人が3人集まれば、東日本大震災の話である。
これは妻が聞いてきた話だが、あるところに女性が何人か集まった。そのとき東北では2週間以上も風呂に入れない被災者がいると聞いて、もし私の家に来れば、風呂に直ぐにでも入れてあげるのにというのが大方の反応であった。ところが、ある方は「2週間も風呂に入らないとは汚い」と言われた。それを聞いた私の妻の友人はとても憤慨してその話を妻にしてくれたらしい。
妻の友人の憤慨は普通の反応であろう。だが、それに対して妻はその友人をなだめて言ったという。「多分汚いといった方はとても今までとても幸せな方であって、困られたこともない方なのでしょう」と。
それで妻の友人が納得したかどうかはわからない。だが、想像以上に過酷な状況にいる人々のことを想像したり、思いやれるためには自分自身がそれまでにとてもつらい状況に置かれたことがあることが、私たちには必要なのである。
そういう言い方は尊大かもしれないが、私の妻も私もつらい状況を経験してきている。それでその結果として人の困難な状況を少しは思いやることができるようになった。だが、私たちがそのような経験をしていなかったなら、なかなか他人を思いやるとかまた他人の気持ちを忖度できるようなことはまったくできなかったろう。
だから、「汚いといった」方に対する反応には普通の人には「けしからん」と思うかもしれないが、そういう困難な状況に陥ったことのないとても幸せな方の発言だと理解できれば、ある意味ではその方の今までの幸せさにも思いがいく。しかし、そういうことまで理解の深みをもつことは凡人の私たちには難しい。