パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

アマゾン(AI)では予想できないだろうな!

2019年01月16日 09時25分20秒 | Weblog

アマゾン(AI?)はとても賢くて、次に読みたくなる本をおすすめ本としてどんどん提示してくる
その一つ一つが的確で少しばかり悔しくなるが、参考になる面もある
先日こうした機能(AIによる)本の選択をしていると、考える癖、探す癖、
本との偶然の出会いを大切にする経験を失って自分が選んでいるにもかかわらず
実は何かにコントロールされているような状況になる危険性を説いていた記事があった

確かにアマゾン(AI)は賢いが、これは気づかないだろうな、、と思ったことがあった
山道ではないがお正月のウォーキングしていたときのこと
あれこれ連想が頭に浮かんで、自分自身と会話しているような状況になった時
急に夏目漱石の「草枕」の冒頭が思い浮かんだ
「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。智(ち)に働けば角(かど)が立つ。、、、、」
現実的な世間知だ。その先がどうだったか気になる
おまけに「草枕」はグレン・グールドが好きだったされているし、一体どんな内容なのだろうか、、

ということで、今度は近いうちに「草枕」を読んでみようという気になった
iPadの青空文庫にダウンロードしたが、どうもじっくり読むにはディスプレイ画面はしんどい
そこで図書館に行って借りることにした

読み始めると、少し驚いた
これがなかなか面白い
現実的な誰かと誰かの物語というのではなく、心象風景を語るようで、それが個人的な好みで
嬉しくなって、どんどん前に進むのがもったいなくなって、読めないでいることに満足感を
覚えるようになっていた(本当に良い本に出会うと、自分はこういう気持ちになることが多い)

で、アマゾン(AI)は予想できないだろうな、、という話につながるが
この本を読んでいて、次に読んでみようかな、、と思いついたのは
「こころ」とか「それから」とか「明暗」ではなく、
サルトルの「嘔吐」とかトーマス・マンの「魔の山」だった
アマゾン(AI)は自信たっぷりに前者の本たちをラインナップするだろうが
全く関係のなさそうな「嘔吐」とか「魔の山」はきっと提示しないだろう

「草枕」と「嘔吐」「魔の山」との関連性は、自分の頭の中では存在する
それは現実的な話ではなく、頭の中で起きていることをダラダラと書いている点だ
そう感じるのは自分の読書体験からくるもので、アマゾン(AI)にはこちらの内的な事情は
想像する手立てがない
だから「草枕」と「嘔吐」「魔の山」との関連性は結び付けられない(きっと)

しかしだからといって次に「嘔吐」や「魔の山」を実際に読むかといえば、
年齢的な気力の問題があって、そうはいかないかもしれないという気がしてくる

そのうちに、やっぱり「源氏物語」を読んどかなきゃいかんかな、、、との気持ちにもなってきた
これなんかもアマゾン(AI)は想像できないだろうな
人間様の気まぐれ、、、
脳のニューロンの微弱な電気のやり取りで何かを感じているのはわかっても
その具体的な内容まではわからない、、

ところで、改めて夏目漱石はすごいな、、と思ったのも事実
しかし脚注がないとわからない事が多くて閉口する
あの時代では普通に理解されていたのだとすると、、随分時代がかわったのか
それとも最近の人間の読解力が低下してきているのか、、、




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京都、太秦の広隆寺に行ったのは!

2019年01月15日 08時41分04秒 | 旅・旅行

運動したあとの筋肉痛が翌日以降に出るようになって久しいが
疲労感もその日のうちにではなく、翌日以降に出るものなのだろうか
昨日は何時になく疲れも感じずに歩けたと思ったが
今朝布団から出る時には随分疲れた、、という実感だけが身体に残っていた

昨日は、多分一年ぶりに京都に出かけた
普通はあまり目的地を決めず、京都駅についてから行き先を決める事が多いが
今回は最初から決めていた
行き先は太秦の広隆寺

最近世の中は、どういうわけか隣の国と仲良くするよりは貶したり下に見ることが多くなって
嫌韓とか嫌中という言葉が大きな顔をしている
だが昔はそんなことはなかったぞ!
そんなことを確認するために、このお寺さんに出かけた

京都太秦の広隆寺は渡来の秦氏と聖徳太子ゆかりのお寺さんで
日本書紀によると、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜りそれを御本尊として建立したとのこと
この御本尊が国宝第一号の弥勒菩薩でウルトラマンのモデルになったきれいな佇まいの仏像

門をくぐると京都の他の寺(禅寺)とは違ってどこか緊張感に欠けたぼんやりとした
おおらかな感じが境内に漂う
それは奈良のお寺さんで感じるなにかと似た感じ

この広隆寺は特に今年はもっと注意目されて良いお寺さん

上の写真の上宮王院太子殿は、本尊に聖徳太子像を祀っている(普段は非公開)
とても興味深い習わしがある
それは歴代天皇が即位大礼にご着用の黄櫨染御袍(こうろぜんごほう)の御束帯(ごそくたい)が即位後
増進されて各天皇御一代を通じてお召になるというもの
今までの天皇が即位の式典で着ていた服が30年間続いていたが、今年の新天皇即位以後は新しいものに変わるということ
これは毎年11月22日の聖徳太子御火焚祭に御開帳される
とパンフレットには書いてある

この事実自体がとても興味深いが、広隆寺といえば大半の人は「弥勒菩薩」に興味が集まる
新霊宝殿に展示されているのは、この弥勒菩薩だけでなく平安時代に作られた数多くの仏像も展示されている
その中で、今回広隆寺に来て見てみたかったのが「秦河勝」の像
この像は主役の弥勒菩薩像の向かって右横に奥さんの像と一緒に展示されている

実は広隆寺に来るのは三度目だ
一度目は弥勒菩薩を見るため
その時は、この弥勒菩薩像に感動した
まるでその像の周りに空気が、空気清浄機でろ過されているような、とても清浄な雰囲気に満ちて
それが不思議だった
(でもお顔の割に腕が細いなとか身体も細すぎないか、、という気がしたのも覚えている)

二度目(2013年)は、なぜ一度目はそんなに感動したのか、、と疑問を覚えた
眼の前にあるのは、とても美しいと世間の評価のある仏像、、としか響かなかった
そのかわりずっと印象に残ったのは隣の秦河勝の像
渡来の秦氏のトップにあたる人物で、異国の地で自分たちの部族の運命を自ら切り開くような
野心・気力・意気込みがにじみ出るような迫力に満ちて、「秦河勝」の名が忘れられないものとなった

この記憶があったからこそ、三度広隆寺に行ってもう一度秦河勝の像を見たいと思ったわけだ
やはり秦河勝の像は意志の力というか気力が全面に溢れているようで、後世の人々が
それなりの活躍や地位が得られたのは彼のおかげかも知れないと想像した

渡来の秦氏たちは、養蚕機織りや半島の先進文化を輸入することにつとめ、農耕・醸酒・など
に貢献した(農耕では伏見稲荷、醸酒では松尾大社にその足跡がある)
つまりは、当時の日本人は(聖徳太子も)渡来の方々ととても円滑な関係ができており、
違う国から来てるからといって、現在のネトウヨさんたちのように
それだけで人格すらも否定するようではなかった
(そもそもネトウヨさんたちはこうした歴史を知っているのか?)

この広隆寺の近くに蚕ノ社という木嶋神社がある


蚕という文字が使われているから養蚕に関係した神社で、秦氏と関係があることは容易に想像できるが
ここには、知ってると誰かに自慢してみたくなる珍しいものがある
それは三柱鳥居


だがとてもひっそりしていた(ひっそりしすぎ)

そもそも京都の太秦という字は、大きな秦と書く
それだけで秦氏との関係は尋常ではないと想像されるが、
この国の変な人達は、勢いだけがすごい誰かの本(百田氏の)を読んで嫌韓の思いを持ったり
自己満足に陥ったりするよりは、ちゃんとした歴史を学んでほしいとつくづく思う

ところで、京都のお楽しみはこうした真面目っぽい話だけではない
食べ物もお楽しみの一つ
正式なものは値段が張るので、手の届く範囲でささやかなお楽しみを
それが、お雑煮(錦市場の杵つきもち屋)

歩き疲れて糖分補給に虎屋一条店の虎屋菓寮のお菓子


スマホを確認したら昨日の歩行距離は12キロだった
昔は、これでも平気だったのに、、、
今日は骨休め、、かな

 

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駐車場

2019年01月13日 19時07分51秒 | 徒然なるままに

その時、情けなくて落ち込みそうになった

豊川稲荷に初詣に出かけた
車は駅前の市営の駐車場へ
入り口でスタッフの「3階で止めてください」とのアドバイスがあり
素直に従った(つもりだった)

エレベーターで降りると事前支払い機があったが
駐車券は車に置きっぱなし、帰りは出口でモタモタしそうだが仕方ない

さっさとお参りを済ませて、次の目的地に向かうためにエレベータで
3階の駐車スペースに
確かこのあたりのはずだったが、、、
ムム、、あれっ、見当たらない
そんなバカな  確か3階でと言われて従ったはず、、
落ち着いて見てみよう(駐車場を回ってみる)
、、しかし、見当たらないな、、
キーで解錠してもあたりは反応する気配は少しも感じられず
まさか盗まれるなんてことは、、、、無いよな、、
本当に見当たらない、、自分はどうかしてしまったのか、、、
そこで、情けなくなって落ち込みそうになったというわけだ

こうなったら、全階見回るしか無い
覚悟を決めて上の階に向かう
すると、あれっ、もしかしたら4階だったかもしれない
あのときも青空が見えていたような気がする
そうだ、確か屋上だった  まだ車も埋まっておらず、エレベーターの近くに止めた
そんな記憶が蘇ってきた
そして思い出したあたりへ行くと、何食わぬ顔で車は持ち主を待っていた

バカだな、上に空があってエレベーターも一番上(4階)から乗ったじゃないか
記憶が蘇ったのは良いが、すっかり覚えていなくて、覚えていたのは「3階で、、」の言葉だけで
すっかり3階に止めたつもりでいた

正直、ちょっとばかりショックだ
これからは、見分けのつかないような駐車場は、駐車位置をスマホで写真を撮っておかないと
いけないかもしれない
それにしても、、、、落ち込むな、、、

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嫌悪感を煽ってどうする!

2019年01月11日 14時59分58秒 | Weblog

たまたま目にしたテレビの昼のワイドショー
とても嫌な気分になった
元徴用工の件での日韓のゴタゴタを日本側サイドの視点で専門家(?)を交えて解説していた
それは1965年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決している
この二国間の協定は国際法的にも国内法よりも上位で、それ故
韓国の対応は常識はずれとのトーンで話していた

だが、韓国は日本はこの理屈で反論してくると容易に想像できるにもかかわらず
日韓請求権協定で個人の請求権は消滅していないとしている
これは何らかの根拠があってのことに違いないと思えるが
仮にそれがこじつけであったとしても、専門家は韓国がどういう理屈をつけてくるかを予想して
解説するのが冷静なテレビ番組と思えるのだが、公平・中立なテレビがなにやら嫌悪感を煽るような
放送を意図的か無意識的か行っているようにみえる

このあとの話題がまたいけない
中国の少しみっともない話だ
特急列車の中、指定席券を持っていない人物が寝転んで、本来の人間が座ろうとしても座れなくなり
警察が退くように言っても聞かずに揉めているという画面が何度も繰り返される

この2つの報道を続けてみると、知らず知らず韓国は理不尽でひどい、
中国は市民の程度が低いとの思いを視聴者にもたらすことにならないだろうか(嫌韓・嫌中に繋がりそうな)
最初の徴用工の話題は少し仕方がないとしても、中国のこの話題はわざわざ報道する必要があるのだろうか

反対に中国の報道で、日本で問題になっている煽り運転の動画や
新宿のチーズドックの食べかけのゴミを所構わず捨ててるところや
日本を代表する企業が不正なデータをあちらもこちらの出しているさまを報道したならば
日本という国は思ってたよりもひどいな、、、
との印象を与えるに違いない
要は、これらのニュースをわざわざ流す必然性があるかということ

あいつらはひどいと煽るよりも、どの国も同じだな(子どもに対する思いとか親に対する思いとか)と
感じさせるような報道のほうが、最近のギスギスした世界においては必要なんじゃないのか
テレビ局が近隣諸国への嫌悪感を煽るようなところは、戦前の新聞記事を連想させる
みんな「正気にもどれ!」と言いたい気分

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書き残した文章2

2019年01月11日 09時02分53秒 | あれこれ考えること

昨日の続き  書き残した文章  丸山真男から

近代生活の専門的分化とは機械化は人間をますます精神的に片輪にし、それだけ政治社会問題における無関心ないし無批判性が増大します。簡単にその重要な契機を例示しますと、まず技術的専門家に特有なニヒリズムがあげられます。おおよそ特殊分野のエキスパートに通有の心理として、自分の技術なり仕事なりを使ってくれさえすれば、それを使う政治的社会的な主体が何かということについては全く無関心で、いわば仕事のために仕事をする。毎日仕事に謀殺されるということそれ自体に生きる張りを感じる。これは単に自然科学の技術者に限らず、官庁とか大会社のような膨大な機構のなかで1つのデスクを持っている事務のエキスパートにも多分に見られる精神的傾向で、これが結果的にはいかなる悪しき社会的役割にも技術を役立て、いかなる反動的権力にも奉仕するということになりやすい。

現代政治の技術的複雑化からして、政治のことは政治の専門家でないと分からないから、そういう人に万事お任せするというパッシブな考え方が国民の間に発生しやすい。専門家に対する度を超えての無批判的信頼が近代人の特色の一つだとエーリッヒ・フロムも指摘していますが、これが政治の分野まで及んで、政治的無関心を増大させ、デモクラシーを内部から崩壊させていくのであります。一体、デモクラシーとは、素人が専門家を批判することの必要と意義を認めることの上に成立しているものであります。アリストテレスが「政治学」の中で、「家の住心地がいいかどうかを最終的に決めるのは建築技師ではなくその家の住人だ」ということを言っていますが、まさにこれが民主主義の根本の建前です。同じように料理がうまいかどうかを決めるのも、腕自慢のコックではなくて、それを食べる人です。どんなに最新の技術的知識をふるって作った料理でも、主人やお客さんがまずいと言えば、コックはその批判に従わなければなりません。「そんなはずはない。それはあなた方の嗜好のレヴェルが低いからだ」とか「文句があるならお前が作ってみろ」というような言い方は通りません。デモクラシーもその通りで、政策を立案したり実施したりするのは政治家や官僚でも、その当否を最終的に決めるのは、政策の影響を蒙る一般国民でなければならぬというのが健全なデモクラシーの精神です。

考えさせられる
若い人がこれらを読んだらどんな感想を持つんだろうか
「今の若いもんは、、」とロゼッタストーンに記された文句を、つい言いたくなってしまいそう

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書き残しておいた文章

2019年01月10日 09時40分45秒 | あれこれ考えること

本を読んでいて気になるところは付箋を貼って、あとでポイントを読みやすいようにしているが
時にはわざわざ書き起こし(書き残し)ておくこともある

今朝久しぶりに残しておいた文章を覗いてみた
どこからの抜粋か忘れてしまったが、多分保守についての本だったかと思うが
チェスタトンの気になる考察で、現実を踏まえてよく考えると納得できる

以下が抜粋

狂気については、〈狂気には一種異様な詩美があるとしたところで、それを味わうのにはこちらが正気でなければ始まらぬのだ〉と語られています。
その上で、〈想像は狂気を生みはしない。狂気を生むのは実は理性なのである〉という論理が示されています。
チェスタトンは、〈狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である〉
と述べています。なぜなら、〈狂気の最大にして見まごうかたなき兆候は、完璧の論理性と精神の偏狭とがかく結合していることにある〉
とか、〈狂人の最大の特徴が何であるかを見た。無限の理性と偏狭な常識との結合である〉などと考えられているからです。

チェスタトンは、正気を語ります。〈正気な人間ならみな知っている。自分の中には動物的な一面があり、悪魔的な一面があり、聖者の一面があり、
そして市民としての一面がある。いや、その男が本当に正気なら、自分の中には狂人の一面さえあることを知っているはずだ〉と。

少しニュアンスは違うが人は「人の不幸は蜜の味」の気持ちを持つ半面、災害にあった人に対し憐れみの涙を流しボランティアに出かけたりチャリティ募金を行う
こうした二面性を認めた上で、できることなら一般的に正しいとされる行為が表に出るようになりたいものだ

ところで、90万円が100%当たるくじと、100万円が90%の確率で当たるくじ、そのどちらを選ぶか、、という調査をすると
人は前者を圧倒的に選ぶ傾向にあるそうだ
数学上の期待値は同じなのだが、経済心理学的には同じものとは考えないらしい
原発の事故の確率は限りなく少ないとしても、無いことによる精神的な安心感(事故がないこと)との比較選択をしてみると
地震の度にいつもヒヤヒヤしているよりは、それから開放されたいと思うのも無理はない
これは数学的な理屈の問題と言うよりは、人はそのように選ぶ可能性があるということで
このような人の傾向を認めないことは、数学的には事故の確率はゼロと言い切り続ける人たちは
実はあまり科学的で無いということかもしれない

ついでもう一つ書き残しておいたものから
吉田繁晴氏のメールマガジン「ビジネス知識源」から

経済学は宗教ではありませんが、個人学説を奉じる点で形成された学派には、
「検証をせずに信じる」という宗教的な感じもあります。

経済や株価の動きは、二度とは同じことは繰り返さないので、実験をした検証ができない。
このため論理破綻がないことを「信じる」のです。

科学は、現象から発見される論理なので「信じる、信じない」という態度はない。
しかし経済学は、同じ条件での実験ができないため、信じるか信じないか、になります。

経済学の前提になっているもっとも重要な仮説は、「人は自由に、経済合理的な判断ができる」ということです。
行動経済学が、未来の予想(プロスペクト)については合理的ではないと、実験を通じ、これに反論しています。

これもなんとなく頷いてしまう
よく整理できていないが、ずっと頭の中に気になってることを取り上げてみた
(どうでもいいことかもしれないけど)


 

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まとまらない連想(行き着いた人間のあるべき姿はしんどそう)

2019年01月09日 08時34分51秒 | Weblog

本を読んでも自慢じゃないがすぐ忘れてしまう
そうならない方法は感想を述べあい、アウトプットすることらしい
なるほど確かに誰かに説明すると自ずと頭の中が整理されていく実感はある

最近手にした「欲望の資本主義」2 闇の力が目覚める時 のなかの
コーエン氏の章に「全員が芸術家のように生きなければならない社会の到来」というのがある
仕事を奪われる恐怖をもって迎えられているコンピュータ時代において代替えされないのは
非ルーティンワークだけで、求められる人間は自己責任のもと自己判断を行う
皆芸術家のようにならなければならないとされる
つまり常に自己改革をする人間たちというのだ(彼はこれを推奨しているわけじゃなく可能性を述べているだけだが)
しかし続いてフロイトの「芸術家のように生きるのは不可能だ。自分の人生を芸術家のような
人生にしてはいけない。なぜなら芸術家は不幸だからだ。芸術家はいつも創造性の欠如への恐怖にさらされている」
こんなことがサラッと書かれていたが、ここでいろいろ連想が羽ばたく

マズローの欲求の5段階説が頭に浮かんだ
人間は生理的欲求、安全の欲求・社会的欲求・承認の欲求・自己実現欲求へと段階的に
高次の欲求に上がっていくという仮説だ
これが仮に正しいとするならば、いろいろ問題はあるだろうが現在の社会は最後の段階
自己実現欲求の段階まで来つつあるのではないか、、とも考えられる

まだしっかり読んでないので間違っているかもしれないがハンナ・アーレントの「人間の条件」には
人間の行動を「労働・仕事・活動」の3つに区別し、高次なものはこのうちの「活動」とされている
(政治的な行動がそれに該当するとされている)
高次なものは必然個々の判断力に委ねられる

ここで問題なのは、人としての到達点の理想という形ではマズローとかハンナの言うような
ものが望ましいかもしれないが、果たして人はその責任の重さに耐えうるのかと言う点だ
フロイトの言うように、そのような生き方は不幸ではないか、、
との思いが自分にも思い浮かぶ

何もかも自分の責任においてすることができる(常識的な範囲内で)
それが理想的な姿
でも、全てが自分の責任の名で行い、失敗したらこれも全部自分が責任を負うとすれば
ひとはその重さを避けてしまいたいのではないか

自由を求めているが、思いっきり責任を伴うような判断はとてもかなわん
自由に何でもできるが、何をするのか自分で考えなくちゃならないのは面倒でかなわん
(リタイア組の時間の使い方など)
誰かが適度に指示してくれてそれに乗っかるほうが楽でいい、
庶民の感覚はこんなものではないかと横着者が板についている自分は思う
だからこそエーリッヒ・フロムは「自由からの逃走」という言葉を使い
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」では大審問官の登場となるわけだ

ただ、誰かに責任転嫁したい思いはナチスの行動を黙認、結果的に支持した行動につながる
これもまた事実

自己判断よりも本人に安心を与える世間のそれは、正しい判断をするか、それとも暴走するか、、
気になるところだが、最近なんとなくこの世間のバランスが悪くなっている気がしてならない
この不安はどこから来るのか、、、

資本主義は成長・自己改革を前提にした運動だが、人は案外「安定」昨日と違わない明日
を望んでいるのではないのか、、と思ってしまう

相変わらずのまとまらない話


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「ボヘミアン・ラプソディ」を見に行った

2019年01月08日 18時10分00秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

やっと「ボヘミアン・ラプソディ」を見に行った
ずっと前から気になっていたが、何故か気が進まずほったらかしになっていた
でもアカデミー賞候補のニュースを聞いて、やっと重い腰を上げることになった
(アカデミー賞候補だから行くというのは少し屈辱的な気分だが)

クイーンはアルバムを持っているわけじゃない
たった一枚ベスト盤を持っているだけ
CDのライナーノーツや歌詞は字が小さいのでほとんど読まず
音から感じるものを楽しむだけになっていた
中心人物のフレディ・マーキュリーが同性愛者でエイズで亡くなったことは知っていた

映画を見て(音楽を聴いて)クイーンはコーラスグループなのだと改めて実感した
あのビートルズも一種のコーラスグループなのかもしれない(ビコーズなどの楽曲はその例)
クイーンも音色が似た声でハモり方がとてもきれい
そして歌いやすそうな声を張り上げるメロディ(フレーズ)は思い切り気分爽快
ベスト盤で知った楽曲がこれでもかと流れるので映画は退屈するところがない

ストーリーは大まかに知っている彼の生き様をたどっている
最終的な結果を知っているので段々気が重くなっていく(同性愛とかエイズとか)
創造的な人間というものは何かと引き換えにその力を得ているのかもしれない
ふとそんなことが頭に浮かぶ
そして人は有頂天になるような経験をしたならば、天狗になってしまうのも致し方ない
とも思う(ただしそのしっぺ返しは食うことになるが)

フレディ・マーキュリーがパキスタン系の人物でゾロアスター教に則って葬式が行われた
というのは、まるっきりイギリス人だと思っていたので少しびっくりした
だが彼のベースのオペラなどの教養は裕福な家庭からのものだろう
(歌いやすく大声で張り上げるのはオペラの影響がありそう)

歌詞は気にして聴いていなかったので、今日初めてそれぞれの曲の意味を知った
映画のタイトルの「ボヘミアン・ラプソディ」はあの有名な曲からだが
その曲も冒頭の歌詞があんな意味(自らの死を感じさせる)ものだとは知らなかった
この映画はこの歌から逆算して作ったのだろう、、と確信をもった

ところで、記憶に残ったセリフがあった
わかりやすい英語で自分でも聞き取れた
「I decide who I am.」
これはひたすらカッコいい、、
(でも、しんどそう!と根性無しは思ってしまう)




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同じ話を聞いても捉え方は違うということ(リテラシイー能力の欠如?)

2019年01月06日 08時56分52秒 | あれこれ考えること

今年二冊目はこの本

生々しいタイトルだが想像していた内容とはだいぶイメージが違った
ここでは現場の記者さんの気持ち(功名心・闘争心)が印象に残り
期待した正義感とか報道のあり方への疑問などは際立って表に出ることはなかった
それゆえそれが現場の現実なのだろうとは想像できたのだが

自分の悪い癖だが、例のごとく本質とは関係ない部分が気になった
それは森友学園への私学審議会の記事のこと
認可適当となっている状態のこの学園を、この著者はインタビューから受けた印象では
最終的には「許可しない」もありうると(解釈し)報道した
それは、「今回の場合、慎重に検討を要する。その結果、認可を認めないこともありえます」
とおまけのように追加された委員会長の言葉からそのように解釈した
彼はそれを裏付けるべく取材を行い、自分の解釈に自信をもった
ところが世間の多くは、全く逆で「認可の方針」のトーンで報道された
これは「認可適当が出れば通常はその認可する」と最初の方で一般論を述べられたことに起因する

同じ会見を見て、受け取り方が違う
多くの人はナマのやり取りを見聞きできないので報道で事の次第を知る
まるっきり反対の報道がありえても、こういう時は数の力というか全体の雰囲気に社会は支配される
この場合は報じた数の多い「認可の方針」が社会の共通認識となりそうだった
(最終的は森友学園側が申請の取り下げをした)

この著者は「記者のリテラシーの欠如」と他の記者を切り捨てているが、
現実にはこうしたことが多く見られるのではないか
特に最近のメディアは「発表報道」に終止しており、手間のかかる「調査報道」がないがしろにされ
発表報道が円滑にいくような当事者間の人間関係づくりが重要視されているのではないか、、
そして人間関係づくりができてしまうと今度は人間関係を壊さないような特別の配慮(忖度)が
働くようになって、本音の報道できなくなっているのではないか、、、
と心配してしまう(田舎のおっさんが心配してもしょうがないが)

こうしてみると公平・中立、正確な報道などというものは世の中に存在しない
と考えるほうが現実的と思ってしまう

ところで今朝の中日新聞にこんな記事があった

先を急ぎ功名心を煽る報道合戦よりは、またある企業(スポンサー)の知らず知らずの束縛から抜けて
変に凝り固まった公平・中立・不偏を装うよりも自分の考えを明らかにし、、、云々
これらは外国のことではなく、国内も(国内こそ)求められると思うのだが

これらは、先の本を読んだ直後だから大いに納得する
それにしても、最近の報道、、いろんな意味で大丈夫かな、、

日曜の朝というのに、、面倒くさい話


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ボーッと連想に身を任せる心地よさ

2019年01月05日 08時22分49秒 | 徒然なるままに

昔はボーッとしてるのが得意だったし好きだった
(チコちゃんに叱られそうだが)
山を見て、海を見て、電車の車窓から流れる景色を見て
心に浮かんでは消えるよしなし事を、その勝手気ままな流れに任せて
何も考えずにただ感じるままに身を任せているのが心地よかった

いつの頃からかそれができなくなっていた
いつも何かに追われるように、何もしない無駄な時間は忌むべきもの
と考えるようになっていた
いや考えてはいない、ただボーッとした時間を費やすことはイライラするようになっていた

お正月の来るべき人たちが来る少し前
外は冷たいが日差しが柔らかななか、食べるほうは充実しているがエネルギー消費は
全くできていないので、正月太りが気になり少し歩いてみることにした

ダウンを着込んで、古くて色が禿げてるが歩きやすい靴で一時間位かかるコースを
目指して歩いた

目的がないと、なかなかそのリズムにはのれない
あたりの景色もいつも見ているもので新鮮味がなく、特に何かを連想させるものでもない
イマイチのれない気分のときに不意に「カー」とカラスの声がした
カラスの影が地面をすっと通り過ぎていく
その瞬間から神経は昔のボーッとしている時のモードになった
京都のお寺さんにいるときも、フルトヴェングラーのお墓にいたときもそうだったが
鳥の声は耳にとどくというよりはもっと内側のなにかに響くようで、それが連想の連鎖のきっかけになった

歩いていると耳に入るのは「シュッ、シュッ」というダウンのコートの擦れる音
定期的にリズミカルに歩くリズムを決めるかのようだ
すると頬に風が当たり、耳の横を風が過ぎる
冷たい風だ
この頬と耳元を通るすぎる風の音は何と表現したらいいのだろう
「ゴーッ」では違う
定番の「ビューン」でなんか違う気がする
それであれこれこの音の適切な表現を探してみたが、どれもどこか違う
仕方ない、この音を頬と耳元で感じて記憶していくしか無い

こんなふうに一人で歩くのが昔は好きだったな
昔元気な頃、山に向かったのは、達成感とか頂上からの景色とか、フッと過ぎていく風の心地よさというよりは
歩いているうちに段々余裕がなくなって、知らず知らずに自分との対話をするようになって
「自分が自分になっていく」感覚が好きだったからじゃないのかな、、
そんなことが頭に浮かぶ

歩いていると少し身体が暖かくなる
胸のあたりが少し痒くなる
運動で血液の循環が良くなって毛細血管まで血液が行き届いてるからだろうか
そんなことを勝手に決めつける

ダウンの擦れる音から今度は靴音が気になりだす
右足と左足の靴の音は少し違う
(片方は道筋を選び、片方はテンポを決めるような、、)
やっぱり人間は完全に左右対称とはいかないものだ

「おー久しぶり!」
地区の公民館の向こうからやってくる数人の中に懐かしい顔を見つけた
同級生だった
彼に家に子供のころ遊びに行って大騒ぎしてたら彼のお父さんに
「お父ちゃんは仕事してるじゃないか」
と怒られた記憶がよみがえる
と同時に同級生の顔を見て、彼は若くみえるのだろうか、それともそれなりなんだろうか
とすると、自分ではよくわからない自分の見られ方も、他人から見ると
このように見られるのだろうか、、、とガッカリするような、諦めるような、、、

あいさつだけで何かを話すこともなく一時間コースを黙々と続ける
また風が頬と耳元を通りすぎる
うっすら背中に汗を感じる
それまで気づかなかったことがまたもや目に入る
ある家のブロック塀の外に茂った何かの葉っぱが光っている
まるで水面の反射のようにいくつもキラキラと
あれは葉についた水滴が反射してるのだろうか、、
気になって通り過ぎるときよく見ると水滴なんかじゃなかった
単に葉っぱが光を反射してるだけだった

不意に学生時代の新緑の頃、自転車で学校に向かうとき葉っぱがキラキラして
きれいだな、、と訳のなく幸福感を感じたことを思い出した
これは至高体験(コリン・ウィルソンの本にあった言葉)のひとつだったかもしれない

約一時間の自分の時間は、携帯にはいった連絡で一気に現実世界に戻る
そこはちゃんとした起承転結のある世界
でも久しぶりのたったこれだけの勝手に浮かんだあれこれの連想のおかげで
何かとても充実した時間が送れたような気がしたのだった
ボーッと生きてんじゃねーよ!も事実だが
ボーッと連想に身を任すのもとても良いことのように思えてしまう




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