読みかけばかりの本のなか、とりあえず最後のページまで達したのが
オルテガの「大衆の反逆」
この本は以前読んだ事がある
そしていつか再読しようと興味をもった
しかし、再読していつもながらの事なのだが、こんな内容だったのかと
自分が全然覚えていなかったことにショックを覚える
覚えていたのは、なにか知らんが面白かったという印象だけ、、
それが自分の能力なんだから仕方がないが
そして読み返した今でも結局は自分の能力の範囲内でしか
理解できていないが、それはそれでいいとして
とりあえずの感想を
感想の前にいろんな気になるフレーズがある
まずは大衆の定義が説かれる
大衆とは善きにつけ悪しきにつけ、特別な理由から自分に
価値を見出すことなく、自分を「すべての人」と同じだと感じ、
しかもそのことに苦痛を感じないで、自分が他人と同じであることに
喜びを感じるすべて人々のことである。
この言葉が書かれたすぐ後にこんな文章が続く
ところで社会には、その性質上どうしても特殊であり、その結果、
やはり特殊な才能がないと上手く遂行されない仕事や活動や職務がある。
たとえば、芸術的でぜいたくな性格をもったある種の楽しみとか、
行政の仕事、あるいは社会的な事柄に対する政治的判断などである。
以前はこうした特殊な活動は能力のある人、あるいは少なくとも
能力があると主張する少数者によって遂行されていた。
そうして大衆は、そういうことに口を挟もうとしなかった。
彼らは、もし口を挟みたいなら、あの特別な才能を獲得し、
大衆であることをやめなければならないことを承知していたのだ。
ここで「反逆」という言葉が出てくるが
こうした大衆がいままで少数者の行ってきた仕事、活動に大衆の視点で
参加し、徐々に自分たちのわがままな意見をゴリ押しにしてくる
風潮を1930年時代のヨーロッパ社会から描いたもので
大衆の無目的、享楽的な面が前面に出されて危機感を追って記されている
しかし、この時代背景から大衆に及ぼす影響の部分は認めることができても
現代のIT関連の進歩によってオルテガの予想した世界とは
少し異なってきているのではないか?と思う面もある
特殊な能力である政治、行政については現在はその気さえあれば
少なくとも情報については大衆が正確なモノをつかむことができる
そしてその情報を元に大衆は知恵を持つこともできるようになった
これは市民自治とか地方自治とか、そういう言葉に代表される
政治行政の一般化が特別なものではなく、当然行われるべきものとして
存在している
そこには大衆の無目的、享楽的視点からだけではなく
必要に迫られて専門家的な知恵を持たざるをえない大衆が存在する
このことはここ数ヶ月新城市の住民投票とか産廃阻止の活動を行う
市民団体の活動で身にしみて感じたこと
とはいうものの、まだまだ大衆は
「無関心層」の別の表現でもあるので
オルテガの指摘のほうが正しい部分も多い
この手の本ではリースマンの「孤独な群衆」
ベルクソンの「道徳と宗教の二源泉」
を関連して読む(再読する)といいかもしれないが
どうも最近は気力・体力・記憶力、そして老眼・白内障などの
マイナス要因がそれらの本に向けさせないでいる
本は慣れと勢いが必要
バイオリスムが来た時にそれらの本は読むことにしよう
もし来なかったら、その時はその時、、仕方ない ?