仕事(のストレス)から開放されて、悠々自適な生活が確保されている年金生活
だが実際にその生活を経験してみると、思いの外つまらないと感じている人は多いのではないか
何かをしなければならないことがなくて、あるのは余りあるほどの時間
忙しそうにしている人間、しなければならないことがある人間を見て
どこか羨ましく感じてしまうのは「毎日が日曜日」の人間にはありそうなことだ
暇があることは退屈・苦痛につながると深い考察を面白く考察しているのが
「暇と退屈の倫理学」 国分功一郎著だ
日曜に名古屋の丸善で見つけて購入し一気読みした
帯には「東大・京大で一番読まれた本」とあるが、それが理由で購入したのではない
以前、国分功一郎氏の本を読んで良い印象を持ったからで
書店でパラパラと拾い読みして面白そうと感じたので購入した
人が持て余す時間、、暇というものはどういうものか?
そもそも人は何を求めているのか?
こうした問を実感を込めて著者は考察していく
そこにはパスカルを始めとしてハイデッガーやハンナ・アーレントなどの
哲学者が登場するが、興味深いのはそれが各哲学者の解説に終止していなくて
「ここは違っている」とツッコミを入れていることだ
著者は過去の哲学者の思考を追いながらも、実感を込めて彼なりの視点で「退屈」を考察する
このように他人の考えを理解するだけでなく「自分で考える」ことが哲学の実践で
そうすることこそが退屈から逃れる方法かもしれない、、としている(ような気がする)
人は自由だとか、好きに使える時間がある方が好ましいと建前上は思ったりするが
実際は、何かに支配されている方が楽ちんだと考える傾向がある
この本では出てこなかったがフロムの「自由からの逃走」では
全て自由な判断・決断ができる人間は却って迷うことになり
むしろ別の誰かが決めてくれた行動をしたほうが精神的に楽で
ついそうしたものを求めてしまう
これは「カラマーゾフの兄弟」の有名な大審問官の言い分にもあって
暇と自由の違いはあるが、選択の幅が多くあるということはなかなか辛いということだ
暇と時間を持て余すのは人の傾向かもしれないとハイデッガーの考察が多くのページをさいて
解説してあったが、一気読みしたので、このところはイマイチ理解できなかった
不意にハンナ・アーレントの「人間の条件」で取り上げられた労働・仕事・活動と分けられた概念も
実は観念的でどこか理想主義的な要素に過ぎるような気がした
この本を一気読みしたのは、暇を持て余す人々の行いが自分の日々の行いとか考えにそっくりだからだ
つまり、「自分のために書かれている」と錯覚しそうだったからだ
この本の最初の方に「うさぎ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?」と題された章がある
今からうさぎ狩りに行こうとする人に、獲物であるうさぎをプレゼントしたら
狩人はどんな思いをするかという思考実験で、その他にも
ギャンブルに向かう人間に、ギャンブルで得られる報酬をギャンブルしなくても
与えられたらどんなことになるかを論じたものだ
つまり彼らが欲しているのは成果物としての報酬(うさぎ・お金)ではなくて
一種の苦痛とか暇つぶしを求めているに過ぎない、、と解説している
このように頭の中の抽象的な話と思いきや、少し笑えてしまうそうなエピソードに溢れているので
読み始めた人は自分と同じ様に一気読みするものと思われる
(ただし、このタイトルで購入する人はそれほど多くないと思ったりする)