パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

あの時、何をしたのか(何もしなかったのか)

2015年12月20日 08時25分10秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

計画された時、話題になった時にはなんとなく理解できたとしても
数年後になって、結果だけが表に出てくると
なぜこんなことをしたのだろうと疑問に思うことは少なくない

例えば、道路やダムの新設
計画や予想は話題に登った時点での見込みであって
それが正しかったか、あるいは正確だったかどうかは
時の審判を経なければならない
(多くは時を経なくても無理だと想像がつくことが多い)

負の結果を日常として受け止めざるを得ない未来の人たちは
ごく当たり前に、
「あの時の人たちは、何をしたのだろう」
あるいは「なぜ何もしなかったのだろう?」
と先人たちの行為や判断を批判するかもしれない

なぜ 多くの人は戦前に戦争反対運動を行わなかったのか?
これはごく普通に思い浮かぶこと
しかし、それができない状況があったという事実は
戦争反対の行動をしなかったということより重大な問題かもしれない

戦争の話はここではこれまでとして
現在新城市で見直し作業がされつつある庁舎の問題
ここでも未来の人に
「なぜこんなことにしてしまったのか?」
「あの時、いったい当事者は何をしたのか?」
「人びとは何もしなかったのか?」
と批判されてしまっても仕方のない状況がある

それは体育館側の一角に残る庁舎には使われない民地
現時点ではその民地(家)が活用できない理由は
いろいろ行政側から説明される
しかし時の経過を受けて未来の人が審判する時
この民地の問題はきっと大きな問題となるに違いない

それは、市(行政)の失敗の遺産として
そしてそこに住まわれている方の心的な苦痛として

ここに住まわれている方は
闇雲に市に土地の活用を拒んでいるわけではない
それが証拠に「求める会案(市民案3)」には協力して
有効活用できるようになっている

客観的に考えれば、気持ちはあるということ
(条件があるとしても)
ところが、ここで市(行政)から出てくる言葉は
議会では、この土地の活用はカクカクシカジカの理由で
諦めると決めた
とか
実務協議であの土地は使わないのが共通認識のはず
行政は正しいステップを踏んでいる、市民案は決めたことを
蔑ろにしている、おかしい、、、

しかし、最優先すべきは誰が正しくて、誰が正しくない
という問題ではなく、如何に市民が納得できる庁舎を建てられるか
ということ

人の感情はいつまでも同じではない
礼を尽くして本気に向かい合う
それこそが一番ではないだろうか

あの時、こう言ったから、そのまま受け取って
明らかに後世に負担になることを
平気で無視していいものなのだろうか

繰り返すが、庁舎問題は誰が正しくて、誰が正しくない
ということではなくて
どうしたらみんなが納得できる(妥協できる)案を形成できるか
ということにある

このごく当たり前の議論とか過程が、残念ながら今の市政では
不可能と判断せざるを得なくなったのが現在の状況(リコール運動)
この判断を下す人たちは、怒っているのではなく
何よりも一番に失望しているのかもしれない
市民の声を聞いているように思えないやり方に、、

あの時、何をした
なぜ何もしなかったのか
未来の人たちからこんな批判を受けないように
今すべきことをキチンとすべきだ
行政も職員も市民も

日曜の朝からグダグダとハイテンション?
でもホントちょっと心配
 

コメント
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