② 「地上の生活の滓がここまで雪崩て来て、はじめて『永遠』に直面するのだ。今まで一度も出会わなかった永遠、すなはち海に。」(「天人五衰」)
「永遠」=「海」という等式から、この「海」が、「到達不可能」なものであり、「第2の animus」であることは明瞭に読み取れる。
だが、私の個人的な感想は、(これを選択した方(佐藤館長?)には大変申し訳ないが、)
「そこじゃない」
である。
というのも、この少し前に、決定的に重要なくだりがあるからである。
「海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか名付けようのないもので辛うじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、この豊かな、絶対の無政府主義(アナーキー)。」(p7)
もちろん、ここでの「名」はレフェラン(référent:指示対象)と読み替えて解釈する必要がある。
何と、ここには、「レフェランの不在・拒絶」という、三島作品を読み解くためのキー・コンセプトというか、二大ライト・モティーフの一つ(もう一つは「自己人身供犠」)が、作者自身によってはっきりと呈示されているのである。
これは、まさしく作者の出血大サービスというべきだろう。
これによって、
「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」(「英霊の聲」)
も、
「どうして「第2の animus」(signifiant としての animus)であるべき天皇陛下はレフェラン=人間となってしまわれたのか」
という意味として、容易に理解することが出来るようになる。
また、「レフェランの不在・拒絶」を踏まえれば、「私」(溝口)が「金閣寺」を燃やしたのは、「抽象概念としての『美』を破壊し、それに頼ることなく『生きようと思った』からだ」という橋本治氏のようなとんでもない誤解をすることもなくなるはずである。
「私」(溝口)は、(signifiant:抽象概念としての)「美」を、「第2の animus」の次元に押しとどめるために、レフェラン(指示対象)たる現実の金閣寺を破壊したのだから。