迫力のあるシーンとはどんなものか?
そんなことを感じたのがNetflixのドラマ「新聞記者」だった
またもや肝心なことではなくて、枝葉末節な部分に気がいってしまうのは情けないが
ドラマは決して大声にはならず、効果音もなく、淡々とゆっくりの台詞の連続で
そこに流れる緊張感は一種の迫力と言うしかない
大きな音、場面が頻繁に変わるスリリングな映像、実生活では見ることのない世界
映画の予告編はそうした迫力のあるシーンがオンパレードだが
最近はそれをを見るだけでどこか辟易としてしまう
だがこのドラマは全然違い、音は極力押さえられている
静寂の緊張感、その迫力を実感するのは音楽だ
生の演奏に接すると、徐々に弱音になり聴衆が耳をそばだてる瞬間は
まるで闇の中に入り込んでいくようで息詰まる
それは武満徹の音楽にしばしば体験する感覚だ
外的な刺激で与えられるものではなくて、実は人の中に潜む想像力を呼び起こすもののほうが
より迫力のあるシーンとなりそうな気がする
「新聞記者」は映画のそれとは少し違っていて、実際の主人公は官僚さんたちだ
フィクションの断り書きがあるが、それが何を現しているかは誰でも分かる
(そう言えば赤穂事件を扱った歌舞伎の忠臣蔵は、時代は室町時代、大石内蔵助ではなくて大星由良之助で
フィクションとなっているが、江戸時代の人はそれらが誰で何を現していたか知っていた)
例の公文書改ざんを手伝わされて自死された赤木さんの苦悩が前半のメインとなっている
彼の結末を知っているので、見ているのが辛くなる
この映画は、誰が誰を演じているかを想像することでより興味深くなるし
それを意図して作られているが、表向きはフィクションと言うしかない
この映画は映画故にフィクションゆえにデフォルメされているが
それでも「現実社会のほうがもっと酷い」と感じる人は少なからずいる
その手の人からは評価が高い
史実よりもフィクションのほうが支持されることが多いのが人の世で
坂本龍馬も司馬遼太郎のフィクションの「竜馬がゆく」が彼の実態と思っている人が多そうだ
それはフィクションのほうが感情移入しやすく、頭にすんなり入っていくからと思われる
それらについて、ベルグソンは人には「作話機能」があると表現し
トーマス・マンは小説家は嘘つきの詐欺師の才能があるとも表現している
フィクションは大きな影響力を持つ
この影響力の大きな作品をより効果的に表現するには、必ずしも大げさな演出をしなくても
恐怖を感じさせることができるということだ
むしろ淡々と過ぎていくことのほうが、本当は怖いと言えるかも知れない
(受け手の想像力の有り無しに差が出るが)
「新聞記者」は映画もドラマも深刻な問題提起的な作品だが
「これはフィションです」と冒頭に文字を入れているが、見方によって
あのことかとか、あの人のことか、、、と容易に想像できる映画がもう一つある
それは三谷幸喜の「記憶にございません」で、見る人が見ればそれと分かる
これはお笑いの要素が高く、迫力はないが、ハードルが高くないので容易に人の中に入っていく
Netflixの「新聞記者」は多少エモーショナルな要素が多すぎて
個人的には少しひいてしまう面もあったが
この作品も「見ないより見たほうが良い」の一つだと思う
それにしても静寂の迫力ってのはあるものだ、とつくづく感じた次第
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