「供犠1」は、一見すると奇妙な・理解しがたい行動のように思えるが、精神分析の観点からは、合目的的な行動として説明出来るようだ。
「フロイトの論文全体はむしろ我われに次のことを示しています。性の生物学的合目的性、つまり生殖に照らせば、心的現実の過程において現れてくる欲動は、部分欲動である、ということです。」(p124~125)
「性欲動の終着点は死であることに驚くべきではありません。生あるものにおける性の現前は死と結びついているのですから。」(p128)
「・・・「新しい主体 ein neues Subjekt」の出現は次のように理解しなければなりません。一つの主体、すなわち欲動の主体が前から存在しているというのではなくて、ここで新たに一つの主体が現れるのを見る、ということです。この主体はまさしく他者なのですが、欲動がその循環的行路を閉じることができたというかぎりにおいて現れます。他者の水準に主体が現れることによってのみ、欲動の機能というものが実現しうるのです。」(p130)
「どこかでフロイトが言っていました。自体愛に与えうる理想のモデルは自分で自分に接吻している口であろう、と。・・・
いずれにしても、欲動の満足を性源域のたんなる自体愛から区別するものは対象ですが、欲動は、この対象のうえに閉じると誤解されています。実際はこの対象はうつろの現前、空の現前であるにすぎません。それは、フロイトが言うように、どのような対象によっても占められます。我われはこの対象の審級を失われた対象 a という形でしか知ることはできません。」(p132~133)
「弓には生命という名が与えられているが、その働きは死である」というヘラクレイトスの言葉の引用で始まる「精神分析の四基礎概念」の中の「部分欲動とその回路」の章は、そのまま「供犠1」の解説としても十分通用するように思える。
ラカンが援用するフロイトによれば、「愛は根源的にナルシシズム的なものである」ため、当初は(部分欲動として)「自体愛」的に発現し、その後は「拡張された自我」(erweiterten Ich)の中に同化された対象にも適用されるようになるという。
「供犠1」も、こうした観点から見ると理解しやすいだろう。
もっとも、「供犠1」は、およそ「自体愛」の次元にとどまるものではない。
「私」が”永遠の生命”を究極の対象としているとするならば、それは「愛」ではなくむしろ「信仰」と呼ぶべきだからである(ゆえに「(日本版・現代版)ディオニュソス信仰」なのである。)。
対して、「供犠2」には、明確に「他者」が登場する(なお、「供犠1」における「他者」は、強いて言えば「海」だろう。)。
もちろん、このときの「他者」というのは、現実に存在していた人々(市ヶ谷駐屯地で野次を飛ばしていた自衛隊員たちなど)のことではなく、実際には現前していなかったし、もしかすると今後も現前しないであろう、
「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本」
のことである。
この点、最後に引用したラカンの結論部分の言葉は、全く悪夢というほかない。
彼によれば、”永遠の生命”も、「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本」も、”空の現前”に過ぎないことになる。
・・・こういう風に見ていくと、「精神分析的手法」は、作者が指摘したとおり、「文化意志以前の深み」に落ちてしまう、あるいは「人類共有の、暗い、巨大な岩層 」に衝き当たってしまう、という感を抱いてしまうのである。