もっとも、「椿姫」には女衒は登場しないし、ヴィオレッタは、見たところ”自由”を謳歌しているようである。
確かに、「椿姫」には、「ルデンス」(綱引き)におけるような実力による人身の自由の侵害という問題は出てこない。
だが、ヴィオレッタは本当に”自由”だったのだろうか?
「19世紀のフランス社会においては、女性の地位が著しく低かった。端的な例が、1804年に成立したナポレオン法典は213条で、「夫は妻を保護する義務を負い、妻は夫に服従する義務を負う」と定めていた。つまり女性は結婚と同時に夫に従属する存在となり、夫の許可なしでは職業に就くことも、法廷に出ることもかなわなかった。既婚女性が自分名義の銀行口座を自由に開設できるようになったのは、なんと1965年になってからである。それでも結婚できればまだよかった。
結婚する際には、新婦側は持参金を用意する必要があったので、裕福なブルジョワ家庭同士であれば問題がなくても、持参金の用意が困難な家庭の娘は修道院に入ることも多かった。一方、労働者階級に属する女性たちは、生家が貧しいほど低年齢から働いた。彼女たちに許されていた労働は、メイドや洗濯女、お針子、花屋などの店員、あるいはオペラ歌手か女優などにかぎられ、遅くとも10代のはじめには見習いとしてこうした職業に就いたという。ただし賃金は男性の半分以下と、きわめて低かった。
このため「椿をもつ女」が書かれた前後のパリでは、手っ取り早く稼ぎを得るべく娼婦になる女性が多かったのだ。 」
「椿姫」には「女衒」こそ登場しないものの、当時の法制度と社会慣習は女性の自由(とりわけ職業選択の自由と婚姻の自由)を奪っていたのである(私などは、この記事を読んで、一流大学を出たものの就職難のためソープ嬢になった就職氷河期の女子大生たちのことを思い出してしまった。)。
ヴィオレッタ(ないしマリー)やデュマ・フィスとその母も被害者であり、デュマ・フィスはたまたま男に生まれて文才があったから、自由になることが出来たのだ。
「クルチザンヌ」にしても、パトロン=金に依存するわけだから真の自由を手に入れたわけではないし、何よりも”ラ・トラヴィアータ”(道を誤った女)として「世間」から差別を受けるのである。
こうしてみてくると、「椿姫」において、ヴィオレッタを迫害してその自由を奪っているのは、「世間」あるいはその象徴であるジェルモンであり、「世間」あるいはジェルモンこそが、プラウトゥスの喜劇における「女衒」に相当する存在ということが言えるだろう。
私などは、"Di Provenza il mar, il suol"(「プロヴァンスの海と陸」)を歌うジェルモンの声が、シューベルトの「魔王」の猫なで声のように聴こえて来るのである。