パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

大衆の反逆(再読して?)

2015年06月26日 19時49分10秒 | 

読みかけばかりの本のなか、とりあえず最後のページまで達したのが
オルテガの「大衆の反逆」
 

この本は以前読んだ事がある
そしていつか再読しようと興味をもった
しかし、再読していつもながらの事なのだが、こんな内容だったのかと
自分が全然覚えていなかったことにショックを覚える
覚えていたのは、なにか知らんが面白かったという印象だけ、、
それが自分の能力なんだから仕方がないが 

そして読み返した今でも結局は自分の能力の範囲内でしか
理解できていないが、それはそれでいいとして
とりあえずの感想を

感想の前にいろんな気になるフレーズがある
まずは大衆の定義が説かれる

大衆とは善きにつけ悪しきにつけ、特別な理由から自分に
価値を見出すことなく、自分を「すべての人」と同じだと感じ、
しかもそのことに苦痛を感じないで、自分が他人と同じであることに
喜びを感じるすべて人々のことである。 

この言葉が書かれたすぐ後にこんな文章が続く

ところで社会には、その性質上どうしても特殊であり、その結果、
やはり特殊な才能がないと上手く遂行されない仕事や活動や職務がある。
たとえば、芸術的でぜいたくな性格をもったある種の楽しみとか、
行政の仕事、あるいは社会的な事柄に対する政治的判断などである。
以前はこうした特殊な活動は能力のある人、あるいは少なくとも
能力があると主張する少数者によって遂行されていた。
そうして大衆は、そういうことに口を挟もうとしなかった。
彼らは、もし口を挟みたいなら、あの特別な才能を獲得し、
大衆であることをやめなければならないことを承知していたのだ。

ここで「反逆」という言葉が出てくるが
こうした大衆がいままで少数者の行ってきた仕事、活動に大衆の視点で
参加し、徐々に自分たちのわがままな意見をゴリ押しにしてくる
風潮を1930年時代のヨーロッパ社会から描いたもので
大衆の無目的、享楽的な面が前面に出されて危機感を追って記されている

しかし、この時代背景から大衆に及ぼす影響の部分は認めることができても
現代のIT関連の進歩によってオルテガの予想した世界とは
少し異なってきているのではないか?と思う面もある

特殊な能力である政治、行政については現在はその気さえあれば
少なくとも情報については大衆が正確なモノをつかむことができる
そしてその情報を元に大衆は知恵を持つこともできるようになった

これは市民自治とか地方自治とか、そういう言葉に代表される
政治行政の一般化が特別なものではなく、当然行われるべきものとして
存在している
そこには大衆の無目的、享楽的視点からだけではなく
必要に迫られて専門家的な知恵を持たざるをえない大衆が存在する

このことはここ数ヶ月新城市の住民投票とか産廃阻止の活動を行う
市民団体の活動で身にしみて感じたこと

とはいうものの、まだまだ大衆は
「無関心層」の別の表現でもあるので 
オルテガの指摘のほうが正しい部分も多い

この手の本ではリースマンの「孤独な群衆」
ベルクソンの「道徳と宗教の二源泉」 
を関連して読む(再読する)といいかもしれないが
どうも最近は気力・体力・記憶力、そして老眼・白内障などの
マイナス要因がそれらの本に向けさせないでいる

本は慣れと勢いが必要
バイオリスムが来た時にそれらの本は読むことにしよう
もし来なかったら、その時はその時、、仕方ない ?

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議決の責任(新城市の庁舎建設に関して)

2015年06月26日 19時28分54秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

一般論ではなくて、新城市における住民投票を踏まえての
独断と偏見に満ちた考察(?)

 市民の代表としての議員、その議決における責任が問われているがここで少し素朴な疑問。
議員の下した判断を変えることは責任をもっていないことになるのか?
首尾一貫した態度・姿勢でないことは恥ずべきことか?

 話をあまり単純化してしまうのは、多少問題があるかもしれないが、
議員のあるべき姿とか議会システムをよく知らない自分は、ここのところがどうも気になって仕方ない。 

一般企業、いや普通の人間の生活の中でも判断が変わることは頻繁にある。
朝思ったことが夕方には変わっている。一週間前に言っていたこととついさっき言っていたことと矛盾する。
こういったことは余りにも多いので、逆に首尾一貫していることの方が異常とさえ思える。
そういえば江戸川乱歩の嘘発見器とかいう話だったと思うが、余りにも完璧に答えた人物は、
完璧過ぎるためにそれが人間的でないということで、嘘を言っていると判断された!
というような話があったが、人間はあちこち揺れるのが当たり前の姿なのではないか。

まして状況は刻々と変化している。
判断を下した時点の状況と、現在考えなければならない状況と明らかに違ってきているとしたら、
首尾一貫とした判断を守り続けることは正しいことなのだろうか?
そしてそれが民意を反映していることになるのだろうか?

民意は個々の案件の問題ではなくて、明らかにその議員を選んだ時点で、
お任せしますという意味で、その議員の判断を民意の現れと解釈することができる。
つまりいちいちアンケートをとらなくても、議員の判断が民意の現われと判断しても良いということ。
しかし、自分の意見・判断が民意だと過剰に思ってしまうと数年後の選挙で再選されない
という結果に陥ってしまうので、実際には常に自分の判断力を磨くために努力を〈市民の声を聞く努力を〉しなければならない。

ここで最初の疑問に戻って、議員は議決の判断を変えることは、
先の議決に責任を持っていないことになるかという点だが、自分はお気楽な性格なので、
その時点での判断をすれば、つまり状況が変化したので以前の判断と違う判断をしたところで
責任を果たしていないとは考えない。いや、むしろ真摯に考えているかもしれないとさえ思う。

確かに自分の言ったこと、判断したことを変えるということ、それを公にするということは
人として恥ずかしいことかもしれない。そしてそれをおこなうには勇気がいる。

あいつは前言ったことと、今言ってることが違うと非難されるかもしれない。
そしてこれは実際に先の住民投票の運動の中でもよく見られたことで、
市民の会の代表も、それを応援している市議も、かつては庁舎建設の現計画に賛成したのではないか!
それを今になって変えるとは、、、と過去の判断を批判された。

しかし、状況が変わった時点で(合併特例債の期間が伸びた時点で)再度真摯に考えた結果、
自分の判断の間違いを認め(実はそのように判断せざるを得ない状況もあったらしいが)
勇気を持って、自分の信じる方向に行動したことはなんら恥ずべきことではないと思える。

そしてその真摯な思いは結果として住民投票の結果として現れた。

今議員さんたちは過去に自分たちが下した判断に縛られている。
市民の代表として信託を受けた自分が、その時ベストだと思った判断の変更を余儀なくされている。
今回自分たち〈議員さん〉がベストだと思った判断が実は民意ではなかったということになるのだが、
それをなかなか認めることができなくて、説明不足だった、
まだ民意は本当は自分たちの判断の方にある、、、といった対応をしている。
しかし説明不足云々は、住民投票という限られた時間の中でお互い活動した中での
市民の判断であるから、いまさら説明不足とも言葉を言われても言い訳にしかならない。

確かに説明不足があったとしたら、それは庁舎建設に関する各種のステップにあるのではないか、
基本構想の市民説明会、各種ワークショップ、パブリックコメントに対する対応、
それらは市民理解を得たていたか?
ここには大いに説明不足とか市民との共通認識のなさがはっきりしており、その結果が住民投票をするまでになってしまった。

説明不足はこの時点では多いにあると思われるし、今後この経験をどのように活かすかが問われているが、
今問われているのはここまで逆上った話ではなく、議員さんが議会で議決した「市道東新町桜淵線」の認定を、
住民投票の結果を踏まえて変更することは、議員さんにとって無責任な態度となるか?という点。

自分は、いろいろあるかもしれないが、人間は間違いを犯すものだし、
首尾一貫していなくてもいいんじゃないかな!
と思ってしまう。(もちろんそれではいけないという人もいるだろう)

最終的には個々の人間性に係る問題で、どのような判断を下そうが結果的には
次の選挙に反映されるということに過ぎないのかもしれない。
それでいいのじゃないか!と思ってしまう。

過去の自分の発言、議事録に残された自分の判断、それが現時点での発言・判断と異なる場合、
それを細部に渡って追求するのは無しにして(甘いかもしれないが)大目に見たいのが自分の意見。
もっとも肝心な根本となる点ではあれこれ揺れてしまっては困るが。

 

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