今朝、妻が録音のコーラスの音楽を聞いていた。これは7月6日にグループ「東雲コーラス」の60周年記念コンサートに備えての歌の復習のためである。ところが、それが時々は違った曲を歌っているのであろうが、どうも調子が同じようである。
それで、妻と話をした。どうも違った曲も同じような調子だねと。そうしたら、グループを指導している先生方の間でもそういう意見があるのだという。
ところが、歌の曲の選曲をする指導者の好みがどうしても出てくるのはしかたがない。そうすると、その方の好みが物悲しいメロディーの曲が仮に好きだとするとそういう選曲になってしまう。
それでか調子を変える必要を感じたのかどうかは知らないが、Aux Champs-Elyls'ees(オーシャンゼリゼー)が入っていた。それをフランス語と日本語のちゃんぽんで歌っている。それで、少し歌の感じ方が違ってくる。しかし、それにしてもなかなか全体の感じががらっと変っているかというとなかなかそうは言い難い。
この調子を変えるという点については、一寸した経験がある。義父が生前に彼の油絵の作品集を出版したことがある。たまたまこの担当だった印刷会社の方は私たちが彼の小さいときから知っていた、知り合いであった。
その彼は暗い色の絵の次にはできるだけ明るい色の絵を配置するようにとのアドバイスをくれた。これは同じような調子の絵が続くと重たい感じになるからだという。そしてそのアドバイスでいい画集ができたと思っていまでもこの担当だった、K君に感謝している。
ところで、これまでは他の人の話であるが、こういう話はすぐに自分のことにはね返ってくる。このブログは私がひとりでほぼ毎日書いているからである。どうしてもある個人の考えることは限りがあるから、その感性や思考は同じ色調になってくる。
それで、このブログの読者がいたとしていつも同じ調子で退屈(langweilig、ドイツ語)となってくるのは避けがたい。これをどのように回避するか。その方法など思いつくことなどできない。
そういうものである。そういえば、人間には二種類の人がいる。アイディア豊富で、学者であれば、論文数も多い方である。これは昔Boltzmannという学者の論文集が出ているのを見たことがあるが、その論文数はかなりの数であった。もちろんBoltzmannは歴史上に名が残るような大学者なのだから、当然とも言えるがそれにしても多作である。
一方、岡潔という数学者がおられて、彼は1930年代から、40年代にかけて、複素多変数関数論の三大難題を一人で解いてしまったという、大数学者である。だが、彼は論文数というだけだと12,3編くらいではなかろうか。だが、彼の論文は当時の同じ分野の優れた数学者が驚嘆したほどの偉大なものであったらしい。
だから本当にいい論文が書けるのなら、論文数など問題ではないのだ。しかし、Heisenbergなどはどうあっても一年に一編は論文を書くのだと言われており、その論文集は2冊本だったと記憶する。それくらい多作なのである。
しかし、これは論文数がどうだったかは知らないが、L. de Broglieの言葉だと
On n'a jamais qu'une seule grande id'ee dans sa vie. (オンナジャメ キューヌスールグランディデ ダンサヴィー)
といういい方もある。人には偉大なアイディアなどもてるのは人生に一つくらいものだという。しかし、こういうことを言えるL. de Broglieはすばらしい。