(前回の続き)
「古い中国のことわざに、動物はすべて人間の中にあるが、人間すべては動物の中になしというのがある。・・・人間のさまざまな反応の中には、類人猿の祖先から受けついだまぎれもない「動物的」行動様式が不可欠であること、しかもそれが単に人間特有で高度に道徳的だとみなされる行為ばかりでなく、現実的である行為にとって不可欠であることを何よりもよく示す反応がある。この反応は、いわゆる熱狂である。・・・
サルがその社会的防御反応の際にどういう体験をするかは知らないが、かれが熱狂した人間と同じように、自分をかえりみず英雄的にその行為に自分の生命をかけるのだということはわかる。・・・もともとは個人的に知っている具体的な社会集団の仲間を守るのに役立っていた反応が、しだいに個人の集団よりももっと持続するところの超個人的な、伝統によって受けつがれた文化的価値を守るようになったのだということは、ほぼたしかだと思われる。」(p353~357)
コンラート・ローレンツの分析は、終盤で「攻撃と集団」というテーマに移り、その中で「およそ昇華などされていない社会的防衛反応」というキーワードが出て来る(p353)。
「社会的防衛反応」は、分かりやすく言えば「集団的攻撃行動」のことである(「防衛」を「攻撃」に置き換えた理由は後述する。)。
これは、「種内攻撃」の本能に淵源を有しており、「熱狂」を生み出す。
「熱狂」は、昇華されない場合、直ちに「闘争」に移行する(むしろ、「熱狂」は「闘争」の前駆状態と見るのがよいかもしれない。)。
しかも、始末の悪いことに、熱狂を最も強く解発するのは、出来る限り多くの人間が熱狂に同調することであり(p354)、集団によって熱狂は増幅されて行く。
これについては、ディオニュソスの祝祭におけるマイナスや、暴徒化したサッカーファンなどを思い浮かべるとよいだろう。
誰もが知るように、熱狂が与えてくれる満足感は並外れているので、その体験の誘惑には殆ど逆らうことが出来ない(p357~358)。
ここで重要なのは、コンラート・ローレンツが指摘するとおり、「超個人的な、文化的な価値」=集団的価値に向けられた「熱狂」を消散させる刺激状況を生み出すためにこそ、「党派」=「敵」と「味方」が作り出されるということである。
つまり、まず「集団」が存在しており、そこから「熱狂+闘争」が帰結されるというのではなく、「熱狂+闘争」という本能的欲求を満たすために、集団的価値及び「集団」(但し、「味方」と「敵」)がでっち上げられるという構造なのである。
このため、しばしば「集団的価値(例えば、「無垢なロシアの存続」)が危機に瀕しており、これを「防衛」する」という大義名分が出て来るのだが、「防衛」は誤魔化しであって、本質は「攻撃」である。
こういうわけで、「なんとかイズム」には要注意なのである(p354~)。