物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

はみだし

2012-07-05 12:59:42 | 学問

購読している、岩波書店のPR誌「図書」に津田篤太郎さんが「日本医学の開拓者」という題でエッセイを書いていて、その冒頭に鶴見俊輔さんの著書「はみだしについて」からつぎのような引用がされている。

『定義を覚えて、その定義にすっぽりはまる実例をひく。これは、学生として試験の答案を書くときには適切な方法である。

だが、学問を開拓するには、それは適切な方法ではない。』(引用終わり)

また、末尾にやはりその続きが引用されている。

『欧米の先生の定義に合う実例をさがして書く答案がそのまま学問の進歩であるという信仰が、右左をこえていまも日本の知識人にはある。そこから離れる方向に、私たちはいつ出発できるのか。』(引用終わり)

これを読んでもちろん鶴見さんの主張は正しいと思うのだが、それ以前のことがあるように感じた。

それはものごとを正しく理解することは難しいということである。もちろん、日本を代表する知性である、鶴見さんには難しくはないのかもしれないが、一般には難しいことである。

私はこの実例という語を読んで、すぐに思い出したのは、数学の書を読んでよくわからなかったときに、故 I 先生から「実例を考えたらいいですよ」と言われたことである。だが、そういう場合に限っていうならば、とても例を考えることなどできはしなかった。

また、これは友人の数学者Nさんなどもいつも言われることだが、実例の大切さは本当にその数学の意味がわかれば、実例をあげることができるはずだという。実は実例をあげることができないならば、まだその事柄を十分には理解していないという。

この「実例を考えなさい」とか、「実例を挙げなさい」というアドバイスはかなり普遍的に数学を勉強する人々に与えられるらしい。そして場合によってはこの例を考えることによって、それを抽象化すれば大きな理論となる場合もある。

数学者もはじめから抽象的には考えていない。あるモデルを考えてその性質を探り、それを抽象化して論文を書いているらしい。

これは私は数学者ではないので、らしいとしかいえない。数学者で自分の思考の手の内を明かす人は少ないからである。

ただ、鶴見さんもいうように実例そのものを挙げることは理解に役立つとしても、また試験の答案としてはいいとしてもそこで終われば、新しい学問ではない。さらに踏み込んでいく必要がある。


ブログは心のヌードか

2012-07-04 12:40:48 | 日記・エッセイ・コラム

毎日続けてブログを書いていると自分で思ったこととか考えたことを大抵いつかは書くようになる。

ということで他人の心の底をちょっと覗くような気がするのであろう。そんな個人的な心情を知ることなど嫌だと思う人はブログを読まないし、そのブログの著者の心の底を知ることに関心のある人は読者になるかもしれない。

それをブログの著者の「心のヌード」と仮に名づけておこう。それを知られることが嫌だと思うなら、ブログなど書くことを止めればいい。

そういうご注意を密かに頂くこともないわけではないが、私は人間などどこかに書くことを読んだくらいでは分からないものだと思っている。

いかにも尊大な言い方で申し訳がないが、別に「尊大に」思っているわけではない。論理として書けることなど多寡が知れているというのが私の考えである。

心理学に行動心理学とかいう分野があって、その深層の心理などはわからないから、人の見掛けの行動だけを論じようという考えだったと思う。

これは何十年も前に必要があって、心理学のそのころの動向を調べたときに、知った知識であり、もう古い話だから心理学のテーマはもうそういうところにはないかもしれない。

それくらい、人というものは奥深く測り難いものだと思っている。これは私が別に奥深い、考え深い人間だからというわけではなくて誰でもそうなのだ。

ただ、何らかの意見や考えを表明する人はしない人よりはある程度その人の人柄や考えとかがわかるというところはある。

私は気難しい方ではないので、別に他人がどう思ってもあまり気にはならない。


TED カンファランス 6

2012-07-03 12:02:20 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜は月曜であったので、NHKでのプレゼンの紹介である、TEDカンファランスを見た。

その話はネット上にツイッターなりブログなり、写真だとか動画が登録されている現状では個人の情報や意見の発信状況が大量に記録されているから、それの分析もできるようになり、その発信をした人が亡くなった後でもその意見を忖度して発信を続けることが可能になるだろうという。

そのときには肉体的にはその方は死亡していてもその方の意見表明は続けて行うことが可能になるかもしれないという。そのときの個人の死とはなんだろうかというような内容だったと思う。

もちろん、現在ではまだその個人の情報や意見の発信状況の分析はそれほど上手にはできないので過渡期であるという。だが、コンピュータの能力が飛躍的に上がってくれば、このプレゼンをしたジャナリストの言うことに近づいてくる可能性はある。

だが、私自身は彼の意見にあまり賛成ではない。というのは人間というものは少しづつ生きていくうちに学ぶものであるが、死んだ後でもそのようなことが可能なのであろうか。いくら分析をしたところでそのような創造的なことができるとは思えない。

生きている生身の人間のおもしろさはなんといっても、この創造性とか人間の発展性ではないのか。それも論理的な帰結としての発展ではなくて、論理の飛躍とも思われるような。それが可能だろうか。私はむしろ否定的である。

だが、この思考実験はとてもおもしろい。私にしても1800回近くのブログを書いた。実はまだ20数回ブログを書かないと1800回に届かないが、それでもその1800回はもう射程に入っている。その過去の分析から創造的なことが出て来ないとは確かに言い切れない。

とそんなとりとめもないことを考えた、昨夜であった。


寝ござ

2012-07-02 12:13:41 | 日記・エッセイ・コラム

数日前に寝ござを妻が買って来てくれた。ここ数年は寝ござなど使ったことがなかったが、今年は電力不足が言われているから、そういうこともあって昔のものも見直しされている。

これは日本の夏を少しでも過ごしやすくするという工夫の一つであろうか。たしかに布団にそのまま寝ているよりも涼しく感じる。

そういえば、昔の日本の夏はとても暑かったし、梅雨などもひどくじめじめしたが感があり、嫌だった。

ところが道路の舗装が普及して雨が上がれば、地面はそれほどじめじめしていない。これは道路の舗装が普及したお陰である。(この舗装は都市が砂漠化しているといわれる原因の一つでもあるが)。

私が中学生くらいまでは、ひょっとすると高校生でも雨用の長靴が必須のアイテムだった。だが、現在は市中の道路に舗装が行き届いているので、雨靴は必要ではない。

私の家庭に雨靴が必要なのは5月に近所の水路の清掃をするときに長靴で水路に入って泥を上げたりするためである。だから長靴の必要性は一年に一回だけ。

文化的生活ということでいえば、私はいまではどの家にでもある網戸を一番に挙げたい。この網戸のお陰で私たちは多くのハイとか蚊に悩まされることがなくなった。

だから、昔の家庭に必ずあった蚊帳がいらなくなり、そのために、日本の夏のあの暑ぐるしさから少しだけ免れている。そういうことはほとんど語られることもないが、私たちが忘れてはならないことであろう。

それに家庭用の浄化槽の普及と都市の下水の完備と共に家庭に水洗のトイレが一般化して、ハイが大量に減少して、とても健康的になった。昔の家庭では食卓のまわりを本当に多くのハイがぶんぶんと飛び回っていた。あれでは食卓に置かれた食物だって、衛生的であるはずがない。

ああいう光景は昔の小津安二郎の映画を見たって、感じ取ることは難しいと思う。そこらへんがその時代を経験してきた人と、その後に生まれた人との基本的な感覚の違いを形成しているのではないだろうか。

これはもちろん、後から生まれた人たちの幸せを意味している。もっとも現在の原発が現代の人々の幸せを意味しているとは到底いえないが。