④ 「近江の生命にあふれた孤独、生命が彼を縛めているところから生れる孤独、・・・」(「仮面の告白」)
「私」が、「海」を前にして近江を回想するシーンである。
だが、私の個人的な感想は、(これを選んだ方には大変申し訳ないが、)
「そこじゃない」
である。
というのも、この直後に、二大ライト・モティーフの一つである「自己人身供犠」のプロトタイプが、これ以上はないといっていいくらい明確な形で顕れているからである。
これも、作者の出血大サービスと言って良いだろう。
「ーー私の腋窩には夏の訪れと共に、・・・黒い草叢の芽生えがあつた。・・・私の情慾が私自身のそれへ向つたことは否めなかつた。その時私の鼻孔をわななかせてゐた潮風と、私の裸かの肩や胸をひりひりさせながら照りつけてゐた夏の激しい光りと、見わたすかぎり人影のなかつたことが、寄ってたかつて、青空の下での最初の「悪習」に私を駆ったのだった。その対象を、私は自身の腋窩に選んだのだった。(中略)
ーー波が引いたとき、私の汚濁は洗はれてゐた。私の無数の精虫は、引く波と共に、その波の中の幾多の微生物・幾多の海藻の種子・幾多の魚卵などの諸生命と共に、泡立つ海へ捲き込まれ、運び去られた。」(p239)
「私」は、自分の腋窩に欲情し、(泳げないため「私」にとっては到達不可能な)「海」(「第2の animus」)に向かって、 corpus:身体の一部(精液)を「エクペダン」させ、犠牲に供した。
つまり、一種の「自己人身供犠」が行われた。
さて、この「供犠」の対象は一体何だろうか?
もちろん、「腋窩」(レフェラン)ではあり得ず、かといって「海」でもない(それにしても、「私」を生の世界に巻き込む「媒介者」としての「海」の描写の何とみごとなこと!)。
さらに言えば、「生命(いのち)」ですらない。
「私」(あるいは作者)は、「生命(いのち)」を至上の価値と看做しておらず、そのことは、「私」(あるいは作者)の行動や、とりわけ「激」の文面(「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。」)からも明らかである。
そうではなく、モース=ユベールも示唆したとおり、「自己人身供犠」の究極の対象は、”永遠の生命”、つまり「原 animus」(パウロの言葉で言えば、「霊」(<第二の生命>中心主義))と考えるべきである(なので、この小説のタイトルは、「仮面の告白」ではなく、「(日本版・現代版)ディオニュソス信仰の告白」とすべきだったのかもしれない。)。
このことは、「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」が掲載されたサンケイ新聞夕刊の切抜き(死後発見されたもの)に作者が書き込んでいた「限りある命ならば永遠に生きたい」という言葉や、死の直前に読んでいたのがプラトンの「パイドン」であったという事実によって裏付けることが出来る。
要するに、作者が昭和23年11月25日に起筆した小説(むしろ「メタ小説」というべきか?)の中で呈示したプロトタイプとしての「自己人身供犠」(以下、便宜的に「供犠1」と呼ぶことにする。)は、ちょうど22年後の昭和45年11月25日、現実の世界で、但し原型をとどめないほどデフォルメされた形で、実現(むしろ「反覆」?)されたのである(こちらを以下「供犠2」と呼ぶことにする。)。
ただ、「供犠1」と「供犠2」との間で異なるのは、① 「エクペダン」する corpus の体液は何か、② その結果、「人身供犠」は「人命供犠」(命と壺(1))に至ってしまうのか、③ 見かけ上の「供犠」の対象、すなわち、「海」を「媒介者」としつつも明確に”永遠の生命”(「原 animus」)に捧げられているのか、それとも、「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本 」(「第2の animus」)に捧げる体裁をとる一方で(究極の対象であるはずの)「原 animus」は隠されているのか、という3点くらいである。