パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

スコアを見ながら聴く

2015年02月19日 20時20分56秒 | 音楽

残念ながら音楽家でないからスコアを見たところで
音が頭の中に浮かぶわけではない
ヴァイオリンが主旋律をメロディアスに奏でる曲なら
ヴァイオリンを追っかければ曲に何とか追いついていけても
金管楽器に中心が移っていくと素人の自分は
一気にどこかがわからなくなる

昨晩ブルックナーの8番、その3楽章をiPhoneのイヤホンで
聴きながらスコアを追ってみた
演奏はハイティンク、ロイヤルコンセントヘボウのもの
この特に何かあるわけでもない演奏は好きだが
イヤホンでしっかり聴くと色んな音が聞こえて
作曲という行為がいかに細部に気を使ったものか
改めて再確認

何よりも感じたことは作曲はものすごく知的な作業に思えたこと
人のよい、少しおかしな大人びていないブルックナーだが
このスコアには専門的な知恵、アイデアが執念のように込められている
雰囲気が漂う
想像以上に変音記号の多い楽譜
楽譜の印象は耳にして聴き流すのとは随分印象が違う
確かにロマン派の音
だが人生を語りつくすようなロマン派ではなく
もっと別の目に見えない何かを求めるようなロマン派

フルトヴェングラーの言うようにブルックナーはその時代のためというより
時代の外にいて音楽を追求しているように思える

これらは素人の無責任は印象にすぎないが
それでもこの時間と体力と気力の犠牲を強いる音楽は
結果的に聴くものにも同じ程度の力を要求する
そして聴いたあとはなんとも言えない充足感を感じさせる

時間は長かったのか
それとも短い出来事なのか
それが曖昧になっていましそうなブルックナーの音楽
それをスコアという形で見ると専門家すぎる(技術がありすぎる?)
音楽バカがいるとしか見えない

ところでモーツァルトのスコアはブルックナーと比較すると
音を浮かべやすいが、なんと生き生きとリズムを奏で
呼吸しているのだろうと思ったりする

ベートーヴェンのスコアはやはり知的な感じがする

それにしても全体の音が頭に浮かぶ専門家が
少しうらやましい
物をたくさん所有している人より
この能力を持った人が羨ましい

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作品と年齢(モーツァルト)

2015年02月17日 19時47分05秒 | 音楽

K136のディヴェルティメントは16歳
K183のト短調の交響曲は17歳の時の作品
K.201のイ長調の交響曲は18歳で
大好きなK219のヴァイオリン協奏曲5番
「トルコ風」は19歳
そしてK250のハフナー・セレナードは20歳の時

お気に入りのモーツァルトの初期の作品群だが
これらがこんな若さでつくられていることに驚く
と言うより、これらの作品に年齢が感じられないことに驚く

もちろん若々しい伸び伸びとした屈託の無さが
十分に感じられるけれども、音楽の美に対する感覚は
既に十分過ぎるほど彼の中に確立している

それは歳を重ねて身に付けるものではなく
最初から備わっているような感じを受ける

大して集中しないで聞き流していると
モーツァルトの音楽は単によく流れるだけ
しかし一旦その気になって聴くと世界は一気に充実したものと変わる

試しにある旋律を追いかけて、次にどうなるかを予想してみると
外れることが多い
単純な繰り返しは滅多にない
直ぐに音楽は新しいアイデアで満たされる

そしてそれらの音たちは声部ごとに掛け合い
交代がそれこそ完璧と言うしかないように実現される

モーツァルトのおしゃべりを心地よく聴くことができる時
それはこころの調子も良い時

それにしても、モーツァルトは凄いな 

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国会中継

2015年02月16日 20時09分23秒 | 徒然なるままに

知っている人には今更何を疑問に思っているのか
と叱責を受けそうだが、今日の午後からの
国会中継の代表質問を見ていて、素朴な疑問が浮かんだ

質問というから、質問して次に答えるものと思っていたら
最初の民主党の岡田さん、延々と話し続ける
時々、その中に総理にお尋ねします
の言葉が入るが、次から次へとテーマが変わって
一体いくつの質問をしたのか忘れてしまう

なるほど、質問はまとめて提出して
あとでまとめて答えるシステムになっているのか
と理解したが、それならそれで、答える側が全ての質問の
答えを発言しているとは思えなかった

つまり岡田さんの質問はもう少し数が多かったような気がするが
安倍さんの答えは、質問の数より少なかった気がする
もっとも質問は予め文書として提出されているので
答えも準備されている
だから岡田さんが熱っぽく質問をしている時も
安倍さんはその質問は聴いていなくて
答えの文章を読む練習をしていた
その中である瞬間だけ、ほくそ笑んだところがあったが
あれはどうなんだろう
テレビに映っているというのに

格差の認識をしているか
との岡田さんの問に
日本人は総中流の感覚を持っている
と答えたが、安倍さんはピケティを読んでいないし
読んでいたとしても認めないだろうなと感じる

この手の質問と答えが咬み合わないのは
数字に対する解釈や出てきた数字の出し方が
いいろいろありすぎて、それぞれが勝手に自分の都合の良い
数字を列挙するからだ
せめて議論するなら同じデータについて話してもらいたい

答えの中で安倍さんが一番燃えたように感じたのが
自衛隊の海外派遣の具体例のところ
しかし、集団的自衛権の解釈のホルムズ海峡のうんぬんで
原油が滞ることになれば、国家の存続に重大な危機であるから
解釈により発動は可能とするところは
正直なところ、やっぱり彼はこう考えるだろうな!
と思ってしまった(拡大解釈の連鎖が怖い)

現憲法は素人が4日間でつくったものに過ぎない
と言う安倍さんの以前の発言の意図を聴くと
その意図でなく事実を述べたまでと答える
しかし、その突き放した答弁は現憲法に対する
愛着のなさを感じたのは自分だけではないだろう

それにしても、なにかお互いに言いっぱなし
知的な議論がなされるかと思ったら
そういうものでもなかった
質問、答えの応酬があるのは委員会の方なのだろうか

ところで、先日の安部首相の施政方針演説
文字数にしても膨大なものだが
あれは誰が書いたものだろう
実際にワープロ、手書き(?)で、論点がダブったりしないように
簡潔にまとめる作業は誰が行ったのか
安部首相があれだけのものを一人でまとめるということは
現実には時間がかかるので、忙しい彼にはできないに違いない

とすると安倍氏の意向をくんだ誰かということになる
これも知っている人から見れば当たり前のことかもしれないが
気になる点だ

この施政方針演説には明治の人間にできて
今の人間に出来ないことはないとか
岩倉具視の言葉が出てきたが
(その他にもあと2か所位この手の話が登場するが)
歴史談話の総括をと言う前に
明治と言う時代の政治的な総括もしなきゃならないのではないか
あの第二次世界大戦に進んだのは明治の政治のシステム(雰囲気)に
押し流されてしまったからではないのか
つまり自分としては明治時代は文化的には急激な変化に
この国は対応したが、残念ながら政治的にはまずかったと思えてならない
その明治を目標に出されるのは、ちょっとどうかな
安倍さんは長州出身だから
と言われても仕方ない発想をしているのでは

やっぱり与党が圧倒的多数を確保してしまうと
緊張感なくてまずいことになるかもしれない
決められない政治もまずいが、勝手に暴走するのもまずい
だけか知的にチクリと刺すことはできないものだろうか



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新城市庁舎に関する住民投票を求める署名活動

2015年02月15日 18時35分17秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

中日新聞の三河版に最近よく取り上げられる
 新城市庁舎に関する住民投票を求める署名活動の問題

2月6日から10日までの極めて短い署名活動の第一弾
その署名活動と集計作業の手伝いを行ったが
署名数は新聞にもあるように期間が短かったにもかかわらず
予想を上まって6000位上(8000に届くとか)

この集計作業で感じることは、自筆で印鑑を押してまでの
行為の迫力
A4一枚に10名の署名が可能となっているが
単に一枚のA4の紙の上の記述に過ぎないが、
これが なかなか執念がこもっているように感じられて
普通とはなにか違うものを感じる

ところで、あれからいろいろ調べてみると
市役所の面積はいくつかの方法で決められるようだ
国土交通省や他の参考資料によるもの、そして簡単に言ってしまえば
市で決められるもの
新城市は最後の市で決められるものを選択している 
ちなみに国土交通省の方法を参考にすると、まずは職員の人数を出して
一人当たりに必要な面積×職員数という項目があるが
この職員の数が なかなか曲者、一般職員は1名は1名と計算するが
上級の職員は1名でも補正係数をかけることになる
例えば5倍とか、10倍とか
このことは上級の職員は一般職員の5倍や10倍の面積の
作業場所を確保してもいい事になる

上級は少しは偉いところを見せて区別したい気持ちは
分からないでもないが、作業面積をこんなふうに出されるのは
ちょっとどうなんだろう
もっとも新城市は関係ない話だが

ところで合併特例債というのがある
平成の大合併に合わせて捻出されたものだ
大雑把に言えば5%の頭金があれば、事業予算の70%は
国が払ってくれるというもの

今回もめているのは
合併特例債の期限が東北大震災の影響で延長された 
ことに始まる

新市庁舎を建てるのは問題はないが
最初は特例債の期限まで時間がなかったから
とりあえずやりましょうと言う結論を出したが
延長が決まったので、検討する時間はしっかりできたので
もう一度考えなおすほうがいいのでは
という極めて当たり前の発想

合併特例債は該当する事業だけに支払われる(70%)
つまり市庁舎本体の建築には支払われるが
関連する道路などには使われない
新市庁舎の予算は49億
これは道路も含んでいるので実際に国からの
補助は21億くらいになる可能性がある

この特例債はさてどんな風に支払われるかといえば
年々の交付金にプラスして支払われる
この期間が 10年だったか、25年だったか
ちょっと分からないがとにかく一括でもらえるわけではない

とすると、建設業者に対しての支払いは
国みたいにのんびりでいいことはないから
どこかの金融機関に借りてゼネコンに返すことになる

とすると金融機関に利子を払わなければならない
この利子を国は見てくれるのか
それともダメなのか
ここのところが何やら法律的なところがあるが
何しろ法律文は難しくて正直なところ分からない

ただ言えることは間違いなく借金は
人口減が進み愛知県家で唯一の生滅都市の可能性のある
新城市には大きな負担になるということ

さて話はもう少し戻って市役所の面積
自分たちで決める方法を選んだが
人口が50,000人台、そして作手・鳳来の機能も
新市庁舎に入ると言う 前提によっている
しかしその前提はふたつとも崩れている
将来の人口は30,000人台の予想、そして作手・鳳来の支所も
やはり地域にないと不便ということで
新市庁舎には入らない

つまり職員の数は予想よりも少ないというもの

ところでならば市議会議員は
どんな話を議会でしたのか?
といえば、これがとても内容のあるものとはいえない

新市庁舎がどうあるべきか?
この問題についてはその検討委員会が存在し話し合いが持たれたようだが
予算の話ではなく、どうのようなスペースが必要かを話し合ったとか

予算の制限のある中で、これこれのスペース・設備は必要との
話し合いではなく、単にあったらいいね!のレベルにすぎなかった
との意見もある
(もっとも、当事者に聞いたわけではいので、そんなレベルではなく
 まじめに検討したのかも知れない)

言えることは、これだけ大きな予算を使い将来の市民の生活に
直結するかもしれない問題にもかかわらず
何が話されたかが伝わっていないこと

知ろうとしない市民も問題があったのも事実かも知れないが
市民の代表の立場の議員さんは一体何をしたのだろう 

今回の署名活動とその署名数
議員さんはどうくらい身にしみて感じているのだろうか
これを平気でいられるのだろうか 

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チャーリー・モルデカイ 華麗なる名画の秘密

2015年02月15日 18時15分36秒 | 徒然なるままに

ジョニー・デップのファンでもないし
パイレーツ・オブ・カビリアンはまだ一度も見たことがない

しかし最近のマンネリの生活に少し不安を覚えて出かけたのが
そのジョニー・デップが主演の
チャーリー・モルデカイ 華麗なる名画の秘密」

火薬を湯水のように使ったり、車を派手に壊したりする映画は
辟易としていたし、ヒューマニズムの押し売りも少しつらい
そんなわけで選んんだのが、バカバカしいと思われそうな
この作品だったが、、、

こんなものかな、、
ちょっとがっかり
ただ、時間つぶしにはファーストショーの1100円なら我慢できるかも

道徳観もなく手当たり次第の成り行き任せだったが
印象としてはもう少し品が欲しかったかな
バカバカしくてもピンクパンサーのバカバカしさや余裕がほしい
初期の007も最近の何分おきのハラハラタイムとは違って
大人の 余裕があったが、そんなものが全体にこの作品にも欲しかった

内容のどんでん返しやオチは前回見た「誰よりも狙われた男」の方が
数段上
 
この作品は多分シリーズ化されない
ちょっと台本が弱すぎる
このくらいの内容なら邦画の「万能鑑定士Q」の方がマシなくらい 
ちょっとジョニー・デップの頑張りが可哀想な気さえした 

 

 

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読み終えるぞ!ピケティ『21世紀の資本」

2015年02月14日 19時00分52秒 | 

資料を除いて608ページ
現在464ページ読了(ページを捲った)
ということは半分は越したピケティの「21世紀の資本」

繰り返しになるが、案外読みやすい
確かに数字・グラフの解説は時に面倒だし
概念の定義付けの自分の理解ががあやふやで、
いちいち確かめるのが面倒で読み飛ばしていることも多いが
それでもここまできているということは
評判だけでない何か魅力があるせいだ

そのひとつは、ピケティがこの本を書くことになった
大きな理由である格差への抵抗感、怒りが
ところどころに生身の感情として見えるところにある

そして本の最初の部分にも書かれていたが
経済学が数学的処理とか数字の解釈だけでは済まない
もっと広範な知識を要する学問であるべき
と言う姿勢にも共感できるからだ

アメリカンドリームというが成功者の努力の
結果が単純に収入の格差となっているか
特に最近のアメリカでは大いに疑問

収入・資産に関する限り単純な努力の差
とは言い切れない部分がある

きっかけは画期的なモノの発明やサービスの開発であったとしても、
上位の人々の収入の劇的な増加を可能にしているのは資本が資本を
呼びこむという最近の傾向が大きい

大金持ちには有効な資産運用のアドバイスが行われ
長期にわたって安定した運用も可能で
これが結果的に資本がより多くの収入を生むことになる

相続の問題がある
単に相続を引き継いだ人がいるが、
相続した資産を上手く増やした人が現実には多いようだ

努力した結果として認められそうな創業者の高収入についても
ピケティはさらっと流しているが、こんな表現もしている

「資本収益はしばしば、本当に起業的な労働(経済発展には絶対必要な力)、
全くの運(たまたま適切な時機に、有益な資産を良い価格で買う)、
そして明白な窃盗の要素を分かちがたく結びつけたものだというのが実情だ」

とくに最後の部分は認めたくない部分かも知れないが、半か丁か
バレるかバレないか、ぎりぎりの判断をした人たちも少なくないのではないか
明治の財閥の方々はみんな正当な努力だけであれだけになったのか?
(広瀬隆の持丸長者を読むとそういった疑問が湧いてくる)
それでなくても、ある種の経営者は同様な経験をした人物を
見分けたり、共感したり、納得したりする
それは自分と同じ雰囲気を感じ取るからだ

例のごとく話はそれてしまったが、再びピケティの印象について
ピケティの数学的能力、経済学者的な能力だけでない
もっと広範な洞察力に富んだ、ある種のリベラルアーツ的な能力は
ヨーロッパ人のなせる技のような印象を持つ

少なくとも残念ながら日本には生まれない気がしてならない
専門バカも大事だが、それだけでは収まらない、
なにかもっと大きな思索を頭の中に持っている人
そうした人が出てきてくれないものだろうか

またまた、ピケティの話から離れてしまった
でも、世界に通用する知識人と言う人が
出てきてほしいものだ
(ノーベル賞受賞者にはテレビのワイドショウ的な扱いでなく
 彼らの生き様や哲学を聴くという機会が何故日本にはないのだろう)

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姪がiMacを手に入れた

2015年02月13日 21時03分58秒 | 徒然なるままに

コンピュータとしてのアップル製品
MacもiMacもマックブックシリーズも
劇的ではないが徐々に増えてきているようだ

先日姪の家もデスクトップのパソコンとして
iMacを手に入れた
何故iMacかといえば、彼女の兄に当たる
つまり自分にとっては甥のアドバイスが大きかった
甥は日常的にMac使っていたし
正月には甥と自分とでMacの使いやすさを
姪や姪の母、つまり自分の姉に
延々と話したことも影響したかもしれない 

しかし、その前からその素地はあった
家族でiPadをまずは購入、その後にガラ携からiPhoneに変更し
アップル製品に慣れていたのも抵抗感を少なくしたのかもしれない

さて購入後少しして訪ねてみると
どうやら姪も姉も大いに満足の様子
写真の管理が便利できれいなのと
アイチューンズが使いやすい
そして全体の高級な質感が大いに気に入っているようだ

使い勝手の質感もウインドウズよりは優っているが
マシン本体のデザイン的な質感は
おしゃれ好きな女性にも訴えるものがある

このiMacの購入を聞いたもう一人の姪(最初の姪の姉)は
自分もiMacが欲しくなったらしい
使い続けているマシンの交換時期にきているから
この機会に自分もと思ったらしいが
彼女は所帯持ち 予算の制限もあるので簡単には、、、

以前アンドロイドのスマホからiPhoneでの移行が多い
と報道されていたが
反対のiPhoneからアンドロイドはどうなのかを考えると
なかなかそちらにはいかないのでは!と思う

なぜなら人はなかなか生活のレベルを落とすのは苦痛だからだ
つまり一旦アップル製品の高級なおしゃれな質感を体験したものは
高機能だけが売りのさっと作ってしまい
どこかチープさが漂う製品には移りにくいということ

この感覚は案外馬鹿にできない
スペックだけで勝負の時代ではないのかもしれない
アップルはデザインが良いだけではない
使い安さを含めてのデザインが優れている

今回のiPhone6はバカ売れのようだが
このiPhoneとの相性が良いコンピュータはMac
そこで試しにウインドウズからMacに変える人も
姪のように増えている

その内の何%はアップルファンになる可能性がある
持っている人が賢そうにおしゃれに見えるアップル製品
アップルはiPhoneだけではないことを
普通の人も感じ始めているようだ




 

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大事なことは、自分の判断力を磨くこと

2015年02月11日 10時21分33秒 | あれこれ考えること

「シンドラーのリスト」と言う映画がある
昔その映画を見た時に思った2つのこと
ひとつは何故平気で人を殺すことができるのか?
そしてもうひとつは、何故ユダヤ人の人たちは
あの収容所で一気に立ち上がって抵抗しなかったのか
ということ

この後者の疑問は自分だけでなく
どうやら多くの人の疑問でもあったらしい 
そしてその研究も解釈も様々のようだ

実際のところ何が本当なのかはわからない
しかし、人はある状況下ではあのような状態を
受け入れてしまうという事実だけは存在する

例えば恐怖政治に一旦なってしまうと一人ひとりの不安は
極限となり、普通なら容易に思いつく人との連帯も
思いつかないのかもしれない

これは北朝鮮でも、またかつては ユーゴスラビアでも見られたこと
だが、これが遠くの国の話か、と言えばそうではないかもしれない雰囲気が
日本でも漂いつつあると感じるのは神経質すぎるか

非道なイスラム国のことを慮って考えることはない
この一言を大上段に掲げて
方法論として後藤さん救出の出来不出来を問うているのにも
かかわらず、政府を批判するのはイスラム国を支援している
というような強引な理屈を平気で口にする人

このへんてこな理屈に負けて
メディアすらも徐々に政府批判のトーンがダウンしている
そして世間はみんなと同じでいたいというこの国民の性格上
知らないうちにこの流れに流されていく

今の雰囲気は第二次世界大戦前野雰囲気に似ている
と言う人がいる 
そこまでは馬鹿ではないだろう 
これが普通の人の考える事

しかし、歴史から学べばドイツのナチスが政権をとった時
あれほどになると想像した人間がいただろうか
あんなものは直ぐに反対できる
そんな風に思っていたら、知らない間に引き返すことができなくなってしまった
ナチスの考えに反対するのは非国民、、、
そして悲惨な結末

自由は必要不可欠なこと
政権批判はできるうちは絶対しなくてはならない
(なにもかも反対というのではなく)
何も言えなくなる状態をつくらない
つくらせないということが
まともな社会のあり方ではないのか 

秘密保護法案、集団的自衛権、積極的平和主義、武器輸出三原則の解除、防衛費の増大、
憲法改憲、中国・韓国との仲違い状態
これらの動きを外国から見れば 、日本がどうの方向に向かっているか
それは明らかに危険な方に向かっていると判断されても仕方ない

一つ一つはそれぞれ理由のあることで、決められない政治であるよりは
ばさばさと決める政治が望ましい 
責任は私が、、、というものの、未だかつて政治家が責任をとった
と言う事実はあるだろうか 
政治家とは責任をとらない人の別名 
責任を負えない理由などいくらでも彼らは勝手に作り出す

我々市民は非力でも少しづつ賢くなっていくしか手はないのかもしれない
誰かにお任せしていた役割を、分かる範囲で少しづつ理解し
監視していく、そして一人ひとりが判断力を持てるような人となっていく

一人ひとりの判断力
誰かが指示してくれたり教えてくれたりではなく
自分自身で考え判断する能力、これこそ今の社会に必要なのではないか
と思ってしまう

最後の最後での判断を間違えないようにするには
人はリベラルアーツ、教養を身につけないと危ない
人の弱さ、ずるさ、偉大さ、名誉心、打算、嫉妬心、競争心、共感、
そうした全部をひっくるめた人間という存在を理解し得ないで
経済や現実の世界での結果を出すことに汲々としているだけの人は
果たして本当に信用できるのだろうか

我々は人を見る目を、まずは磨かなければならないのかもしれない 

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もう一度見たい映画「ロメオとジュリエット」と「それから」

2015年02月09日 20時48分37秒 | 徒然なるままに

歳を重ねると、昔のことは覚えているが
最近のことは覚えられないと言われる
それを実感している昨今だが、不意に思い出したことがある

1967年6月25日に世界で初めて実践された、通信衛星を使って31ヵ国で
同時放送された宇宙中継特別番組のこと
何を覚えているかといえば、その時16歳の女優ともう少し上の年齢の男優が
ロメオとジュリエットを撮影しているということ

それが これ

最近ではフィギアスケートで誰かが使っている音楽だけれど
ニーノ・ロータのなんという切ない曲だろう
「what is a youth  」この歌詞も素晴らしい
そしてジュリエット役のオリビア・ハッセーの初々しさ
アナと雪の女王で大騒ぎしている人たちにこの映画を見てもらいたい気がする

本当にオリビア・ハッセーはきれいだ
圧倒される

ところで、この映画がもう一度映上映されたら
ぜひとも 見に行きたいと思う

そしてもう一つ行きたいのが「それから」
藤谷美和子が本当にきれいだった 


結局、女優を見てみたいということか?
でも本当に素晴らしかった 
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フルトヴェングラーは何故ドイツに留まったか?

2015年02月08日 10時36分10秒 | あれこれ考えること

フルトヴェングラーって誰?
現在ではドイツでもそんな声が聞こえる
現に自分がハイデルベルクのフルトヴェングラーの
お墓を駅のインフォメーションで聞いた時も
若い女性は首をかしげるばかりだった

フルトヴェングラーはカラヤンの前の
ベルリン・フィルの指揮者と言えば一番わかり易い
そして日本の年末に取り上げられるベートーヴェンの
第9の一番のお薦め演奏者として名高い

この人は第2次世界大戦中、亡命するチャンスがあったにも関わらず
ドイツにとどまり続けた
それが間接的にナチに協力したと考えられ、戦後は裁判にかけられた
結果的には無罪となったが、彼がドイツにとどまり続けた理由を独断で想像してみた

 

フルトヴェングラーがドイツに留まった理由というのは、
悲しいくらい彼がドイツ人であったため。
ここで言うドイツ人とは、理性的、論理的でありながら心のなかに、
何かそうしたものだけでは理解し得ない世界があることを体の中に感じている人々のこと。
グリム童話や少年の魔法の角笛が、現実世界に欠くことのできないものとして存在するメンタリティの人々。
ゲーテやヘッセなどのビルドゥングスロマン(ファウストやガラス玉演戯のような)を
血肉として感じ留めることの出来る人。
そういう人々の中にこそ自分の芸術は理解されると感じていたのではないか。
ある時、彼(フルトヴェングラー)は

音楽家にとっては、やはり一つの故郷は必要なのだ

と述べている。そして有名な言葉で

音楽は何よりも共有体験でなければならない。
公衆のない音楽とは、存在不能でしょう。音楽は、聴衆と芸術家との間にある流動体です。
音楽は、構築物でも、抽象的発展でもなく、生きた人間の間に浮動する要素です。
そしてこの運動により意味をもつのです。

しかしこの公衆とは、彼は自分の育ったドイツ人の感性を前提にしていたのではないか。

確かに政治音痴であったことは、後に明らかにされるが、
彼の本質的なロマンティックな性質からは、後でとやかくいうのは少し酷な話。

 昔ドイツを訪れた時、まるで学者のような雰囲気の老人(普通の人だったらしい)が
ピアノを、まるで心を奪われたように演奏していたシーンがずっと頭に残っている
そう、ドイツ人はこういう人たちなんだと強く感じた
そういうドイツ人にこそ、自分の芸術は真に理解される
そう思ったのではないか

フルトヴェングラーの演奏は、音楽の演奏と言う行為が
何をなしうるかを考えさせる
単に心地よい時間の経過だけでは済まない何かがある
それは音楽体験以上のもの

そんな風に感じさせる彼は天才というか、
やはり特別な存在としてこの世に送り出されたと思うしかない

だが少し寂しいのは、ドイツでも彼の名が忘れられつつあるということ
日本でもドイツでも自国の偉大なものは、案外気がついていない
ということだろうか

 

 

 

 

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