Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

言葉を超える(5)

2023年06月04日 06時30分00秒 | Weblog
ー私はどこにでもいる どこにでも
 希望なしと記録
 ここからが私の出番
 私がこの機構を作った
 そしてこの機構が私を滅ぼす
 私はここにいる
 ここにも
 私はこれに形を与えた
 これにも
 私はこの内部にいながら
 それを内包している
 この人物たちの中に
 私は統合され 分かたれている
 そのまま
 私を対象として記録
 よし
 呼吸する
 査察を続行

 「<未知>あるいは<脱構築>のパート」は、「検察官」かつ「ナレーター」の独白によって進行する。
 これは、
観客がほとんど検察官の「中」にいるような、少なくとも検察官の視点を通して舞台を見ることができるように
というジョナソン・ヤングの意図に基づいている。
 上に引用したくだりはその頂点であり、ここに至り、「検察官」かつ「ナレーター」は他の登場人物たちの中に統合され、「対象」となる。
 「査察」と「改訂」によってひたすら自我を拡張した結果、対象(客体)と融合してしまったわけである。
 つまり、「主体」でありながら、そのまま「客体」となった。
(このあたりは、小倉紀蔵先生の「多重主体主義」(多重主体?多重主観?)を思わせる。)
 これが、おそらくパイト&ヤングが目指している「言葉を超える」ことの一つのあり方ではないかと思われる。
 「一つの」あり方と言うのは、別のあり方も存在するからであり、それが、西欧の文法で言うところの、「愛」(=「自我の相互拡張」)である(主体と客体の間)。
 「査察」とは、対象を突き放して批判的に観察することなので、「愛」とは正反対のものである。
 ところが、「査察」を突き詰めて行くと、「愛」と同じく、対象の中に自分が入り込み、自分自身も対象になってしまうようだ。
 

 
コメント
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