① 「時は海なり」(「ドナルド・キーン宛書簡」(昭和45年10月3日))
これだけだと文脈が分からないが、実際の書簡(三島由紀夫未発表書簡集 ドナルド・キーン氏宛の97通)は以下のとおりとなっている。
「豊饒の海といふ題は、特に第四巻には関係ありませんが、第四巻ではじめて、まともに海が出てくるので、実は小生の小説はいつでも海が出て来すぎるので、今まで第一巻の一部分を除き、可成控えてゐたわけです。「豊饒の海」は月のカラカラな嘘の海を暗示した題で、強ひていへば、宇宙的虚無感と豊かな海のイメーヂとをダブらせたようなものであり、禪語の「時は海なり」を思ひ出していただいてもかまひません。」(p206)
「嘘の海」という表現から、この「海」が、「実在性」、「外在的対象性」及び「到達可能性」という3つのメルクマールをいずれも欠いていること、つまり「第2の animus」であることが直ちに分かる。
ちなみに、「時は海なり」というのは不正確で、出典と思われる正法眼蔵の「有時」では、「海も時なり」となっている。
このくだりについて、角田泰隆先生の解釈によれば、「存在(「私」と「海」)と時は一つである」という趣旨のようである(道元禅師の時間論ー『正法眼蔵』「有時」を中心にしてー)。
上の書簡において、作者は、もっと分かりやすく説明すべきところを、照れ隠しなのか、彼独特の「唯識論」(むしろ唯我論?)によってキーン氏を煙に巻いたという印象を受ける。
「「豊饒の海」は、私(作者)の分身(「第2の animus」)である登場人物たちが、”転生”、つまり時空を超えて出現と消滅を繰り返す物語であり、「海」は、この物語の登場人物たち及び物語が展開される時空そのものの象徴なのです。もちろん、この「海」は実在するものではなく、私(作者)、あるいは読者の心の中にだけ存在するものなのですが。・・・それも『心々』(こころごころ)ですからね。」
という風に、明快に説明することは出来なかったのだろうか?
まあ、これだとネタばれになっちゃうか?