⑤ 「海は、僕には、女の子にとって結婚がそれであるかのような、官能的な憧れです。」(山田野理夫宛書簡(昭和22年2月3日))
(女の子にとっての)「結婚」=「海」という等式は、人間を生の世界に巻き込む「仲介者」としての「海」を彷彿させる。
しかも、「官能的な憧れ」という言葉からすると、「海」は、容易には手の届かない「到達不可能」な存在のようである。
この言葉にはやや不吉な響きがあり、「海」が他方では冥界(つまり「原 animus」)につながっていることをも暗示しているようだ。
したがって、この「海」も、「第2の animus」と見てよいだろう。
ちなみに、山田野理夫氏は、民俗学的なバックグラウンドをもつ作家・詩人・歴史家であるが、三島は晩年民俗学を忌避するようになったので、交友は初期の段階に限られていたのかもしれない。
・・・・・・こうして見ていくと、「即興詩人」のアントニオや吉本ばなな氏による自我の拡張(ばなな氏=TUGUMI=海の”三位一体”)に比べると、三島による「海」への(疑似的な)自我の拡張は、やはり極めて不健全であると言わざるを得ない。
私見では、彼はやはり「道を誤った」のであり、そのこと(ディオニュソス信仰を含むギリシャ文化全般に関する致命的な見落としの点も)は、「潮騒」の時点では既に明らかだった(もっとも、これについて書き始めると長くなると思うので、続きは後日ということにしたい。)。
・・・というわけで、「特集展「充満する海のことば」」は本日が最終日ですので、皆さん、くれぐれもお見逃しなく!