(前回の続き)
「種内攻撃の歴史は、個体間の友情や愛よりも、数百万年も古い。・・・種内攻撃は相手役である愛をともなわないことがあるらしいが、逆に攻撃性のない愛は存在しないのだ。
概念として種内攻撃とはっきり区別しなければならない行動のしくみは、大きな愛の、小さなみにくい兄弟である憎しみである。ふつうの攻撃性とちがって憎しみは、愛とちょうどおなじく個体へむかう。たぶんそれは愛の存在を前提としているのだろう。愛したことのある場合にしか、そしていくら否定したくてもやはり愛している場合にしか、ほんとうの憎しみというものはありえないだろう。」(P300~301)
ちょくちょくフロイトを引用していることから分かるとおり、コンラート・ローレンツは、フロイトの著作を読んでいるのだが、上に引用した文章からすると、彼が「欲動とその運命」を読んでいることはほぼ確実である。
「愛」と「憎しみ」が同じ起源をもつことを認めているからである。
だが、彼の見解がフロイトのそれと大きく異なるのは、もともとあらゆる生物は「種内攻撃」、つまり「相手が同じ種であるというだけで無差別的に行う攻撃」を行う習性があり、これが後に「愛」(と「友情」)に転化したと考えている点である。
彼がこの本の初めで取り上げた珊瑚礁の熱帯魚について言えば、通常の「種内攻撃」は、「個体」と「個体」の間で行われる(ダイビングやシュノーケリングが好きな人ならこうした光景を見たことがあるはずで、私などは、自分の指を使ってクマノミと「種内攻撃ごっこ」ををするのが好きである。)。
但し、この場合のターゲットは、「同じ種の全ての個体」であり、特定の「個体」ではない。
これに対し、「愛」と「友情」を覚えた後のチンパンジー、あるいはそれと殆ど同じDNAを持つヒトについて言えば、「種内攻撃」は、「集団」と「集団」の間で繰り広げられるものとなっている。
このことは、例えば、「Chimpanzee Cannibalism(チンパンジーのカニバリズム)」を観ると分かりやすい。
2つのチンパンジーの群れが、1つのテリトリーを巡って争うとき、典型的な「種内攻撃」が行われる。
この場合のターゲットは、特定の「個体」ではなく、「集団」(構成員全員)である(たまたま逃げ遅れた弱い個体(多くは子供)が結果的にターゲットとなるだけである。)。
同時に、「攻撃」の主体も、特定の「個体」ではなく、「集団」である。
そして、獲物を食べるのも「集団」ということになる。
他方において、同一の「集団」内の「種内攻撃」は強く禁じられる(これが「愛」と「友情」の結果の一つである。)。
こういう風に見てくると、同じ「種内攻撃」でも、珊瑚礁の熱帯魚と、チンパンジーのような群生動物のそれとでは、構造が大きく異なっている。
両者を比べると、一周まわって同じところに来たというのではない。
後者では、「自己愛」が、自分の所属する「集団」に拡張されたと言うことが出来そうである。
もっとも、惜しいことに、チンパンジーはコンラート・ローレンツの観察の対象には含まれていなかった。
なので、彼は、愛も憎しみも「個体」に向けられるものだと言ってしまったのである。