「そんな〈笑劇〉のパートは、唐突に終わりを迎える。主人公に、政治腐敗の〈抽象的な具体的証拠〉を持っていると告白したデスーザ牧師が、まるで傷のついたレコードのように同じ台詞でつっかえ始めると、不穏な電子音楽とともにいつの間にか重厚な衣裳や家具は姿を消し、「You just have to go deeper and deeper…(より 深く…深く…深く…)」という台詞にある通り、言葉で描写される物語世界の向こう側に入り込んでいく。
・・・この劇的なシフトが起こる中盤以降の部分を、パイトとヤングは〈未知〉あるいは〈脱構築〉のパートと呼んでいるが、言葉による笑劇を身体表現によってリヴァイズしたかのようなこのセクションこそ、パイトの振付の真骨頂といえる部分だろう。
パイトは、この〈未知〉あるいは〈脱構築〉のパートの振付方法を、以下のように説明している。「まず、前半の〈笑劇〉における身体の動きのみを、台詞なしで見直したんです。まるでミュートにして演劇を見ているみたいに。そしてその動きそのものを言葉で描写し直して、そのテキストを、ダンスでより極端な形へと膨らませていきました。例えば、〈詳しく説明する〉という言語による描写は、身体を使ってどこまで表現できるだろうか、というように。私にとっては、テキストがあることで、どんな振付にすればいいかは明確でした」 」
パイトがいうところの、「<未知>あるいは<脱構築>のパート」は、”言葉を超えるもの”の対象化、つまり、”言葉を超えるもの”を”身体”で表現することを意味している。
但し、そのためには、ゴーゴリの原作に大きな”改訂”(改変?)(Revise)を加える必要があった。
それは、「検察官」かつ「ナレーター」というキャラクターの設定である。
ジョナソン・ヤング「原作のテキストはほとんど使いませんでした。・・・根本的に変えたのは、検察官を作品の中に入れて、観客がほとんど検察官の「中」にいるような、少なくとも検察官の視点を通して舞台を見ることができるようにしたことです。・・・
私たちは、最初から検察官を登場させることを決め、ナレーターに扮して劇中に登場させることにしました。そして私たちは考えました。彼女がどのような証拠を発見するのか。私たちは何を見落とし、抑圧し、見て見ぬふりをしてきたのか。第4幕のこの部分全体が、彼女の検察、つまり劇を内部検察する場面となっています。」(公演パンフレットより)