パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

目標数字のいい加減さ

2015年02月07日 19時53分36秒 | あれこれ考えること

新城市の新市庁舎の面積が5階建て9000平米の計画
これが分相応ではなく、無駄に大きすぎて
今後の市民の負担になるから、今のうちになんとか
再度考える機会をもとう!と住民投票の実施への
署名活動が始まった

この9000平米の面積が大きすぎるのか
適切なのかはなかなか判断が難しい
確かに当初は人口が52000人
作手、鳳来の支所もそこに入る予定だったが
現実には将来は人口は30000人台が見えているし
2つの支所がひとつにまとまることも無くなったから
想定とは異なるから縮小すべきは分かる

ところが、この最初に出てきた9000平米は
一体何処から出てきた数字なのか

いろいろ調べてみると
国土交通省新営一般庁舎面積算定基準というものがあって

・庁舎内の想定職員数をもとに、執務面積、付属面積(会議室、倉庫、休憩室等)を算出する。
・業務上必要であるが、付属面積として含まれていない諸室については、固有業務室
として個別に積み上げる。
・執務面積、付属面積、固有業務室面積により、設備関係及び交通部分の面積を算出
する。

というような計算方法があるらしい
まだ他の計算方法もあって、目安としての面積が算出される

ここでポイントとなるのは職員の数
今の新城市の職員の数が一体どうのくらいか
市庁舎で働く事となる人数はどのくらいなのだろうか

いやそれ以前に新城市の職員の数はこれでいいのかが
問題になる
確かに小さな自治体は行政コストがかかる
大きな自治体との比較で小さな自治体の職員数の割合を
適用することは正しくない

それを理解した上で、果たして議会はこの新市庁舎の面積の
検討を真剣に討論したのだろうか?
将来を見据えて市民が気楽に立ち寄ってもらえるような
そして何かが起きた時に対応できるように、、、
大きな建物を建てたほうが良いと判断する人たちの考え

しかし、どうもこの辺りの見込みの甘さが気になる

先ほどの人口の予想の設定もいい加減だし
それに49億円かかる建設費用も実は本当に
どれだけかかるか分かる人はいるのか?

数字がデカイから高すぎるとか
いやいやそのくらいはかかるとか
どちらも根拠の無い印象だけの話

入札するにしても基準の数字を市の担当者が出せるのか
出せないなら、どのように算出したのか
それは公平な納得できる方法だったのか
(つまり何処かのゼネコンにアドバイスをもらうようなことはしていないか?)

実際のところ、こうした目標数字とか
想定数字は案外いい加減なのではないか

そんなふうに思うのは理由がある
国土交通省、経済産業省、中小企業庁などでは補助金が
提供される事業があるが、その際に申請する時、想定の数字を
書かなければならない

この数字が実はチェックが甘くて、審査の対象は
提出された書類の上での整合性だけ
つまり数字の中身は、未来のことは分からない、
外れたのは不可抗力だった
くらいの感じでいいような雰囲気

拡大解釈をしていけば
これらはいたるところに見られる
道路を作る計画の将来の想定交通量はほとんど
多めに見積もってあるのではなかろうか

他にもまだまだ探せば出てきそう

結局、想定数字、見込み数字は誰もわからないから
もっともらしければいい加減でいいことになりそう
本当は洞察力と分析力に満ちた人がチェックすべきだが
バイアスのかかっていないこの手の人を探すのは難しい

それにしても、みんなの代表としての議員
それが市であろうと国であろうと
その人達にまるっきりお任せするのは
どうも危ういということ

ただ悲観的になることはない
そのことに気づいた者は何かしらの活動を
していくことだ
それが多少の勘違いや錯覚があったとしても
問題提起は必要ということ
今回の住民投票を求める署名活動のように、、


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人間は何をしでかしてしまうのか?

2015年02月03日 20時13分28秒 | あれこれ考えること

「リアリティとは、『ナチは私たち自身のように人間である』ということだ。
つまり悪夢は、人間が何をなすことができるかということを、
彼らが疑いなく証明したということである。言いかえれば、
悪の問題はヨーロッパの戦後の知的生活の根本問題となるだろう…」

ハンナ・アーレントの言葉

つまりナチスが特別だったわけではなく、普通の人でも
そんな恐ろしいことを起こしてしまう可能性があるということ 

しっかり読んでわけでもないがナチスのアイヒマンについての
人物評もある意味怖い
アイヒマンはモンスターのような人物ではなく、ありきたりの
平凡な小市民であった、、、

読んだわけでないから、これは正確ではないかもしれなないが
人間はおかれた状況でとんでもない存在になってしまいうる

この事の真の怖さを、この国の首相は理解しているのだろうか?

罰を与える、許しません  イスラム国に向けた
感情に任せた発言としか聞こえない、幼稚な思考を想像させる姿
一見、その場その場の対応では無理からぬ事柄のように見えても
少し距離をおいてみると、彼が何処に向かっているかは分かる

イスラム国が日本を有志連合の一国と理解した
それが正しい理解の仕方であったかどうかは問題ではなく
そのように理解されてしなったのが問題だ
そしてその理解は、話が通じないイスラム国だけでなく
数多くの国にも同じような理解のされ方をしているのではないか 

状況があるところまで進んでしまうと
人は正しい判断ができなくなってしまう
流れに流されて、恐怖に脅かされて、、、
しかし今なら、まだ反論やストップはかけられる
(イスラム国に対する考え方ではなくて、彼の考える方向全般について) 

歴史から学ぶということは、ハンナ・アーレントが示した
人間が何をしでかすかわからない存在
とならないための方法を考え実行すること
一番のモンスターは、実は人間であるということを
深く理解しなければならない 

 

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富める者が富めば、貧しい者も富むようになるか?

2015年02月03日 19時34分41秒 | あれこれ考えること

昨年の選挙でも何の疑問もなく使われた論法
「経済が(会社が)富めば、自然と末端の生活者まで
 富は行き渡っていく。だからまずは経済第一なんです」

一見、何の問題点もなく、さらっと流れて聞き流してしまいうそう 
しかし、果たしとこれは本当か?
会社を富める者と置き換えると、それは少し怪しくなってくる

いわゆる、「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウンする)」
とする経済理論だが、これは最近読んでいるピケティでも否定されているし
実感としても 同感できないところが多い

つまり反論としては、
「投資の活性化により、経済全体のパイが拡大すれば、低所得層に対する配分も改善する」
となるはずであるしかし、現実にはパイの拡大が見られても、それは配分の改善を伴わず、
国民全体の利益としては実現されない。つまりは「富が低所得層に向かって徐々に流れ落ち、
国民全体の利益となる」はずであったものが、一部の富裕層の所得の上積みを以って
「経済は回復した」ということにすりかえられているに過ぎない、というものである。

これは共産党や野党が発言した内容
しかしどういうわけかあまり相手にされなかった
シンプルな富むものから貧しい者にという説明のほうが
単にわかりやすかっただけと思うのだが

そしてピケティはトリクルダウンが実現されていない実態
をデータを使って説明している
それは、論ではなく事実
だから彼を否定する場合 、論理ではなくデータがおかしいとか
解釈がおかしいと言わなければならない

だが普通に考えてお金持ちが自分がよりお金持ちになった時
人はそんなに簡単に人に分け与えることができるか?
と心理的な動きを考えると、トリクルダウンは
やはり実現できない可能性のほうが高い 

会社に富がもたらせれた時、経営者は何を考えるか?
設備投資ならまだいい方、しかし、将来に供えての内部留保を考える
人も少なくないかもしれない
また、その資金を使って、お金がお金を生むお金の使い方に
投資する可能性もある
つまり心理的にも、簡単なトリクルダウンの方向は可能性が低い

ある時、何かで読んだケインズの考えも
富んだものは節約家になるから
公共投資をして経済を活性化させなければならない
とか、そんなようなことを言ってたような、、、 

ピケティは単なる経済学者が数字馬鹿ではダメで
心理学、歴史も踏まえた社会学となるべきとしている
この部分は大いに賛成

しかし、残念なことに日本は
いつまでたってもシンプルきまわりない 
上が富めば下まで、、、
の実現性のない理屈がまかり通っている

そもそもの前提となる経済の考え方に
日本国民は、政治家は、経済学者は
一度じっくりと考えなおしたほうがいいかもしれない 

 
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電報は必要か?

2015年02月02日 20時12分58秒 | あれこれ考えること

今年は早くも2つのお葬式に参列した
寒いこの時期は毎日のように
新城市の防災無線で式の放送がある

正月休みが明けた直ぐと
それから1週間ほど後
200メートルと離れていない家の方が
お亡くなりなった

最初は仏式、次は神式
ふたりともよく知っている人なので
家族の方の表情を観るのが辛い
時間だけが悲しみを癒してくれる
その人がいない日常に慣れること
それしか手はないのだろう

ところで、お葬式には電報の紹介がある
最初も次の時も、この地区の衆議院議員と県会議員からのものが
読まれた
一体どういう関係だったのか
と思ったりしたが、そこで気になったのは、
この人達は一体こうした電報でどのくらいのお金を
使っているのだろうかということ

新城市でこのペースなら豊川、蒲郡をエリアとする衆議院議員は
確率的に電報を出す回数もバカにならない
いや、金額的にバカにならないということは無いかもしれない
だからこそ、こまめに出しているのかもしれない

しかし、電報は故人の箔をつけるためか?
著名人からきたということで
その人のグレードもあがったような錯覚を参列者に感じさせる
効果があり、故人を送る良い花向けになるかもしれないが
喪主を始めとする身内の人は別として
当の本人はあまり知らない人から
式が名前を売り込む機会として使われたと思えないこともなく
少し考えてしまう

抜かりなく電報を打つということは
議員さんにとっては、本当に不可欠なことなんだろうか
少し考えてしまう
 

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「許しません」の発言に不安を感じるのは何故だろう

2015年02月01日 18時37分47秒 | あれこれ考えること

イスラム国に囚われた後藤さん、
最悪の結果を迎えたようで残念でたまりません

ただ、何を言っても無駄な様に思える彼の国との交渉も
もう少しやりかたはあったのではと思わざるをえない

もっともヨルダンにお任せするしか手は無いので
仕方なかったとも言えるけれど

この手の交渉でいつも思うことは、北朝鮮の場合もそうだけれど
こちらの打つ手や彼の国の行動の解釈は
全て報道で明らかにされている
「イスラム国はこう考えている、、、」などと
これは、イスラム国にとって相手が自分たちをどう考えているかを
よく知る手がかりになる

一方我々はイスラム国(北朝鮮)の事は全然知らない
情報の不均衡極まりだ
だからこそ、秘密保護法みたいなものがつくられて
秘密にすべき問題は秘密裏に
ということになるのだろうが
どうもそうとはならず情報は垂れ流し

ところで、秘密保護法は何を秘密と考えるのだろう
拡大解釈で手におえないようなことにならなければいいのだが

今朝の安部首相のインタビューで気になったのは
{許すことはできません」ではなくて
「許しません」と言ったこと
後者のほうが感情がこもって、前者の他人ごとのような言葉よりも
感情に訴えるかもしれないが
心配なのはより危険な方向に彼は舵を取らないかということ

安部首相は有志連合ではなく、人道支援的な金銭の提供といったが
実はトーンとしては外務省の希望もあったかもしれないが
有志連合の一員的な存在に勘違いしてもらえれば
と思ったのではないか
イスラム国が有志連合云々言ってきたから
人道的な見地からのとニュアンスを変えたが
本当は皆にどう思われていたかったかが怪しい

あちらの国の人皆に正確に物事を理解してもらえる
のは難しい
ただでさえ人は早とちり、錯覚、思い込みをしやすい
だから正しい言葉遣いをして、正しいことをいっても
それがその通りに通じているかは別問題
本当はそこのところの正しい冷静な分析が必要

安倍さんのイスラエル国旗の前での人道支援的な
資金の補助の発表は確かに好ましくないというか
錯覚を起こしかねない

それにしても、今回の結果が引き金になって
安倍さんの暴走にブレーキがかからなくなってしまいそうな
不安を感じるのは考え過ぎか、、、

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ブルックナー8番、第一稿による演奏

2015年02月01日 11時29分46秒 | 音楽

マーラー・ブルックナーブームというものがあった
大オーケストラで長大な曲
「私の時代が来る」と言ったマーラーの言葉を
実現したような時代だったかもしれない
自分も確かにあれこれ購入して聴いた

しかし今は、マーラーはほとんど聞かない
たまに5番の最初の2つの楽章を聴いてみようかな
と思う程度
実演では5番は若杉弘とケルン放送交響楽団
6番は小澤征爾
7番はサイモン・ラトルとバーミンガム市交響楽団
9番はバーンスタインとニューヨークフィル
その中で今でも記憶しているのは5番の若杉弘の演奏だけ

一方ブルックナーは今でも時々聴く
実演は4番 テンシュテット、マズア
7番は指揮者は忘れてしまったがスイス・ロマンド管弦楽団のもの
8番は、メータとイスラエル・フィル、ヴァントと北ドイツ放送交響楽団
そして朝比奈隆と大阪フィル
9番は忘れてしまったが、とにかく聴いたのは間違いない
その中で記憶しているのは
8番の全てとマズアの4番、具体的にどうだったとまで
今も言葉に出せるほど

つまり、ひところ流行ったマーラー派か
ブルックナー派かという問題については
問題なく後者の方に入る

そこで時間に余裕があり気合が乗った今日
8番の第一稿似様演奏を聴いてみた(インバル指揮)

先日は4番の第一稿の演奏を聴いたが、いつも聞くのとは全然違う曲
素朴なブルックナーが思いついた曲はこうだったのかと思う
普段聴く音楽は起承転結がよくまとまっていると再確認する

同じ印象は8番にも言える
第一楽章、弱音での終了ではなくて突然のフォルテのエンディング
続く2楽章でもトリオは全然別物
大好きな3楽章もクライマックス部分を始めかなり違う
4楽章はやっぱり何処に向かうか分からない感じが更に増す

ということで、全体の印象としてはまとまりのない
素朴な音響の音楽といった感じ
でもそれが悪いかといえば、ブルックナーの元々持っている特徴は
こういうことだったんだ、第一感で作りたかったのはこうしたこと
と知ることができるのは良いこと

現行のものよりはまとまりもないが
これもあり!なのではないか

ところで、この変更に至る過程はブルックナーの文献を読んでいないので
分からないが、自発的なものなのだろうか?
そしてその方向性は自分が考えたものか?

仮に自分で考えていなくて、ドラマティックに仕上げるように
アドバイスした人物がいるとしたら、プロデューサーとしては
なかなかの力量ではなかろうか

ブルックナーは後期だけでなく初期の一番、二番も好き
伸びやかで、まだ人生の重みも感じていない若い感性が
そこに現れているようで

ブルックナーは何処に向かうか分からない曲作りみたいだが
ピアノ曲は本当に叙情的な曲がある
秋の夕べの静かな思い、思い出 これらはショパンみたいに
ロマンティック
しかし、本物になったブルックナーの音楽ではない

今年の4月、ウィーンにいく予定だが今回はヴェルヴェデーレ宮殿の
ブルックナーの最後に住んだ家を見逃さないようにしなくては
前回は宮殿見学が休日だった

それにしても、ブルックナー、好きだな



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