新城市の住民投票に関して各地で関心が持たれているようだが、
その中に穂積市長とも親交がある松下啓一氏がしばしばブログに投稿しているが、
そのなかで気になった点がいくつかあるので、いくつか抜き出して自分の考えと比較してみることにする。
文章を部分的に抜き出すことは若干の誤解を招くことになるかもしれないし、
また本人の了解を得ているわけでもないし、
そして批判的な視点からの捉え方なので公平ではないかもしれないが、
そこは勘弁していただくということで進めていきたい。
まず松下氏は住民投票に関して基本的に以下のような考えを持っている。
●私の結論は、地方自治における住民投票は、あまりいい制度ではなく、
知恵が出なくなった時の最後の手段であるというものである
●住民運動的な住民投票は、間接民主制の仕組みの中で、説得に敗れ、
多数派を構成できない人たちが、その他の市民を巻き込んで、結論を変えさせようとする試み(運動)、、、
つまり、どちらかと言えば否定的な考え方の持ち主(住民投票に関しては制度として賛成派、反対派が存在する)
新城市の住民投票に関してもそのトーンは変わらず、
市庁舎は「市民(ひと) まち 未来が見える新城型庁舎」となっていて、
単に職員が働く場所ではないという位置づけからスタートしているが、
こう言った基本的な確認がおざなりにされて、耳目に入りやすいフレーズが飛び交うことになる
(何年もかけて、何度も確認しながら、創り上げてきた基本理念が、すっかり置き忘れられてしまうのは
本当にもったいないことだと思う)と続けている
しかし、間接民主制の仕組みの中で、説得に破れ、多数派を構成できない人たちが、
と続く論旨には、今回の新城市の住民投票の活動がそうであったかのように響く。
また別のところで
●新城市のケースで、私が最も心を痛めるのは、これまでまちのために良い案をつくろうと、
自分の時間と知恵を使って、大いに奮闘してきた市民が、
簡単に市長案とくくられてしまって、その努力が無視され、葬り去れてしまったことである。
と述べている。
しかしこの話を肯定するには前提がある。
それは本当にまちのために良い案をつくろうと、自分の知恵を使って云々が、
市民が納得する形でなされた。報告された。ということが不可欠だ。
しかし結果的に、それらは全く不完全だった。
まずは市民には一部しか伝わっていなかった。
多くの市民に等しく伝わるのが現実的でないとしても、
説明会で出てきた批判的なパブリックコメントは何ら議論の対象にならなかった。
まして一番の争点となっている財政の話は一切なかったといっていい。
住民投票は多数派を構成できなかったグループが、
市民を巻き込んで思い立ったように起こした行動ではない。
議会でも地道に規模縮小の提案を続けてきた。
しかし、市長(行政)と議会の一体化した姿の前に多数派を占めることはできなかった。
なぜ議会の上の多数はとなれなかったか?
松下氏の二元代表制の解釈は
●日本の地方自治は、二元代表制を採用しているが、中略 議会・議員は、首長をチェックするのが役割で、いわば監査役であると言われることがある。地方自治法にも検査等の規定があり、その一面は確かにあるが、議会・議員の本来の役割は、自治経営の責任者としての権限と責任を果たすことである。地方自治法でも、議会・議員は予算決定権をもち、条例提案権、条例決定権という最終決定権をもっているからである。議会・議員の役割がチェック役であるという議論は、実際には、政策提案ができず、単なる批判者にとどまっている議会・議員の現状の姿を投影したものに過ぎない。
●首長と議会・議員が相談したり、行政が設置した検討委員会に議員が参加するのはいけないという意見があるが、これは議会・議員を単なる監査役としかみていない議論である。両者の関係は、時には対立・拮抗し、時には協力・連携するといった入り組んだ関係のため、一筋縄ではいかないが、自治の共同経営者として、互いに同一の場で知恵を出す場合も必要になる。
ここでもこの論旨を続ける必要となる前提がある。
つまり議員は無条件に正しい行動をすると言う考え方。
しかし、残念ながら議員は生活もあり、名誉欲もあり、楽な方になびきたい、
できることなら楽したいと言う人間の集団であり、
現実にはあるべき議員像に沿った人間は少ない。
〈少ないからこそ行動指針として議会条例のようなモラルを説いたものが存在する〉
この様な現実的な人間模様を考える時、多数派というものは単に議論の上での
多数派に収まらないということだ。
というより人間的な弱さにこそ左右されてしまう。
そしてこれは表には出さないが面当たり前過ぎる事実だ。
政治とは人間の行うこと、それは数学のように完全に理屈の上で動くものではなく、
むしろあまりにも現実的な私利私欲的なものに左右されやすいもの。
「21世紀の資本」の著者のピケティも経済は単に経済だけの視点では考えられず
必ず政治の要素が介入すると述べているが、誰もが思うように政治は「欲」の要素を抜いては語れない。
行政(市長)と議会が共同経営者の立場で云々は言葉の上では納得できそうでも、
いざ現実にそうなってしまうと弊害のほうが多そう。
ならば、議会は最初からチェック・監査機関としての機能に期待したほうが現実的のような気がする。
松下氏の前提に間違いがまだ存在する
新城しみんまちづくり集会のこと 氏は
●市民が冷静に判断するための「論点会議」のようなものも有効である
(新城市で住民投票の前に市民まちづくり集会を組み込んだのも、そういった狙いがある)
と述べているが、ここでも普通に公平に行われたという前提で話を進めているが、現実には全くそうではない。
それは選択肢2を推した者の僻みと言うレベルを超えて、明らかに異常なものだった。しかし一般にはわからないように、、、。
このまちづくり集会が正常に行われていると現場を見て思ったとしたら、
その時点でその人の感性は疑わしいものとなる。
多分見ていないから、まともに行われた判断したのでしょうが。
ここまで来て明らかになるのは、住民投票の話を一般論から新城市に持ってくる場合、
前提となる世界を知らないと単に他人事のようにしか聞こえないということ。
それが市長の親交のある人物で、それなりの社会的な信用のある人であるなら、
影響力もあるだろうから、もう少し実態を知ってから投稿して欲しかったと思わざるをえない。