「ー私はどこにでもいる どこにでも
希望なしと記録
ここからが私の出番
私がこの機構を作った
そしてこの機構が私を滅ぼす
私はここにいる
ここにも
私はこれに形を与えた
これにも
私はこの内部にいながら
それを内包している
この人物たちの中に
私は統合され 分かたれている
そのまま
私を対象として記録
よし
呼吸する
査察を続行」
「<未知>あるいは<脱構築>のパート」は、「検察官」かつ「ナレーター」の独白によって進行する。
これは、
「観客がほとんど検察官の「中」にいるような、少なくとも検察官の視点を通して舞台を見ることができるように 」
というジョナソン・ヤングの意図に基づいている。
上に引用したくだりはその頂点であり、ここに至り、「検察官」かつ「ナレーター」は他の登場人物たちの中に統合され、「対象」となる。
「査察」と「改訂」によってひたすら自我を拡張した結果、対象(客体)と融合してしまったわけである。
つまり、「主体」でありながら、そのまま「客体」となった。
(このあたりは、小倉紀蔵先生の「多重主体主義」(多重主体?多重主観?)を思わせる。)
これが、おそらくパイト&ヤングが目指している「言葉を超える」ことの一つのあり方ではないかと思われる。
「一つの」あり方と言うのは、別のあり方も存在するからであり、それが、西欧の文法で言うところの、「愛」(=「自我の相互拡張」)である(主体と客体の間)。
「査察」とは、対象を突き放して批判的に観察することなので、「愛」とは正反対のものである。
ところが、「査察」を突き詰めて行くと、「愛」と同じく、対象の中に自分が入り込み、自分自身も対象になってしまうようだ。