パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

株式会社の発想に無条件に従っていないか?

2015年12月18日 16時44分04秒 | あれこれ考えること

FBのシェアされた中に内田樹氏のブログがあったが
これがとても興味深かった

サラリーマンが多くなって、そこで知らず知らず身についていく考え方が
実は問題かもしれないという指摘がある

少し話が逸れるかもしれないが、
日本人はどちらかと言うと自分で考え判断するということが
得意ではないのかもしれないと思うことがある 
自分で判断すると責任が伴う、そんなことは面倒だし
従っている方が楽と考えているのかもしれない
または、フロムが言うように自由は実は個人にとって
重荷になっているのかもしれない 
(カラマーゾフの兄弟の大審問官でもこのテーマは扱われている) 

現在の日本の社会は、誰かが指示・命令を出してそれに忠実に従っていく
そこには個人の判断の余地はあまりない
全体の秩序のためには個人の判断は邪魔になる

そこまでは言わないとしても、スポーツの世界で
なになにジャパンといって、監督の下一致団結して
戦うのが美しい、そうあるべきだと当たり前のように納得している

しかし、実はスポーツの世界は瞬間瞬間が判断の世界
その瞬間の個々の判断が的確であればあるほど良いわけで
それは監督の指導通りに実行するということではない
(オシム監督の時、練習でなぜ自分(監督)の言ったことだけを
 実行するのか。なぜ自分(選手)が良いと思ったことを実行しないのか
  自分で考えないのか?と叱られることが多かったという)

個人の判断
このことばを使う時の、個人という概念が
日本人と、西欧人とは大きく異なるのではないか 
ひたすら同質性を求めて安心したがる日本人と
彼は彼、自分は自分と(自覚はしていないかもしれないが )
それが当たり前の考え方になっている世界
(日本人の個人とか個性とは所有するものの差異で比較されるような
 少しさびしい物になっているのが現実だ)
個人の判断を基準として、その欠点も踏まえた上で 体系的な
秩序ある世界をつくりあげようとする世界と
情緒的に大勢(空気)に従う傾向のある日本
どちらが良いと言わないまでも、こうした違いがあるのは現実だ

そして以下の内田樹氏のブログの抜粋にあるように
多くの人はいきなりサラリーマンの世界の考え方に慣れて
(それ以外は知らない?)この価値観で世界を判断しようとする
ところが、自分でも気づきつつあるこうした考え方の矛盾を
面倒だから、自分には関係ないから考えようとしなくなる

でも、やっぱり噴出する矛盾や問題点
それは個人の思考停止ではもはや解決できなくなってきている
この思考停止はハンナ・アーレントのいう凡庸な悪に繋がる

と言っても、現実には自分に関係のない世界も想像力を働かせて
考えないと、いつかは自分の見に関わってくるとするアドバイス(おせっかい)は
余計なお世話扱いとなる事が多い

それでも、少しづつだけど、やはり問題は問題と自発的に考える人が多くなりつつある
願わくばこうしたうねりとか流れが、悪い世の中になる前に大きなものとなれば良いのだが

今日はテーマが大きすぎて自分の力量を超えている
そこで、以下に内田樹氏のブログの抜粋と
リンク先を紹介する

ブログ抜粋  全文は⇒こちら

戦後70年の最も大きな変化の一つはかつては人口の50%を占めていた農村人口が人口比1.5%にまで激減したということです。それは農村共同体的な合意形成の仕組みが放棄され、「会社」の仕組みがマジョリティを形成しているということです。統治のスタイルもそれに応じて変化した。それが社会のすべての制度の「株式会社化」をもたらした。
株式会社は民主主義によっては運営されていません。CEOに権限情報も集中させ、すべてが上意下達のトップダウン組織です。従業員の合意を取り付けてから経営方針を決めるというような鈍くさい企業は生き残ることができません。経営政策の適否について従業員は判断することが許されない。それはCEOの専管事項です。
でも、そのようなワンマン経営が是とされるのは、その「独裁的経営者」のさらに市場が存在するからです。経営判断の適否は市場がただちに売り上げや株価として評価する。商品がどれほどジャンクなものであっても、雇用環境が非人間的であっても、市場が評価して売り上げが伸び、株価が上がる限り、CEOは「成功者」とみなされる。
そういう仕組みに現代日本人は慣れ切っている。生まれてから、そういう組織しか見たことがないという人がもう人口の過半でしょう。彼らにしてみると「民主主義的合意形成って何?」というのが実感でしょう。家庭でも学校でもクラブ活動でもバイト先でも、これまでの人生でそんなもの一度も経験したことがないのですから。知っているのは株式会社的トップダウン組織だけであり、その適否は中組織成員たちの判断によってではなく、上位にある市場が決定する。自分の生き方が正しかったかどうかを決めるのは試験の成績であり、入学した学校の偏差値であり、就職した会社のグレードや年収であるという「成果主義」「結果主義」にサラリーマンは慣れ切っている。
その心性が安倍政権を批判することができない知的な無能を生み出す土壌だと私は考えています。安倍晋三も橋下徹も「文句があったら選挙で落とせばいい」という言葉をよく使います。これは彼らが選挙を市場と同じものだと考えていることをはしなくも露呈しています。
選挙とは市場における競合他社とのシェア争いと同じものである。それに勝てば政策は正しかったことになる。どんなジャンクな商品でも、パッケージデザインや広告がうまければシェア争いで勝つことができ、勝てばそれは「よい商品」だったということになる。
「大阪都」構想をめぐる住民投票で負けた後、橋下市長は「負けたということは政策が間違っていたということでしょう」と言い放ちました。しかし、選挙の勝ち負けと政策の良否は次元の違う話です。政策の良否はそれが実施された後の何年、何十年のちの、本当の意味での「成果」を見なければ判定できない。でも、彼らはそんなことには関心がない。次の選挙の勝敗だけが重要であるというのは株式会社の「当期利益至上主義」と同質のものです。

 
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