Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

唯一の共同作品(5)

2022年11月20日 06時30分42秒 | Weblog
 (事後)強盗殺人という大罪を犯したミシェルが無事でいられるわけもなく、新聞各紙には大々的に彼の写真が載るようになる。
 このあたりは、「いつも新聞ばかり読んでいるミシェル」と「ジャーナリスト志望でニューヨーク・ヘラルド・トリビューンの売り子であるパトリシア」という設定が効いている。
 さて、「認識と行動の先送り」というパトリシアの規範には、重要な例外がある。
 それは、「自分の自由と独立を守る」場合である。
 彼女がジャーナリストを目指しているのは、
 ”ça me sert d'avoir de l'argent et d’être libre des hommes” (お金を手に入れるのと男たちから自由でいられる)
(p76)ためだった。
 つまり、彼女にとっては、金と男からの「自由と独立」こそが至上命題であり、「認識と行動の先送り」は、むしろそれを実現・維持するための規範だったのである。

 ”Je ne veux pas être amoureuse de toi.” (私はあなたを愛したくない)(p100)
 ”Je veux que les gens ne s'occupent pas de moi.” (私は他人に支配されたくない)(p102)

 ついに彼女は、ミシェルを「愛さない」という決断を下し、彼の居場所を刑事に通報する。
 ここでパトリシアは、決然として「認識と行動」に転じたのである。
 これに対し、ミシェルは、
 ”...en ce moment, c'est que je ne devrais pas penser à elle et j'y arrive pas..” (考えまいとしても、今は彼女のことしか考えられない)(p104)
状態に陥り、「自由と独立」を失う。
 ボギーに憧れてアメ車を盗み、アメリカ人女性を愛してしまったアメリカかぶれのミシェルは、なんとも皮肉なことに、「自由と独立」というアメリカ精神を体現するパトリシアの裏切りに遭い、死に至る。 
 こういう風に考えていくと、ラストのパトリシアのセリフ:
 
 ”Qu’est ce que c'est dégueulasse ?” (「最低」って何のこと?)(p106)

は、彼女の表情・仕草と相俟って、「あんたにそんなこと言われる筋合いはないわ」という意味であるように思えてくるのである。

 
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唯一の共同作品(4)

2022年11月19日 06時30分41秒 | Weblog
 私などは、職業柄か、映画を観るときに言葉(セリフ)にばかり注目してしまうが、この映画を読み解くためには、言葉以外の(non - verbal)要素に着目する必要があるようだ。

『勝手にしやがれ』Vol.4|鏡を愛するチンピラ=ジャン=ポール・ベルモンド

 まず、ミシェルのモデルないしアイコンが重要である。
 彼については、「唇を指でなぞる仕草」が特徴的で、これは、「マルタの鷹」(1941年)のハンフリー・ボガートの仕草の引用だそうである。
(ちなみに、ラストではこの仕草がパトリシアにも伝染してしまう。)
 いわば「本歌取り」なのだが、アメリカン・フィルム・ノワールに出て来るギャングに憧れ、アメ車ばかりを盗み、アメリカ人留学生:パトリシアに首ったけになるというところからして既に、ミシェルのバカっぷりが遺憾なく表現されている。
 次に、ジャケットの着脱という行為の持つ意味が重要である。

 「ジャケットを着ている時に輝き、ジャケットを脱いだ時に、この作品は倦怠に突入するのです。

というのは、ファッションの専門家ならではの鋭い指摘である。
 ジャケットを着ている間じゅう、ミシェルは死に向かって突進するが、ジャケットを脱いだとたん、小休止に入るのである。
 さらに、大事なのは、「しかめっ面をする」(「むっつりする」「スネる」)(faire la tête)という仕草である。
 ミシェルによれば、これには三種類があって、人生はこの三つの表情に要約されるという。
 ラストで、彼はこの三つの表情をつくった後、”dégueulasse” と呟いて死ぬのである。
 
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唯一の共同作品(3)

2022年11月18日 06時30分49秒 | Weblog
 ミシェルがなぜパトリシアに執着するのかという点については、二人の関係性から理解すべきだろう。
 「死について考える青年」は、「死を考えない若い女性」、つまり生の頂点にある人間を、自分とは対極にあるという理由で必要としているのである。
 ミシェルの行動は殆ど動物的で、道を歩きながら、パトリシアに
 ”On couche ensemble, ce soir?” (今夜、一緒に寝ないか?)
と口説きかける。
 これをのらりくらりとかわすパトリシアの言葉が面白い。
 ”Je ne sais pas” (分からないわ)
 これぞ、「何も知らない」人間が放つ殺し文句である。
 パトリシアは、自分がミシェルを愛しているのかどうかすら実は分かっていないようだ。
 続くミシェルの追及に対し、パトリシアは、
 ”On se verra demain...”(明日会えるでしょ)
と気を持たせつつ先延ばしする。
 これは第二の殺し文句である。
 ミシェルはなおも食い下がり、
 ”...je voudrais rester à côté de toi.” (君のそばにいたいんだ。)
と今度は子供のように泣き落としにかかるが、パトリシアは冷たく突き放し、ジャーナリストに会いに出かける。
 それを見ながらミシェルは、
 ”Fous le camp, dégueulasse!”(行っちまえ、最低の女!)
と吐き捨てるのである(p32)。
 ちなみに、Fous le camp は、「勝手にしやがれ」と訳すことも出来る。
 このあたりがおそらく最初のピークで、ソナタ形式で言えば「提示部」に当たる。
 ミシェル=死について考える青年は、パトリシア=死を考えない女性に惹かれるが、二人の間にコミュニケーションは成り立たない。
 ミシェルは、息が切れるまで(à bout de souffle)死に向かって突き進んでいるのだが、パトリシアは、「分からないわ」+「明日会えるでしょ」という生きるために必要とされる規範=「認識と行動の先送り」を厳格に守っているからである。
 こういうパトリシアを、ミシェルは”dégueulasse”と表現する。
 ミシェルからすれば、パトリシアの規範は、単なる「死の先送り」のように見えるのかもしれない(「生きるとは、死を先送りすることである」と言ってしまえば元も子もないけれど。)。
 あとは、この主題の展開部と再現部ということになるだろう。
 さて、3回目の”dégueulasse”は、オレリー空港での小説家:パルヴレスコ(フィルム・ノワールの巨匠、ジャン=ピエール・メルヴィル監督)が、「ショパンはお好きですか?」という質問に答えた一言:
 ”Dégueulasse!”(最低だ!)
である(p70)。
 パトリシアはその場に居合わせているので、ラストシーンでは、彼女は既に”dégueulasse”の意味を知っていたという解釈も成り立つわけである。
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唯一の共同作品(2)

2022年11月17日 06時30分57秒 | Weblog
 白水社の「勝手にしやがれ」は、注釈は付いているが日本語訳は付いていないという、やや使いにくいシナリオ教材である。
 なので、DVDを観ながらフランス語のセリフと日本語訳を照合する作業が必要になる。
 もっとも、映画館とは違い、疑問が生じれば停止して繰り返し確認できるので、DVDは助かる。
 dégueulasse が最初に出て来るのはp14で、「正午までに5000フラン用意してくれないか?」と無茶な要求をするミシェル(ベルモンド)に対し、彼のガールフレンド(台本にはFilleとしか書かれていない)が放った次のセリフ:
 ”Je l'aurais parié. T'es dégueulasse, Michel.” (そう来ると思ったわ。あんた最低、ミシェル。)
である。
 次に登場するガールフレンドがパトリシア(ジーン・セバーグ)で、アメリカ人留学生のためフランスのこともフランス語のこともよく知らない女性という設定である。
 何しろ、les Champs (シャン・ゼリゼの略称)について、「『シャン』って何?」とミシェルに訊いてくるレベルなのである。
 それどころか、ゴダール監督によれば、パトリシアは「死を考えない若い女性」であり、世界についてまるで無知である。
 そういうわけで、パトリシアはひたすら”Qu'est-ce que ~ ?”(~って何?) という、事物の「意味」を問う質問を連発し、ミシェルはこれに答えるという、不思議な会話が続く。
 ゲーテの「何でも知らないことが必要で、知っていることは役に立たない。」という言葉を思い出させるようなやり取りである。
 生きるためには、(とりわけ自分の運命を)「知らないこと」が必要である。
 対して、監督によれば、ミシェルは「死を考える青年」であり、「知ってしまった」人間である。
 警官を殺してしまい、やがて死ぬという自らの運命を知ってしまったミシェルは、パトリシアの問いに対し、ひたすら事物の「定義」をもって応えることを余儀なくされる。
 ここでの「定義」は、事物に固定された意味、すなわち「死」を与えることに等しい。
 かくして、二人の会話は、「生の審問」と「死の宣告」という対を成すことになる。
 
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唯一の共同作品(1)

2022年11月16日 06時30分26秒 | Weblog
ジャン=ポール・ベルモンドの代表作『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』などを一冊に詰め込んだ復刻号が発売!
 「ヒューマントラストシネマ有楽町&シネ・リーブル池袋ほか全国順次公開決定!ジャン=ポール・ベルモンド主演、ジャン=リュック・ゴダール監督の傑作『勝手にしやがれ』、『気狂いピエロ』の二作品が劇場で上映されます。

 ゴダール監督逝去直後に注文したDVDを今頃になって観ているが、監督が自殺(尊厳死)した理由の一つが分かったように感じた。
 それは、「ベルモンドが亡くなったから」。
 引用した記事にもあるとおり、ベルモンドの代表作としては、いまだに「勝手にしやがれ」と「気狂いピエロ」というゴダール作品が真っ先に挙げられるくらい、ゴダールとベルモンドはセットとして考えられている。
 ところが、「気狂いピエロ」の撮影の際、二人は不仲となったそうである。
 Wikipedia(ジャン=ポール・ベルモンド)から引用すると、
 「同年再びゴダールの『気狂いピエロ』に主演する。しかし、ベルモンドはシナリオを使わないゴダールのやり方を批判し「二度とゴダールとは仕事をしない」と宣言した。一方のゴダールも、1970年に商業主義の映画を嫌うと宣言し、もっとも使いたくない俳優の筆頭にベルモンドを挙げている。
とあり、その後ベルモンドがゴダール作品に出演することはなかった。
 そういう意味では、ちゃんとセリフがあって重要な役目を果たしている「勝手にしやがれ」こそが、この二人にとって唯一の幸福な「共同作品」だったように思える。
 事実、この映画は観ていて実に気持ちが良い。
 改めて観て分かったのだが、早くもシーン3の”Chambre de bonnne” で”dégueulasse”(最低!)というセリフが出て来る(形容詞と名詞)。
 言うまでもなく、この言葉こそがこの映画の核心である。
 ”dégueulasse”がある意味主人公としてストーリーを駆動させていたのであり、ベルモンドはその化身なのである。
 同様に、「気狂いピエロ」もやはり「言葉が主人公」の映画だということが出来るが、それがいわゆる”セリフ”ではなかったというところが、ベルモンドにとっては気に食わなかったのかもしれない。
 
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シェイクスピアのポリコレ解釈

2022年11月15日 06時30分24秒 | Weblog
モナコ公国モンテカルロ・バレエ団「じゃじゃ馬馴らし」 バレエになったショスタコーヴィチ
 「ジャン=クリストフ・マイヨーにはシェイクスピアの戯曲を題材とする「ロミオとジュリエット」や「夏の夜の夢」がありますが、いずれも音楽の上に洗練された振付を施して卓越した舞台を実現しています。今回マイヨーとモンテカルロ・バレエ団が持ってくる「じゃじゃ馬馴らし」もシェイクスピアによる作品ではあるのですが、音楽の使い方の点で、前記2作品と異なるのです。というのも、「ロミオ~」はプロコフィエフの"バレエ音楽"ほぼそのままに、「夏の夜の夢」もメンデルスゾーンの同名の劇音楽に振付けたものに対し、「じゃじゃ馬馴らし」の場合は、終始ショスタコーヴィチの音楽で統一されているとはいえ、大部分が彼の映画音楽(!)からとられているのです。

 モンテカルロバレエ団の来日公演は、おそらく珍しい。
 私などは、”モンテカルロ”と聞くと、やはり既に31回来日公演を行っているトロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団の方を先に思いついてしまう。
 さて、「じゃじゃ馬馴らし」のコリオは非常にアクロバティックで、スリリングな場面の連続である。
 音楽は大部分がショスタコーヴィチの映画音楽から採用されているというが、雰囲気やコリオとマッチしていて、最初からバレエ音楽として創られたかのようである。
 ちなみに、彼は第一回ショパン・コンクールに出演しているが、本人いわく盲腸の痛みのため実力が発揮できず、不本意な結果に終わっている(ショパンコンクールでのショスタコーヴィチさん)。
 シェイクスピアの戯曲では、手に負えないじゃじゃ馬娘のカタリナをペトルーチオが機知と勇気で”馴らす”というストーリーだが、これはさすがに現代では受け入れがたい。
 台本作家のジャン・ルオー氏によれば、
 「気難しい女性をいかに「飼い馴らす」かではなくーー最終的にはお互いを認め合うことになる二つの強烈な個性の出会いを描いている。
という風に、ポリコレ解釈が施されている。
 こういう風に、音楽もストーリーも、原作からかなり変容したものとなっていて、新たな創作と言う方がよいようだ。
 
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周回遅れ(6)

2022年11月14日 06時30分46秒 | Weblog
いま日本に「世襲」「偏差値エリート」のボンボン医者が急増中 医者の能力格差はこんなとこにも…
 「京都大学名誉教授の橘木俊詔氏らの研究によれば、医者の父親に生まれた男子のうち39%が医者になっていると推計されている。さらに、すべての医者のうち、親が医者である人の割合は36%にのぼる。
 「とくに近年は、かつて高学歴の理系学生が入社していた三菱重工や東芝といった企業が業績不振にあえいでいる。以前であれば、エンジニアになっていたはずの人材が、安定志向の風潮のなか医者になっていくといったケースは増える一方だ。

 現在では、(例外はあると思うが)知的階層の担い手たることを医師に期待するのは難しい。
 なので、消去法でいくと、「新しい自由な社会」の担い手としては、専門技術職層の中でも「法曹と霞が関(官僚)」くらいしか残らないことになるだろう。
 ところが、霞が関(官僚)のモラル崩壊は指摘されて久しいし、ロースクール出身者についても、資質に疑問のある人材がちらほらいるようである。

逮捕の経産官僚「2人で相談」 有名私大付属高の同級生
 「逮捕されたのは、同省産業資金課係長の桜井真(28)=東京都千代田区一番町=と産業組織課職員の新井雄太郎(28)=東京都文京区向丘1丁目=の両容疑者。有名私立大の付属高校の同級生だという。

 うち一人は、「国がばらまく金。取れるものは取ろうと思った」と供述していた(「国の金、取ろうと」 容疑の元経産官僚 給付金詐欺)。
 この背景に、「「日本」という問題」、つまり「国家」の不存在と「国庫」の統御不能というお馴染みの問題があることは明らかだが、さらにその根底には、また別の問題(病気)が潜んでいる。
 重要なのは、桜井被告について、省内では「仕事の出来る人」という評価がなされていたことである。
 このことから、当該省庁あるいは霞が関全般で、「知的階層」の「知」とはおよそ異質な「知」が、ある種の資質として重視されていることが窺われる。
 但し、この点について、高等教育機関(大学や大学院)に責任を問うのは筋違いだろう。
 というのも、こうした偽の「知」の基盤が培われたのは、大学に入る前だと思われるからである。
 こういう風に考えてくると、やはり中等教育が根深い問題を抱えていることは間違いなく(知的信用)、ここにある病気の発生源を断つことが最優先課題であるように思える。
 だが、残念なことに、私にはこの問題を分析する知識も能力もない。
 どなたか、非常に有能な教育学の研究者の方などが、この問題を分析をしてくれないものだろうか?
 そういうプロジェクトに、国は惜しみなく予算を出すべきだと思うのである。
 「法曹と霞ヶ関(官僚)」の一部は、既にこの病に侵されて久しいのだから。
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周回遅れ(5)

2022年11月13日 06時30分52秒 | Weblog
 日本における「新しい自由な社会」の担い手は、消去法で行くと、「専門技術職層」ということになるのだろう。
 これが何を指すかは一つの問題だが、弁護士会の研修での木庭先生の言葉から推測すると、現在は「法曹と霞が関(官僚)」ということのようだ(知的信用(5))。
 もっとも、この種の「専門技術職層」は、期間限定ではあるものの、過去に存在していたと見られる。
 それは、江戸末期から明治期にかけての、医師を中心とする知的サークルである。
 いわば、日本版のリベルタン・エリュディ(libertin erudit)である。

人は時代といかに向き合うか 三谷 太一郎 著
 (渋江抽斎や栗本鋤雲など)「彼らは、同じ知的共同体に属する同時代人であった。また、抽斎に傾倒した鴎外もまた時代を超えて、彼らと同じ知的共同体に属していたといってもよいであろう。鴎外を敬慕した荷風も同じである。」(カバー裏の説明文より)

 江戸時代の思想をリードした人たちをみると、例えば、安藤昌益、本居宣長、平田篤胤などはみんな医者である。
 
解説 お江戸の科学 江戸時代の医者
 「・・・初期の医者に坊主頭が多いのは、僧侶が漢学の知識を生かして医療に従事していた名残りだという。・・・」

 江戸時代にあっては、「医者」≒「僧侶」で、コアは「漢学者」なのである。
 こうしてみると、幕末から明治期にかけての知的サークルを主に医師が構成していたことや、それが「期間限定」であった理由が分かるように思う。
 当時、「イエ」の呪縛から逃れて自由に関する思索を深めることが出来たのは、世襲によってではなく、学問(漢学)を修めることによって開業が可能となる医者くらいしかいなかったのかもしれない。
 もっとも、医術開業試験(1875年~1916年)やその後の医学教育機関出身者による医師業独占化に伴い、それまでの「(漢方)医」(漢学者)が一掃されてしまい、知的サークルも崩壊したのではないだろうか。
 
 
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周回遅れ(4)

2022年11月12日 06時30分02秒 | Weblog
 「新しい自由な社会」の担い手はいわゆる「知的階層」であって、”政治家”ではない。
 その理由は、(世界的な傾向であるが)「政治的階層」の育成(又は再建)がうまくいっていないからであり、日本について言えば、「政治的階層」の発生を阻止するシステムが厳然として存在するからである。

憲法の土壌を培養する 木庭 顕「政治的階層と知的階層」
 「政治的階層を構成するのは、自らの経済的基盤をめぐる(ギリシャ・ローマ風に言えば領域の)問題を深く考察する人々であり、政治的決定の多くは経済の問題の解決を目指すものであった。
 さて、経済ないし領域の問題を含めてそれを解決するために、直接の利害関係を超越する、というのであるから、彼らは塊にならず、追従せず、一人一人独自の省察を遂行している、つまりその意味で自由である、ということが条件となる。利益は必ず集団と共にあり、塊になるということは利益に縛られることを意味するからである。すると厳密な意味の個人を、それも複数、(少数であるとそこにまた共同体が出来てしまうから)相対的に多数、調達する必要がある。つまり彼らが階層として社会の中に具体的に存在していなければならない。
」(p283~284)
 
 日本の”政治家”の現状を見れば、「政治的階層」が成立しない原因はすぐに分かる。
 もし私が「政治家コンサルタント」であれば、政治家志望の若者に対しては、次のようなアドバイスをするだろう。

 「政治家になるためには、杉村太蔵(元)先生のような極めて幸運な方は別として、政治家の子(養子)になることが必要です。

 どこかで聞いたようなセリフだが、日本で”政治家”になるためには、先祖代々大きな資本(地盤・看板、鞄)を有してきた集団=イエに帰属して自らの自由を放棄することが必要なのである。
 これを実行する人も多数いて、その代表例が現在の法務大臣(葉梨康弘氏)である。

葉梨法相「死刑のハンコ押しニュース、地味な役職」…パーティーで「法相はお金集まらない」
 「葉梨氏は「外務省と法務省は票とお金に縁がない。外務副大臣になっても、全然お金がもうからない。法相になってもお金は集まらない。なかなか票も入らない」とも発言した。

 政治家の養子となってそのイエを受け継いだ彼は、その一族と支持基盤=集団(塊)のために「お金」を必要としているようである。
 しかも、この種の人たちが”政治家”の圧倒的多数を占めているのが日本の現状なのである。

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周回遅れ(3)

2022年11月11日 06時30分19秒 | Weblog
シュム ペーター 経済発展の理論 上
 「なぜなら、もともと生産をおこない、新結合を遂行するためにこそ、企業者は購買力を必要とするのである。そしてこの購買力は、循環における生産者のように、先行経済期間の売上金から企業者に対して自動的に与えられるものではない。もし彼が、偶然の場合はさておき、一般にはこれを所有していないとすれば――もし所有しているなら、それはずでに以前の発展の結果にすぎないーー、彼はそれを「借り入れ」なければならない。これに成功しなければ、彼は明らかに企業者になることはできない。」(p264~265)

 シュンペーターの不朽の名著。
 一般に流通している第二版は1926年の発行なので、かれこれ100年近く経とうとしているが、もはや日本は100年遅れという感がある。
 彼の主張によれば、「新結合」は金融、つまり「資本家から企業者への富の移動」によって実現されるわけだが、日本では、銀行がこれに逆行してきた。
 何しろ、企業者に対して、「土地を差し出しなさい。さもないとお金は貸しませんよ」と言っていたのだから。
 土地(=「以前の発展の結果」)を所有している者にだけ金融を行うのであれば、銀行は、既存の資本家の維持に奉仕するための存在ということになる。
 要するに、銀行は、企業者が生まれないようにするための装置だったのである。
 この根底には、「新参者の登場を許さない、あるいはこれを抑圧するシステム」があると思われるが、私見では、これも伝統的な「イエ」の思考に由来しているような気がする。
 
どうなる「社長の個人保証」
 「個人保証は「経営者保証」とも呼ばれますが、個人と会社の資産を一体として扱っている中小企業も多い中で、会社の財産と個人の財産を一体として弁済を担保する仕組みです。
 金融機関にとっては安心して融資ができるメリットがありますが課題も指摘されてきました。
 例えば、経営者がリスクをおそれて新規事業を始めるのをためらったり、事業を引き継ぐ後継者がなかなか見つからなかったりする要因になるとも言われています。
 またベンチャー企業の創業を妨げるという指摘もあります。


 一般的な金融機関のマニュアルでは、会社の場合は「実質的経営者」、個人事業主の場合は「法定相続人」の連帯保証を徴することとされてきた。
 こうした個人とカイシャを同視するかのような「経営者保証」も、結局のところ、「イエ」(事業・職業の世襲)の思考から脱却できていないことの証左のように思える。
 なので、金融庁が「経営者保証の見直し」を金融機関に求めたとしても、根本的な思考が変わらない限り、実効性は乏しいのではないかと思うわけである。
 ましてや、後継者不足に対処するための、つまり「イエの存続」を目的とする政策なのであれば、全くトンチンカンなことをやっていることになるだろう。
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