Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

周回遅れ(2)

2022年11月10日 06時30分41秒 | Weblog
 「信用の機能不全」について言えば、20年ほど前、私がある金融機関の融資担当者であった頃のことをいつも思い出す。
 地元の有名企業の創業●周年記念行事での出来事である。
 たまたま、脱サラして起業した若い経営者と隣席となり、その社長さんから「新事業を展開したいのだが、資金調達で悩んでいる」という話が出た。
 アメリカの有名なコーヒーショップが日本進出を計画していて、そのフランチャイズ店を開設したいという話である。
 「●●銀行は・・・と言っているんですがね・・・」などと銀行の対応についての言葉が続いたのに対して、思わず私は本音を漏らしてしまった。

 「銀行の言うことばかり聞いていたら、新事業なんてできませんよ

 この社長さんは私の言葉に感銘を覚えたのか、「来週にでもご相談に行きますよ」と面談を予告した。
 ほどなくしてその社長さんが店舗にやって来て、私を指名して融資の相談を行った。
 だが、事業計画についてのヒヤリングを終えた後で、私は規程に則って、

 「融資を行うためには、不動産担保が必要です

という無慈悲な言葉を発せざるを得なかった。
 その瞬間、社長さんの顔には落胆の色があらわれた。
 脱サラした若い経営者のことなので、ある程度予想していたのだが、社長さんも親族も、不動産を所有していなかったのである。
 当時、長期金融の世界では、不動産担保主義、つまり不動産に(根)抵当権の設定を受けることを融資の条件とする原則を採用する金融機関が圧倒的多数を占めていた。

担保主義からの脱却は必要か(2006年6月20日)
 「担保(特に不動産)や保証人を提供しないと企業がお金を借りられないという、いわゆる担保主義が指摘されて久しい。果たして、担保主義はどの程度深刻な問題なのだろうか。不動産担保を持たないが将来性のある企業は、金融機関が担保主義では資金調達ができない。不動産担保に依存しないお金の流れが必要な理由はここにある。

 就活に失敗した経験から、私は「人の心を傷つける職業」を避けてきたのだが、この志を貫徹することは出来なかった。
 実際には、「融資を行うためには、不動産担保が必要です」という言葉を述べることによって、多くの起業志望者たちの心を傷つけてきたのである。
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周回遅れ(1)

2022年11月09日 06時30分14秒 | Weblog
経団連の影響力占う試金石、「中途」改め経験者採用呼びかけへ…消極的な印象払拭
 「経団連は、新卒者ではない従業員の採用で一般的に使われている「中途採用」という言葉の使用をやめ、「経験者採用」に統一するよう会員企業に呼びかける方針を固めた。「中途」が与える消極的な印象を払拭(ふっしょく)し、円滑な労働移動を促して経済の活性化につなげる狙いがある。

「就社」から「就職」、それは国民が選択すべき問題
 「これがもし本質的な「就職」システムに変わったらどうなるか。まず、企業が応募者に対して要求する資質が変わり、職種に応じて専門的な知識・能力を求める場合が増えるだろう。その場合、職種などに応じた待遇の差が大きくなる可能性もある。「就社」における採用基準として重視されていた「性格」「人柄」「コミュニケーション能力」などのウエイトは自ずと低下し、大学で培った専門的な能力が評価対象の中心となる。大学教育に対する要求が高くなり、大学自体もレベルが高まるかもしれない。

 これが最近の記事だというので驚く。
 既に90年代から、各国が高等教育に注力してきたのだが(新しい自由な社会と「博士」たち)、日本は周回(30年ほど?)遅れということかもしれない。
 さて、新しい自由な社会の担い手である「大量の専門技術職層、およびこれと結びついた芸術家ないし芸術関連専門職層、そして独立度の高いマネージャー層」のうち、「経験者採用」の中から生まれて来る可能性があるのは、「独立度の高いマネージャー層」(おそらくこれには起業家も含まれている。)だろう。
 こうした人材にとっての障壁は、やはり「労働力移動コスト」と「信用の機能不全」だろう。
 「労働力移動コスト」についていえば、私などは、転職や専門職大学院への入学を繰り返すアメリカ人が羨ましく思える。
 それは、「労働力移動コスト」の問題に余り悩まなくて済むからである。
 何しろ、日本で転職や専門職大学院への入学を繰り返すと、新卒入社組との間には、”マイホーム”1件分くらいの差がついてしまうのだから。
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原作にないセリフ

2022年11月08日 06時30分18秒 | Weblog
Verdi Gala ヴェルディ・ガラ 《オテロ》より“俺は無慈悲な神を信じる”/清水 勇磨
 「・・・そして俺は信じている。
 揺りかごの赤から墓場の蛆虫に至る邪悪な運命を弄ぶ人間を。
 数多くの幻想に続いて死がやって来る。
 それから?それから?
 死とは無なのだ。神とは古い寓話なのだ!


 ヴェルディの「オテロ」の中のアリアだが、最後の言葉がシェイクスピアが書いたセリフとは思われず、まるでニーチェのように思えたので、原作「オセロー」をあたってみた。
 ところが、このセリフが見つからない。
 あえて近いところを探せば、次のくだりがあった。

 「・・・それなら、どうしておれが悪党なのだ、キャシオーにすすめて。いずれは奴のためにもだめにもなる特効薬を一服盛ってやっただけではないか?悪魔の神学談義とはこのことか!悪魔が極悪無慚の罪をそそのかそうというときは、まず最初は天使の姿を借りて誘いをかけるという、今のおれがそうだ。・・・」(p85)

 だが、明らかにオペラとは違う。
 ・・・と思っていたら、やはりシェイクスピアが書いたセリフではなく、台本作家:アッリーゴ・ボーイトの創作だった(化粧坂の姐さん)。

 時系列的には、「ツァラトゥストラはかく語りき」の方が「オテロ」に先行するので、元ワーグナー崇拝者のアッリーゴ・ボーイトがこれを読んでいた可能性もゼロではないが、普通に考えると、「悪魔」⇒「無慈悲な神」という連想が働いたと見るのが自然だろうか?
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コンサートは生きている

2022年11月07日 06時30分00秒 | Weblog
マルティン・ガルシア・ガルシア ピアノリサイタル
 「ショパン:
  4つのマズルカ Op. 33
  舟歌 Op. 60
  「24の前奏曲」より Op. 28-13、Op. 28-3、Op. 28-2、Op. 28-14
  ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 Op. 35 「葬送」
  ラフマニノフ:
  楽興の時第3番 ロ短調 Op. 16-3
  楽興の時第2番 変ホ短調 Op. 16-2
  ピアノ・ソナタ第1番 ニ短調 Op. 28


 鼻歌(鼻歌協奏曲)と全身を左右に揺らす奏法が印象的なガルシア・ガルシア氏の今年2回目の来日ツアー。
 曲目はショパンとラフマニノフで、これなら丸山眞男先生から「盛り合わせ音楽会」という批判を受ける心配もない。
 前回のツアーの印象から”パワー系”というイメージを抱いていたのだが、前半のショパンは感情豊かで、比較的おとなしめである。
 ところが、意外なところで事件が起こった。
 予想できないことだったが、Op. 28-14で、ピアノが生きている猛獣のように暴れ出したため、私は恐怖を覚えたのである。
 こういう”震撼させられる”現象は生のコンサートだからこそ起こるのであって、CDでは決して体験することが出来ない。
 過去の例で言うと、東京・春・音楽祭2019「15周年記念ガラ・コンサート」の「歌劇 《オテロ》 第2幕より オテロとイアーゴの二重唱 <神にかけて誓う>」でのペーター・ザイフェルトの歌唱がまさしくそうだった。
 歌が終わった瞬間、会場の聴衆の殆どが立ち上がり、拍手とブラヴォーの嵐がしばらくやまなかったのである(東京・春・音楽祭 15周年記念ガラ・コンサート(4月12日、東京文化会館 大ホール))。
(ちなみに、後でこの映像をストリーミングで視てみたけれど、生の迫力は殆ど伝わらなかった。)
 ところで、ガルシア・ガルシア氏は、自分のことを、楽譜を忠実に解釈する演奏家だと考えているらしい。

マルティン・ガルシア・ガルシア、大胆な演奏の裏に精密な分析「音符なぞるだけではダメ」
 「そのショパン演奏は、典型的なショパンのスタイルとはかなり異なる。強弱の振幅が大きく、大胆なテンポやフレージング(歌い回し)を多用する。「『典型的なスタイル』とは何を指すのでしょう? 皆、他人の演奏ばかり気にして、実体のない空虚な様式を作り出している。僕はあくまで楽譜に書いてあることを信じます」と断言する。
 
 だけど、鼻歌のことは、楽譜には書いてないと思うぞ。
 
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抱き合わせと序列化

2022年11月06日 06時30分28秒 | Weblog
平野紫耀、岸優太、神宮寺勇太が来年5月にキンプリ脱退で退社へ 永瀬廉、高橋海人2人で存続
 
 このニュースには、ふだんほとんどテレビを視ない私も驚いた。
 だが、早くも、退社するメンバーの今後が心配になる。
 というのも、この事務所は、退社する人間について、「敷居を跨がせない」どころか、「干す、つまり地上波から追放しかねないほどの力を持っていると噂されており、実際、公取委が「優越的地位の濫用」の疑いで注意したという事件があったからである。
 そういえば、独禁法では「抱き合わせ販売」も禁止されている(抱き合わせ販売と独占禁止法)。
 アイドルをピンではなくグループにして”抱き合わせ販売”する手法は、事務所にとってはやりやすいのだろう。
 アイドルの側としても、仲の良いメンバーが集えば、相乗効果によって、「個の力」を超えるものが生み出される可能性もある。
 だが、事務所側は必ずといってよいほどメンバー間に”序列”をつけてくるので、SMAPの例のように、どうしても亀裂が生じてしまう。
 ちなみに、この「抱き合わせと序列化」という手法は、女性アイドルグループでも定番となっている。
 考えてみれば、(中規模以上の)カイシャの従業員も、この事務所のアイドルと同じように、カイシャによってグルーピング(○○支店、営業第×課、等々)され、その中で(人事考課などによって)序列化されているのである。
 なので、”総選挙”に熱狂していた人たちは、もしかすると、自分たちの姿をそこに重ね合わせて鬱憤を晴らしていたのかもしれない。
 いずれにせよ不健全な手法なので、なくなってよかったのだろう。
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最高傑作(2)

2022年11月05日 06時30分41秒 | Weblog
《チェロ&チェロ・ピッコロ》 マリオ・ブルネロ J.S.バッハ無伴奏チェロ・リサイタル
 「「ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」と「チェロ組曲」。この2作品は、私にとっては2つの側面をもったひとつの惑星です。4本の弦の振動が織りなす美しい音楽への私の愛は、月の裏側、つまりそれまで手に取ることのなかったバッハの至宝とも言える作品を探求する旅へと私を誘いました。長年にわたり「チェロ組曲」に取り組んだ後、バッハもよく知っていた楽器で、18世紀半ば頃まで広く使用されていたチェロ・ピッコロを携えて、私は「ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」をチェリストの視点から再発見することとなりました。「ベースラインから」鏡に映して見るようにして、新たな普遍的作品の全体像を発見するに至ったのです。

 ”チェロ・ピッコロ”という楽器によるシャコンヌが目新しい。
 私の印象は、チェロより少し優しい音色というものである。
 さて、シャコンヌはバッハの最高傑作に挙げられているわけだが、「チェロ組曲」と同様、バッハの作であることについては疑いがない。
 なぜそうかと言えば、やはり、メロディラインがバッハ特有のものだからというのが、一番しっくり来るのではないだろうか?
(もっとも、専門家は別の指摘をするのかもしれない。)
 そういう観点からすると、"Bist du bei mir" が長年バッハの作と考えられてきたこと(あなたがそばにいたら_シュテルツェル_Bist du bei mir_Stolzel)はちょっと信じられない。
 メロディラインがバッハとは明らかに違うからである。
 ”シチリアーノ”などもそうで、これは素人でも分かりそうなレベルである(バッハのシチリアーノって、J.S.Bach作じゃ無いよね…)。
 ・・・こういう風に考えてくると、トッカータとフーガニ短調 BWV 565も、やはりバッハの作ではないという気がする。
 なので、「最高傑作」には挙げないのが穏当なのだろう。
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新しい自由な社会と「博士」たち

2022年11月04日 06時30分39秒 | Weblog
法律時報2022年6月号 ロシアのウクライナ侵攻と日本国憲法9条……木庭 顕
 「対するにウクライナ側は「自由を死守する」と言う。西ヨーロッパでも、「自分たちの自由な社会が脅かされた」という危機意識が非常に強い。この場合、「自由な社会」は冷戦時代のニュアンスを欠く。「自由な」経済体制のことではない。むしろそれならばロシアも合格であり、まさに冷戦終結後この古い基準でロシアは「西側」に受け容れられてきたのである。ところが、今この受け容れは反省に晒されている。受け容れてきた、ないし利用してきた、ないし依存してきた、「オリガルヒ」を真っ先に追放する動きに出た。これが私的軍事組織、そしてその極大値としての今回の侵攻軍事集団、と直結しているということが理解されているのである。ということは、「オリガルヒ」を受け容れてきたのとは別の「自由な社会」が形成されてきていた、ということであり、これが今回のロシアの軍事行動と全面対決を辞さないのである。
 「畢竟、新しい自由の社会の正体は一体何か、が鍵を握る。しかしこれを分析する用意は今のところ私にはない。ただ、大量の専門技術職層、およびこれと結びついた芸術家ないし芸術関連専門職層、そして独立度の高いマネージャー層、が新しい階層の中核を担っているということは言える。彼らは高等教育(次第に博士課程をデフォールトとしつつある)の産物であり、国境を全く越える。1990年代からこのような層が形成されるという見通しがあり、各国が高等教育に力を注いだ。しかしリーマンショック等により言わば馬脚を現わした側面もある。」(p65~66)

 例によって鋭い洞察であるし、今後の中国の動向を見極めるうえでも参考になるだろう。
 今や「新しい自由な社会」こそが希望の光なのだが、これを支える層は次第に「博士課程をデフォールトとしつつある」そうである。
 個人的に気になるのは、「法務博士」はこの「博士」に含まれるかどうかという点である。
 同じ「博士」でも、「法務博士」と「法学博士」は、おそらく格段の違いがあると思うからである。

「大学全入時代」突入か 河合塾予想、今冬の入試から 浪人さらに減
 「これまでの平均的な定員総数の増加率と志願者数の減少率、18歳人口に対する大学志願率などから計算すると、早ければ、来年4月入学向けの入試にも理論上の「大学全入時代」が訪れる可能性があるという。

 この傾向が進めば、そのうちに「ロースクール全入時代」が到来し、さらには「全員博士時代」となるかもしれない。
 そうなると、「新しい自由の社会」は、日本においても盤石ということになるだろう。
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スポンサー枠と「日本」という問題

2022年11月03日 06時30分14秒 | Weblog
森保ジャパン 大迫、原口外し 堅実な男の“攻め” 攻撃陣にW杯経験者ゼロ
 「「経験は大事だが、経験がない選手たちの、W杯で成功したいという野心を持って戦ってくれるエネルギーに期待した」。経験よりも若さを選んだ。東京五輪代表が10人。W杯初出場は過去最多の19人に上る。堅実な指揮官が大胆な選手選考を行った。

南野・柴崎“スポンサー枠”批判に反発…元FC東京MF投稿炎上「ハリルが…」
 「なおロシアW杯開幕直前で日本代表監督を解任となったバヒド・ハリルホジッチ氏は今年3月、クロアチアメディア『Sportske Novosti』のインタビューで「(代表監督の去就について)政治が決めることもあれば、ビジネスが決めることもある。その時、結果は重要ではない。例えば、日本ではビジネスが物事を決めたんだ」
 「そこでは大物選手たちと契約しているスポンサーが、私が(彼らを)ワールドカップに連れて行かないかもしれないと聞いていたのだ。それにそのスポンサーは日本サッカー協会に出資していた」
 「日本では、お金を出す人が物事を決めるんだ。だから、私が一部の選手を(ロシアW杯に)連れて行かないかもしれないという話を聞いて、私をクビにした」と告白。「スポンサー枠」でロシアW杯日本代表メンバーに選ばれた選手が存在することを明かしていた。


 こういう局面で必ず人選の問題が出て来るのはある意味では仕方がない。
 だが、サッカーの場合、特別だと思うのは、「スポンサー枠」の問題である。
 これは、例えば野球ではまず考えられないだろう。
 サッカーだと、例えば、傑出したフォワードの選手の力で試合が決まってしまうといった具体に、個人プレーにかなりの比重がある点が他のチームスポーツとは異なっているように思う。
 そして、この点が、「選手個人にスポンサーが付く」というシステムの根拠となっているのだろう。
 とはいえ、スポンサーの有無と人選の問題は本来切り離して考えるべきであり、「スポンサー枠」という言葉が存在すること自体がおかしいのだろう。
 やはり、ここでも、「『日本』という問題」=「誰のものでもないはずの「公」がなぜか「私」(の集団)によって「僭奪」されてしまう現象」が出現しているのである。
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置いてけぼり?

2022年11月02日 06時30分55秒 | Weblog
【速報】「東京・春・音楽祭2023」ラインナップ発表!
 「桜咲く春の上野を舞台にした国内最大級のクラシック音楽の祭典 「東京・春・音楽祭2023」 を、2023年3月18日(土) から4月16日(日)まで開催いたします。
 「「東京春祭ワーグナー・シリーズ」はマレク・ヤノフスキ指揮/NHK交響楽団との《ニュルンベルクのマイスタージンガー》、・・・」

 東京・春・音楽祭2023のラインナップが発表された。
 目玉とも言うべき「東京春祭ワーグナー・シリーズ」の演目は、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」で、2013年に続く2回目の公演となる。
 私が予想していた「トリスタンとイゾルデ」(2020年上演予定だったが新型コロナウイルス感染症拡大の影響により中止)はまたしても置いてけぼりとなった。
 推測だが、演目・歌手の選択は、指揮者のマレク・ヤノフスキさんの意向が強く働いているのではないかと思う。
 私としても、ヤノフスキさんがお元気なうちに、彼の指揮によるワーグナーを聴いておきたいと思うので、「トリスタンとイゾルデ」は再来年以降でいいと思う。
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こうでなくてはならない

2022年11月01日 06時30分38秒 | Weblog
【秋公演「ガラスの靴」】
 「振付作品を創作するにあたり、いつも気にかけている事があります。”こうでなくてはならない”という考えです。これは定着している考え方やイメージ像、ストーリーやキャラクター、振付や演出など様々なものに言えることです。
 「どうか皆様も”こうでなくてはならない”という考えを一度取っ払って、楽しんでいただけましたら幸いです。」(公演フライヤーより)

 振付家:宝満直也氏の、フリーになってから最初の全幕バレエ(のはず)。
 「シンデレラ」にはいくつものバージョンがあるが、おそらくフレデリック・アシュトン版が最も有名で(フレデリック・アシュトン版バレエ「シンデレラ」あらすじとみどころ解説)、シンデレラが妃として迎えられるという結末である(ちなみに、個人的には、「白馬の王子」が最後まで登場しないヨハン・コボー版(トゥーシューズとスリッパ)が印象深い。)。
 「ガラスの靴」は、フランス?の、ある人気ブティックが舞台である。 
 エラ(シンデレラ)は、オーナーのガブリエラ夫人に孤児院から引き取られ、ゴーストライターならぬゴーストデザイナーとして働いている。
 そこを訪れた貴婦人のはからいで、エラはコレクション・パーティーに参加することになり、そこでスーパースターに出会うというストーリー(但し、エラがスーパースターと結ばれる結末ではない)。
 つい先日、同じコンビ(秋山瑛さん&秋元康臣さんによるニキヤ&ソロル)で「ラ・バヤデール」を観たのだが(エコな演出)、全く違うシチュエーションで、しかも秋山さんは髪をおろしているので、別人のようである。
 主役の二人以外では、ガブリエラ夫人を演じるブラウリオ・アルバレスさんの怪演(顔芸を含む)が光り、また、退団又は引退したダンサー(高岸直樹さん、川島麻実子さん、八幡顕光さんほか)のオーラが際立っている。
 やはり、現役のダンサーとは意気込みが違うようだ。
 さて、芸術家に限らず、およそ仕事をする人間であれば、”こうでなくてはならない”という発想から時々抜け出す必要があると思う。
 ところが、これと反対のことに終始して、”こうでなくてはならない”を強要する組織(特に大企業などの官僚主義的組織)のなんと多いことだろう。
 退団又は引退したダンサーのパフォーマンスが光るのは、この種の「組織の束縛」から解放された状態にあるからかもしれない。
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