パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

ひまわりと辻邦生の「夏の砦」

2015年06月28日 08時45分54秒 | あれこれ考えること

画像はゴッホのひまわり
一昨年ドイツのミュンヘンに訪れた時、ノイエ・ピナコテークに赴いて
撮影したもの
こんな風に撮影しても構わないという姿勢にびっくりしたが
そこで中学生くらいの集団に美術の先生らしき人が
いろいろ解説していたのが記憶に残っている

日本はこんなふうな授業は行われているのだろうか?

2年前に撮影したこの「ひまわり」を今になって取り上げたのは
不意に辻邦生の「夏の砦」を思い出したから

辻邦生の大好きなこの作品は〈その割には読み返していないが)
グスターフ侯のタピストリ が、最初に見た時はすごく感動したにもかかわらず
再度見た時には何ら感動を覚えなかった
と、このような話から始まる

そこから展開される物語は思索的であり、かつ物語性にも富んで
いままで辻邦生という存在を知らなかったことが
ものすごく損した気分になったことを覚えている 

そこで、画像のひまわり
ミュンヘンのノイエ・ピナコテークで初めて見たのは20代の時
いろんな知識はないが、多分感性はもっと柔軟で偏見なく
なんでも取り入れられた時代
このときの印象は鮮烈で今も覚えている
〈だからこそ、その記憶、感覚がもう一度よみがえるかを確認しに行ったわけだが)

絵を見ていると、なんだか気持ち悪くなった
花というか茎がニョロニョロと先へ先へと伸びていきそうな幻覚に襲われた
それはある種の生命力のようなもので、とにかく只者ではない迫力に圧倒された

しかし、その記憶の再現を確認しに行った一昨年の対面は
なんてことはない普通の静物画にすぎなかった
じっくり見たわけではないが、その落差に自分自身が驚いて
更に集中して見ようという気さえ起きなかった

「夏の砦」に書かれたことと似ている
「夏の砦」で精緻に表現されているいる事柄を自分に当てはめることは
雑な読み方しかしていないので妥当ではないが
明らかなの何十年という時間の積み重ねが 今の自分を作っており
その何十年の間に自分は何かを得て、何かを失ったということ

何かを失ったと後悔をしている訳ではない
それはある意味必然でもあった
しかし、今振り返ると懐かしさと少しばかりの感傷も手伝って
あの残された時間がふんだんにある可能性に満ちた時間の存在と
素直な感性に羨ましさを覚えてしまう

年令を重ねるということは、何かを得て何かを失う 
仕方ないこと
でも時には子供だった自分を思い出すことは
決して悪いことではないだろう 

ところで辻邦生の「夏の砦」書店の新潮文庫を眺めても見つけられない
いやそれどころか、辻邦生の作品も見つけられない状態
自分が大好きだった作家だし影響をうけた人だっただけに
ひどく残念な気がする
辻邦生の作品は新城市の図書館にも少ない
たしかエッセイ集が少しだけだったような、、
だったら自分が図書館に寄贈すればというところだが
これらの作品は手元に置いておきたいので、、
いつか読み返そうと、、、 

コメント
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