集まって部分を作り出すわけです。・・・
成長するに従って、健常な乳幼児はしだいに表象を統合できるようになります。どのようにして統合されるのでしょうか。周囲の状況や自分の内面に起こる気持ちを正確に理解できるようになると、つまり経験や知識が増してくると、物事の受け止め方も現実に即したものになってきます。・・・
こうなるには、自我機能が発達することと、理解力、推理力、状況の多面的把握などの能力が発達することが条件となりますが、そうした発達があれば自ずから現実認識が進み、統合が起こらざるをえないのです。しかし統合が起こるのにはもう1つ条件があります。それは、それまでの乳幼児の体験で、よい体験の方がわるい体験より上回っていることです。内的にはよい表象世界がわるい表象世界より大きいことです。体験に即して言えば、たいていの場合は自分の願望が満たされ、気分のよい状態にあって、まれには嫌なことを我慢しなければならないことがある、という配分になっていることです。これなら「まあたまには仕方がないか、我慢するか」となるでしょう。この”仕方がない現実を受け入れること”から統合が起こるのです。」(p145~148)
「勝ち負け」は、(フロイトの用語で言えば)「対象」(Objekt)を、「敵」(不快)か「味方」(快)かに二分・峻別してしまうために生じるのだが、こういう思考に陥ってしまうのは、対象が分裂したまま統合されないからだという見方が出来る。
わるい体験が相対的に多いために「統合」が実現出来ていない人の場合、よい体験に固執してひたすらこれを守り続ける反面、それ以外の対象を拒絶(”原初的な拒否”)ないし攻撃してしまうというわけである。
言い換えれば、この種の人たちは、(「味方」、「快」だけに囲まれた)「自己愛」(ナルシシズム)の世界に引きこもっており、その外の世界に向かって自我を開いていないということなのである。
こういう風に考えてくると、「攻撃」衝動の根本原因は、強すぎる/不健全な自己愛にある、ということが出来るだろう。