終わりよければすべてよしAll's Well That Ends Well
シェイクスピアに限らず、外国の戯曲の上演には大きな難関がある。
それは、言うまでもなく、「翻訳」の問題である。
本公演の台本は、小田島雄志先生の翻訳に基づいている。
今もなおシェイクスピア翻訳の第一人者であり、かなり読みやすい訳ではあるものの、40年ほど経ってみると、やはり「古い」という印象を拭えない。
設定が「外国の時代劇」みたいなものなので、セリフが堅苦しくても多少は許されるが、口語表現としてほぼ絶対に使用されない言葉が出て来ると、いっぺんに興ざめとなってしまう。
その例を、「終わりよければすべてよし」(白水Uブックス)の前半と後半からいくつか引用してみる。
① ラフュー「・・・医学の力で死と対抗できるものなら、永久に生きておいでになるほどの技量をおもちだったとか。」(p9)
② ラフュー「忠勤を励めば必ず最高の報いがありましょう。」(p12)
③ 王「元気でな、諸卿、・・・」(p42)
④ 貴族2「伯爵は、・・・その娘の操を奪って欲情を満たそうとしている。」(p131)
⑤ ヘレナ「あなたの方が私より先に拝謁なさるでしょうから、・・・」
小田島先生の翻訳はだいぶんマシな方だが、それでも、会話にはほぼ100%出てこない単語がいくつも出現し、そのたびに「あー、これって、外国語を学者が訳したやつね」という印象を抱く人は多いだろう。
私見では、
① 「技量」→「腕前」
② 「忠勤を励めば」→「まじめに働けば」
③ 「諸卿」→「皆の者」
④ 「娘の操を奪って欲情を満たそう」→「娘の処女を奪って性欲を満たそう」
⑤ 「拝謁」→「王様にお目にかかる」
といった風に、会話表現として不自然でないものに置き換える工夫が必要だと思う。
そうすれば、「生きたセリフ」に生まれ変わると思うのである。