「『椿姫』は息子デュマの出世作であり、最大のヒット作だった。そして同時に、私小説的な作品でもあったのだ。小デュマは本当に、娼婦と恋に落ちたのだった。小説と違っていたのは、男性主人公がブルジョワ家庭の大切な跡取りなどではなく、破天荒な父の30人にのぼるとされた愛人たちの、およそ百人といわれる子供のひとり、それも私生児だったことである。
もうひとつ大きく違うのは、「別れ」の理由だ。ふたりは「世間」を盾にした父親に引き裂かれたのではなく、「金の切れ目が縁の切れ目」で別れたのである。・・・一説によれば、マリー並みの売れっ子高級娼婦は、日本円に換算して年間二億円程度の維持費がかかったという。複数のパトロンがいて当然だ。・・・
さて、パリに出て来たマリーはしばらく「お針子」として働いていたが、これは彼女のような女たちがつく職業の典型だった。家賃の安い屋根裏部屋に暮らす彼女たちは、汚れが目立たないように灰色(grise)の服を着ていたため、「グリゼット(grisette)」と呼ばれた。・・・
デュマの小説がヒロインを美化していることは前に触れたが、その理由はおそらく、恋人がモデルだったためだけではない。デュマの母親は「グリゼット」だった。デュマの『椿姫』が彼女たちのような境遇の女性に肩入れしているのは、母親への思いも関係している。デュマは『椿姫』を通して、道を誤った女たちを、その境遇ゆえに蔑む世間を告発したのだった。もっとも、「穢れた場に身を置く清らかな女性を救い出す」というテーマは、十九世紀の男性芸術家たちに好まれたテーマではあったけれど。」(p236~244)
なるほど。
だが、「穢れた場に身を置く清らかな女性を救い出す」というテーマについて、イタリアはとんでもなく長い伝統を持つ。
「翻訳では「女衒」と訳されている、この言葉自体、説明が必要だよね。日本でも戦前までは身売りというものがあったのを知っているかな。貧しい家の娘が売られちゃうということがあって、こういう娘を買ってきて、それを使って商売をする人のことだ。
ポイントは、この女衒が女たちをまるで家畜みたいに不自由な状態にしておくということだ。・・・
ところがプレウシディップスという若者が現れた。ローマの喜劇というのは必ずこのパターンなんだけれど、必ず不自由な女性が出てくる、必ずかっこいい若者が出てくる、それで必ずこの二人は恋に落ちる。で、このかっこいい若者には必ず奴隷身分の切れ者の従者がいて、これがいろいろと作戦を立ててこの二人をハッピーエンドに導く。・・・
彼女のほうは女衒の手に落ちているから、高いお金を払って解放しなければならない。解放して初めて二人は晴れて結婚できる。大概しかし若者はお金を持っていなくって、でもお父さんは金持ちで、頭のいい従者がお父さんを上手く瞞してお金を出させる、という筋書きが多い。」(p173~174)
プラウトゥスの喜劇「ルデンス」(「綱引き」)についての解説であるが、「椿姫」の解釈においても参考になる。
いずれも「娼婦の解放(身請け)」がテーマだが、成功例の喜劇である「ルデンス」に対し、「椿姫」は失敗例の悲劇と見るわけである。