パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

教養に関する認識(教養は物知りではないということ)

2015年06月30日 20時45分07秒 | あれこれ考えること

特に西欧を絶対視する訳ではないが、現在の世界の進歩を
導き支えてきたのは西欧の考え方によるものが大きいのは事実
その西欧の考え方とは、ギリシア時代から延々と受け継がれる
知の体系に基づく思考法
原因・結果の検証、物事を細分化して知の緻密な構造物としようとする
大いなる企ては、気分・情緒に流れやすい日本の思考とはかなり趣は違う

どちらが優れているかを比べているのではなく
ただ現実的に今の世の中を支配しているのは西欧的な考え方によるもの

しかしだからといってこの思考法こそが唯一絶対とグローバリスムの名のもとに
強引に推し進めようとすると、それは地域では必然であった発想法・思考を安易に
否定することになり摩擦を引き起こすことになりかねない

それでもとりあえず、西欧の知の体系に敬意を払いつつ
気になったことを少し

数カ月前に講習し、読み始めたもののすっかりストップしている本に
「ハンナ・アレント」人間の条件 入門講義がある

この本の最初の部分になかなか興味深いことが書かれている

日本語の「ヒューマニズム」には通常「人道主義」の意味しか
念頭に置きませんが、ルネサンスの時代のヒューマニズムは
「人文主義」の意味でした。 
何故、「人文」なのか 、どうして「文」がつくのかというと
この時代に「ヒューマニスト」 と呼ばれたのが、古代ギリシアや
ローマ時代の古典のテクストを読解し、紹介したからです。

途中略

ローマの末期になると「ヒューマニティー」のために必要な7種類の
科目が特定されるようになりました。その7つとは、言語に関わる修辞学
論理学、文法と、自然界の法則に関わる算術、音楽、天文、幾何です。 
これらは、自由人=市民のための知的素養という意味で「自由7課」と呼ばれました
これが私たちが「教養科目」と呼んでいるものの起源です・

つまり日本でつい想像されがちな「単なる物知り 」を
教養のある人間とするのではなく
公衆の面前で自らの考えを披露し、相手を説得するための
その基礎となる知識や思考法の持ち主こそが「教養人」
つまりは人間らしさとされた

この部分の深い理解がないと大学の教養課程の削減、廃止などの
方向に進んでしまう
人は実学だけでその人間性を判断されるのではない
特に西欧人と付き合う場合は、彼らは先ほどあげた意味での
教養を体の中に蓄えこんでいる(特に上層レベルの人は)
そこに実学だけの、ハウツウだけの人間が付き合おうとしたら
やはり「エコノミック・アニマル」と言われてしまうのは無理からぬことかもしれない

何のことを言っているか!といえば
日本の政治家の教養は大丈夫かということ
はたして世界に通用する人間性の持ち主か?
そして同じことが若地方都市の新城市の市議会議員にも言える

実学と比較して何ら役に立ちそうもない教養
しかし、この教養こそは人間が最終的な判断を誤らないための
大きな力となると自分は信じている


「かんじんなことは、目に見えないんだよ」

それを見るためには、こころで見なきゃ!
フランス人の飛行機乗りの言葉
ホント、そのとおり! 

 


 

コメント
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