物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

Windmillsをつくった人

2013-04-16 10:18:34 | 科学・技術

昨夜のTEDカンファランスの話をする。アフリカのマライ出身の若者が自分の故郷にWindmillsをつくった。

マライがあるとき旱魃におちいり飢餓に瀕したが、Kamkwabaは、そのときに通っていた中学校にも行くことができなくなった。それで、彼は図書館に行ってアメリカの中学校の教科書を読んで、風車をつくることにして、廃棄物置き場に出かけてそこから廃物の中から使えそうなものを拾ってきて、風車をつくり、発電をした。

家に電球が灯り、また地下水をくみ上げることができるようになった。水があれば、旱魃を回避することができる。こういう経験を語った。

彼の講演題目はHow I harnessed the Wind という。harnessとは「利用する」という意味らしいが、初めて知った言葉である。

もう一人はインド出身のIngawaleの講演であり、これは女性の貧血症を血を採血することなしに診断するという、比較的安価な装置の発明をした人である。

彼はもともとアメリカの大学で学んでいたが、それまで高価な装置でしか貧血症を診断できなかったのを安価な装置ですることができるようになれば、女性が出産のときに出血して赤ちゃんもお母さん本人も命を落とすようなことはなくだろうだろうと予想している。

彼の発明は光を指にあてて、その指を透過した光の様子から血液に酸素が少ないとかいうことを診断する。このことは高度の科学技術的な知見をもとにしている。この学問をphotoplethysgraphyというと伊藤穣一さんは言っていた。この語は私の持っている辞書には載っていない。


最近のブログの反響

2013-04-16 09:49:17 | インポート

先日「北朝鮮は戦争をしたがっているか」という題でブログを書いた。そうしたら、昨日までで28のアクセスがあった。

私自身も1回くらいはアクセスしているとは思うが、自分の書いたブログだから何回もはアクセスをしてはいない。

ということはこのブログのようなマイナーなブログにしてはアクセス回数が多かったことになる。これは最近の北朝鮮の情勢はテレビとか新聞で報道されている、現在の情勢にみんなの関心があることを示しているのだろうと思う。

武貞秀士さんのリマークを少しでも広めることができたのなら、幸いである。要するに本気で戦争するつもりなら、石油を備蓄するはずだという物理的な指摘はマスコミに踊らされて危機感を感じている人の心を少しでも落ち着かせることができたであろうか。

国防の観点からはどの国も一瞬の油断も禁物であろうけれども。


クリーンエネルギーを検証する

2013-04-15 11:00:16 | 物理学

ムラ―教授の白熱バークレイ講義(第2回)はおもしろいものであった。

彼はいろいろなクリーンエネルギーを検証するが、太陽光エネルギーはあまり有望なものとは考えない。それがどうしてだったかはあまりはっきり覚えていないのだが、結論はそうである。

これはインフラコストの問題であったろう。送電網が太陽光エネルギーを送電するのに都合よくはできておらず、その送電網をつくるのにインフラコストがとてもかかるということだったと思う。

風力発電は有望であるが、なかなか適地がすくない。洋上と僻地というか人里離れた地方とが適地である。

ムラ―さんが一番有望というのはネガワットという要するにエネルギー効率を向上させた、省エネ機器の開発である。要するにエネルギーのロスが大幅になくなれば、結局のところそれは大きな発電所をいつもつくることに相当している。この可能性が一番あるという。

たとえば、建物の屋根の上に赤外線を反射する塗料を塗るだけでも大いにエアコンの駆動に使うエネルギーを省くことができるという。

また、家の外壁と内壁の間に断熱材を入れるだけでエアコンとか冷暖房の費用とエネルギーを減らすことができる。

電気自動車は電気料はガソリンよりも単価が安いが、結局バッテリーの交換が問題であるという。バッテリーが高くて、500回くらいの充電をすることができるだけで、それ以上は現在の技術では無理だという。そこがネックである。

車の燃費を上げることはまだ可能であろうという。現在21km/lくらいは可能だという。これが30km/lくらいはまだできるのではないかと予想している。

波力は波の高さが1mくらいで電力を得ることができるが、装置のコストとメンテナンスの費用が問題だという。潮力発電もありるというが、あまり干満の差がアメリカでは大きくないので有望ではない。フランスでは干満の差が8mであるので、有望である(注)。

バイオの燃料の可能性はある。トウモロコシは実の部分しか使えていないのでダメだが、サトウキビは可能性が大いにある。植物のセルロースの部分を利用できるようになれば、可能性はもっと開けるが、現在はまだ利用できてはいない。人間や動物ではこのセルロースの部分も利用ができているので、将来は利用できるようになるのであろう。

核融合はいまもまだ未来のエネルギーである。レーザー核融合とかTokamakというロシアで開発されている方法が有望であるが、現在は入力の方が出力よりも大きいのでこれからの問題であろう。

地熱はアメリカでは有用ではない。日本とかなら有望であろう。これは基本的に地下深いところでの放射性元素の崩壊による崩壊熱を使うことにないのだという。

石油に代わる代替エネルギーの最大の候補は天然ガスだとムラーさんはいう。天然ガスからも炭酸ガスが出るが、石油ほどは出ないという。

以上の細かいところでは私のノートが間違っているかもしれないが、おおよそのところは正しいであろう。

燃料電池の話は出て来なかったが、燃料電池は水素を燃やすことになる。水素吸蔵合金の研究をしていた私の友人の物理の研究者もいたが、さてあまり現在の見通しはよくないということであろうか。

(注) 北海沿岸は遠浅の海岸であり、干満の差が大きい。このことはこのブログでも何回か触れたことがある(ドイツ語で遠浅の海岸を-s Wattenmeerという)。

フランスのブルターニュにある小島ル モンサン・ミッシェル(le Mont-Saint-Michel)では海岸の潮が引くと何キロも平らな海底が現れ、馬車でもそこで行けるぐらいだが、その潮の満ちてくる速さは馬が駆けてくるぐらいの速さだと聞いたことがある(今では橋がかかっており、歩いていけるそうだ)。

その8~10mの潮の干満が毎日2回あるのだから、北海沿岸は潮力発電には適しているのだろう。だが、こういう地の利のあるところは少ない。

東日本の大地震で10mを越える津波が起き、被害が大きかったことは誰でも周知の事実だが、北海沿岸ではこの8~10mの潮の干満が毎日起こるのだから、大変なのだとドイツ人のR氏がいつも言っている。


3次元プリンター

2013-04-15 10:40:44 | 科学・技術

昨夜、夜遅くNHKの教育テレビを見ていたら、3次元プリンターというのを紹介していた。

これを見て、妻がひどく感心をしていた。これからは3次元プリンターがあれば、いろいろなものをつくれるということである。プラスティックの製品もあれば、金属製のものもつくれる。

設計図があれば、なんでもつくれる。現在まで金属を切削してつくっていたものも切削する必要はなく、ある意味で経済的である。

金属か何かでつくる製品でも応力がどこにかかるかを調べたところ力のかかっていないところがあることがわかった(注)。そうだとするとその力のかかっていないところには金属とかプラスティックの材料がそこにある必要がない。

ということでそこをなくした構造物をつくればよい。ところが切削で構造物をつくるときには切り取った部分は不要物である。ところが3次元プリンターによれば、そういう不要のところをはじめからない、構造物をつくれば、軽量だし、強度はまったく変わらない。

そういうものが3次元プリンターで可能になるということである。

(注) 金属構成物とかのどこに力がかかるかということは機械工学の分野の問題であろう。そういう分析をすることができるようになっているらしい。これは実測で調べるということもあるのだろうが、有限要素法とか境界要素法で金属構成物等にかかる、応力を推定する方法が確立をしているのであろう。

話はまったく別だが、原子力発電の反対論者として有名な田中三彦氏は若い時に原子炉の格納容器にかかる、応力を有限要素法で計算してその容器をつくる技術者であった。そして形が規格にあっていなかったときに、会社の要求で再度温度をあげて成形をするという仕事をしていた。

彼はそういう仕事に疑問を感じて反原発論者となった。書名を忘れたが、彼の著した岩波新書を参照せよ。


北朝鮮は戦争をしたがっているか

2013-04-13 13:34:30 | 国際・政治

木曜だったかのNHKのニュースをちらっと見ていたら、武貞さんという、北朝鮮の政治の専門家から話を聞いていたが、北朝鮮が他国に対してたとえ「戦争が勃発しても知らないぞ」と世界に警告を発しているにもかかわらず石油等の備蓄には精を出していないということをこの専門家は述べていた。

戦争を自らが起こすときには最低半年分の石油を備蓄するのが普通だという。それを行わないときには戦争を起こす準備が十分にはできていないとみなされるという。

誰も戦争が起こってほしいとは思っていないが、それでも最近の北朝鮮当局の危機発言では今にも戦争を起こしそうに聞こえる。だが、それは多分に間違いだろうという。こういう戦争を起こすためにはやはり物理的な準備が必要である。

それに一度アメリカをミサイルで攻撃でもしたら、そのときは朝鮮人民共和国の滅亡を覚悟しなければならない。その覚悟まであるかといえば、そこまで北朝鮮の指導者たちは無分別ではあるまい。

もっともミサイルの発射や核爆弾の実験等はありうるという。

日本が1941年にアメリカと戦争を始めたときにもアメリカの歴史家などはそれほど日本の政治家が無分別だとは思わなかったという。だから、戦争を始めるのは簡単だが、それをどう終結するのか。その結末を予想しないで戦争を始める政治家は政治家の名に値しない。

いずれにしても戦争を始めることがいいことでないことは言うまでもないが、それにしてもなかなか先が読めないときであることは間違いがない。

いつもテレビでドラマを見たり、または映画館で映画を見たりするとき、面白く話を展開させるのはできるが、それをどう終わりにつなげるのかが難しいのではと思いながら見ている。


Kembleの量子力学

2013-04-12 12:39:59 | 物理学

Kembleはアメリカの物理学者であった。彼の量子力学の本"The Fundamental Principles of Quantum Mechanics"を古本で手に入れた。これはDover版の1958年発行のものである。

このKembleの量子力学についてはWKB近似との関係でこのブログにも触れたことがある。そのときはまさか自分がこのKembleの本を購入するとまでは思っていなかった。

その後、Bohmの量子論の本を見ていたら、WKB近似が成り立つ条件を詳しく議論しているらしいことがわかった。それから2週間ほどしてアマゾンで探してみたら、ハードカバーでは1万円くらいの値がついていたが、ペーパーバンドでは3000円くらいであった。

その直後に神田の明倫館のサイトを見たら、1500円の値段だったので購入することにした。それが今日届いた。

大学の研究室の図書にこのKembleの書があるのを見ていたので、その通りの書であった。外観とかはあまりよくはないが、仕方があるまい。本文を読むには支障がなさそうである。

Kembleの本は古いもの(初版1937年で、私が生まれるよりも前)であるから、始めて量子力学をこれで学ぶのはあまり勧められないとアマゾンの書評にあった。それは本当であろう。

だが、昔は量子力学の本は少なかったので、多分ポーリング=ウィルソンの量子力学の書と共に貴重なものであったに違いない。


仕事を進めるとき

2013-04-11 13:32:29 | 日記・エッセイ・コラム

しなければならない仕事があるとき、その中に面倒なこととそれほど面倒ではないことがあったとする。そのときどちらを先にするか。これはその人びとによって違うだろう。

私は簡単な仕事から取りかかることにしている。これは少しでも済ませた仕事があると、ある種の達成感をもって仕事を進めることができると考えるからである。最後に面倒で困難な仕事が残ることになるかもしれないが、それでも部分的にやり遂げた仕事があるという達成感がいくらか後押しをしてくれる。

それが一番困難な仕事をはじめにもってくると、なかなか仕事の全体が進まず、あせってくる。それよりはやさしくて取り組みやすい仕事にしろ、それらがすでにできあがっていれば、困難な仕事をするときになかなかその達成に時間がかかってもいくらか気を楽にする。

結局のところ、仕事全体を仕上げるのに要する全体の時間はそれほど違わないかもしれないが、やはりやさしい仕事からしていく方が少しづつの達成感をもちながらであるので心理的もいい。

もう亡くなった方のことで悪いが、朝永振一郎先生が名著「量子力学I」、「II」(みすず書房)の続編の「III」を書こうとしたときに、一番面倒であった、量子力学の形式的で数学的な分野の勉強されたと聞いているが、朝永先生には他のところはもうなんてこともなかったので、一番面倒でご自分の関心があったところを優先されたのであろう。

だが、面倒なところを優先して片付けようとする、心意気は私のような凡人が真似をすることはできない。やはり卓越した人はいつでも核心に迫ろうとするからこそ、その卓越さがあるのであろう。

結局、「量子力学III」は出版されなかったが、朝永先生の死後になって、「量子力学III」に対応した、「角運動量とスピン」(みすず書房)が発行された。


綴りが同じだが

2013-04-11 11:00:18 | 外国語

またまた外国語ネタですみません。綴りが同じだがまったく意味の違うことばを一つ、二つ書いてみよう。

hierと書くとドイツ語を知っている人はヒーアと発音し、「ここ」という意味だと知っている。これは英語のhereに対応している。ところが、これはフランス語ならイェールと発音し、「昨日」の意味である。

もう一つはonである。これは英語を学んだ人なら、だれでも知っている前置詞であり、「上に」とか「上へ」とかを意味する。発音はオンである。

ところがフランス語ではonは前置詞ではなく、代名詞であり、Comment dit on こんにちは en francais ?などと言われたときにOn dit bonjourなどという。あえて訳せば「人は」とでもなろうが、普通は日本語では訳さない言葉である。発音はフランス語でもオンである。

ドイツ語ではこのonと同じ役割をする語にはmanという語がある。Wie sagt man こんにちはauf Deutsch ? とたずねられれば、Man sagt Guten Tagなどと答えればOKである。このときのmanはあえて訳せば、「人は」とでもなろうが、やはり日本語では訳さないのが普通である。

他にもそういうものがあると思うが、たまたま思いついた語はこれだけである。とかいうことは前にも書いた気がする。


不思議に思っていること

2013-04-10 14:24:24 | 日記・エッセイ・コラム

私のブログの一番の読者は私である。だが、それも他の読者の方がブログを読んでくださっていることから触発されてである。

というのは、どういうブログが読まれたかを私は知ることができるが(ちなみに何方が読まれたのかは知ることができないので、ご安心ください)、それによってその読まれたブログを私がもう一度読んで言い足りなかったところを書き換えたり、論点の整理とかをいつもしている。だから私が自分のブログの一番の読者であると思っている。

それは別に不思議なことではないのだが、12時を過ぎて真夜中にも読んでくださる方が居られるのが不思議である。

いつだったか、アメリカの大学で物理学を学んでおられる大学院生の方から数学・物理通信を送ってほしいという要望を頂いたことがあるので、ひょっとしたら外国で生活をしている方で私のブログを読まれている方が居られるのかもしれない。

だが、それにしても意外にも真夜中に日本語で書かれたブログを読まれる方はどういう方なのであろう。それも夜中の1時ころならば、私の感覚ではまだわかるが、3時とか4時に読まれる方が居られるのが理解できない。

いや別に何時に読んで頂いても私はかまわないのだが、そういう時間に「まだ」か「もう」かはわからないが起きていて、ブログを読まれる方の生活はどうなっているのであろう。

だが、それは私の不思議に思うことであって、読者の方がブログを読んで私の疑問に答えてくださる必要はまったくない。


生きていくことの意味

2013-04-10 11:00:54 | 日記・エッセイ・コラム

「生きていくことの意味問いかけるその度に」という言葉ではじまる「命の歌」という歌がある。

歌はコーラスでよく歌われるので、少しづつ私の耳にもなじんできている。歌の曲自身には文句をいうつもりはないが、「生きていくことの意味」など問いかけるという言葉が嫌いである。人生何年生きてもその意味などわかるものではない。

私自身はそういう問いかけをすることが嫌いであるというか、間違っていると思っている。人生そんな問いかけをする暇があったら、もっとまっとうなことをした方がいいとまで考えている。

これは新々宗教にはまった人たちに往々にして見られる問いかけだからである。そういういくら考えても答えがわからないことを問いかけるべきではない。これが私の考えである。

そういうことを言うと哲学者は反対するかもしれないが、大体そういうことしか問題にしない哲学者ならそういう哲学者はいらない。私はそう思っている。また現に尊敬できる哲学者はそういう議論しても回答のないことのみ議論しているわけではないと思っている。

命の歌に戻れば、「大事なことは目に見えない」とか何とかいう節がある。そのことには異論がないが、これなどサンテクジュペリの「星の王子様」に出てくる言葉を思い出させてしまう。

もちろん、出典がどこであろうと歌にしてかまわないのだが、2番煎じだと思う。


自著短評紹介

2013-04-09 16:18:59 | 本と雑誌

「日本理学書総目録」が日本理学書総目録刊行会というところから出版されている。

この2013年版を最近大学の生協書籍部でもらってきた。昨日、用があったので、この目録を眺めていたら、私の著書「物理数学散歩」の紹介が2行くらい出ていた。

それによると、『柔軟な思考で物理数学の難問を解いた実例を紹介。「単振動の合成」、「立体角」など17テーマ』とあった。

私は自分が柔軟な思考の持ち主だなどと思ったことは一度もないが、どなたがこういう文章を書かれたのであろうか。

別に難問を解いた覚えもないが、多くの人が不思議に思っているであろうようなことや自分が分かりにくく思ったことのいくつかを取り上げたにすぎない。もっともそういう疑問もどうせ世の中の賢明な方々にはすでにご存じのことばかりであったに違いない。

だが、それはそういうきわめて優秀な人の近くにいる人のみがその知恵とか知識を無意識のうちに受け継いでいるのだろう。だから、そういった知識の一部を一般に公開することは教育として意味があると思っている。

私は物わかりの悪い方で、数学とか物理の概念でもなかなか人が簡単にわかることがわからない。それとわかり方として、自分が納得できるわかり方がしたいという欲求がつよい。

もっともこの年になってくると、物わかりの悪さも自分の個性だといい方に勝手に思えるようになってきた。


もちろん

2013-04-09 12:52:07 | 外国語

「もちろん」とドイツ語で言いたいときどういうか。その言い方のいくつかをここで述べてみたい。

普通にはよくnat"urlich(ナチューアリッヒ)というだろうが、そのほかにselbstverst"andlich(ゼルプストフェアシュテントリッヒ)とか、klar(クラア)とか言うだろう。

klarとかselbstverst"andlichには言うまでもないというか、当然というニューアンスがありそうである。

いつだったかfreilich(フライリッヒ)というのもドイツ語のクラスで私が毎回つくっている要約につけたら、これはあまり言わないとR氏から注意を受けた。

はっきりしないが、少なくとも口語としては使われないというようなことを言われた。もしかしたら、文語としてはあるかもしれないけれどといったようなリマークであったように思う。

いま三省堂のクラウン独和辞典を引いてみたら、ドイツ南部で強い肯定のときに「もちろん」という意味で使うとあったが、R氏はドイツ南部の出身ではないのでこのfreilichには違和感を感じたのかもしれない。

ついでにフランス語で「もちろん」とどう言うか。私にはnaturellment(ナチュレルマン)ぐらいしか思いつかない。他の言い方もいろいろあるのだろうが。

ということで手元の和仏辞典を引いてみたら、evidemment(エビデマン)とかcertainement(セルテヌマン)とかもあった。なるほど、なるほど(en effet)。

evidemmentは「明らかなように」というニューアンスだし、certainementは「確かに」というニューアンスがある。


Fiasko,Risiko, Manko

2013-04-08 13:04:26 | 外国語

Fiasko,Risiko, Manko(フィアスコ、リジコー、マンコー)とはそれぞれ失敗、リスク、欠損(赤字)等の意味のドイツ語であるが、これはもちろん元はイタリア語である。

oで終わる名詞はイタリア語では男性名詞のはずだが、ドイツ語では中性名詞となっている。

フランス語からドイツ語として使われる語は多いのだが、イタリア語から来たドイツ語をあまり知らない。上に挙げた3つの語はその典型であろう。

Fiaskoはイタリア語ではfiascoと綴られる。また、Risikoはrischioと綴られるらしい。この発音はわからないが、リスキィオと発音するのだろうか。

最後のMankoは対応するのはmancanzaであろうか。この発音はわからないが、マンカンサであろうか。イタリア語に詳しい方に教えてもらいたい。

これはいつかも書いたと思うが、壊れたとかいう意味でkaputtという語がドイツ語にあるが、このkaputtという語もなかなか発音上で印象に残る語であった。

これは別にカナでカプートと表せば、ちょっとおかしい。カタカナで発音をひとまずカプットとして表すとしても、最後のトから母音のオを除いた感じの発音である。

1997年に久しぶりにドイツへ2週間ほど旅行したときにフランクフルトのホテルの1室でテレビを見ていたら、何の問題を議論していたのかわからなかったが、pauschal(パウシャール)という語を政治家がテレビの議論で使っていた。

その語はまったく知らなかったので、あわてて持って行った辞書を引いてみたことがあった。

いま独和辞典を引いてみると、「総括的な」とか「合算で」とかいう意味である。Pauschalreiseとは日本語のパッケージツアの意味だと辞書にあった。

なかなかドイツ語を聞き取るのは難しい。


心療内科

2013-04-08 11:31:06 | 健康・病気

昨日、松山市来住の愛媛医療生協の新病院の内覧会があった。私は医療生協に関係しているわけではないが、妻が関係している。

そして新病院を見学に来た人たちが、特に心療内科に大いに関心を示したという話を夕食のときにしてくれた。

これは自分の身内に精神的な病気にかかる人が多くなっているためではないだろうかと推測を述べていた。

精神病院ではいまでも鉄格子の入った病院があるそうだが、だんだんとそういう病院はすくなくなりつつあるという。だが、依然として鉄格子の入った精神病院も多いという。

そのせいかどうかわからないが、心療内科が関心を集めているらしい。

それで思い出したのだが、1968年に歴史家の羽仁五郎が「都市の論理」(勁草書房)を出すことになった契機は実は神経精神学会の分科会か何からの、講演依頼から始まった。

その問題意識はつぎのようであった。精神科の医師としてはうつ病にしろ統合失調症にしろ精神病は大抵治すことができる。

ところが社会に帰るとその治った患者がまた精神病を再発させる。このことを実は病気を見ている心ある精神科医師たちはこれは個人の問題というより社会の方に問題があるのではなかろうかと考えた。

そういう問題意識から羽仁五郎に講演依頼をしたという次第であった。そういういきさつから、この特別講演のあとに、引き続いて学習会が長期にわたって行われ、その学習会の羽仁五郎の講演記録の校正刷がその学習会の世話人であった、武谷三男のところに回ってきた。

そしてそれを武谷が整理をし、それが「都市の論理」という本にまとめられ、出版されてベストセラーとなった。羽仁五郎が後年語っているところでは、武谷の原稿整理がよかったとのことである。

その1968年から20年ほどして、ソヴィエト型の社会主義が破綻した。現在は1968年と比べてもますますストレスの多い社会となっており、私の見るところではますます住み心地の悪い社会となっている。そしてそれを是正するという社会運動はほとんど行われてはいない。

これでは人々が精神病をますます病むことになるだろうし、せっかく精神病が治って社会復帰できたとしてもまたぞろ再発するのがオチであろう。神経精神学会が羽仁五郎を呼んで講演を聞かざるを得ないと判断した状況はますます一般的になっている。

こういう政治状況が許されるのはおかしいが、残念ながら許されてしまっている。私はこの状況に絶望をしているわけではないが、別に楽観しているわけでもない。

心療内科に関心を持たれたのはこういう状況が社会の底流にあると思う。そのことを世の中の多くの人々は意識的には気がついてはいないのかもしれないが、無意識には気づいているのであろう。


大統領のための物理学

2013-04-06 11:52:39 | 物理学

昨夜、坂本龍一「スコラ:音楽の学校」が11時からあるかと思って、教育テレビをつけたら、それがなくてその代わりに「バークレイ白熱講義」というカルフォルニア大学バークレイ校のムラーという物理の教授の5回の講義の第1回であった。

ムラー先生はいう。エネルギーは大事だ。もし君たちの誰かがアメリカの大統領になったときにエネルギーの定義は知らなくてもいいが、いくつかの数字を知っていて、とるべき政策が荒唐無稽のものでないかを判断できるようにしておくべきである。

これにはびっくりしたが、考えてみるとムラー先生の言われる通りである。ムラーさんはいう。いかにアメリカ大統領であっても、まず法を守らなければならない。それよりも前に物理の法則には従わらざるを得ない。物理の法則はいかなる権力者でもそれに反することは絶対にできないのだから。

そういう意識が必ず大統領といえども持つべきだというのはやはり見識である。1GWの電力を太陽光で賄うには1km^{2}の面積が最低必要であるということを知っていたある女学生が核融合の物理専門家を遣り込めるエピソードをムラーさんは話していた。

これはアメリカ全土の電力を賄うには40GWの電力が必要だが、これを太陽光のパネルで賄うにはアメリカ全土にパネルを敷いても電力を賄えないといったことに反論したらしい。

この数値は私の記憶であり、間違っているかもしれないが、要点はアメリカ全土にパネルを敷かなくても、損失とか効率とかを無視すれば、40GWの電力を賄うことはできるということである。

車でそれを太陽光のパネルをその屋根に載せて動かすのはなかなかである。そういうソラーカーのレースがオーストラリアとかアフリカで行われたとか聞いたことがあるが、あまりスピードは上げることができない。

だが、それは太陽光のパネルによる発電が意味をなさないということではない。さらに将来のエネルギーについての学生の予想をさせていたりした。この代替エネルギーの話はどうも第2回のテーマとなるらしい。

ともかく、このムラーさんの観点はなかなか私などは持ったことがないものであった。ムラーさんは本も書いているらしいので、どなたかが訳してくれて、それが手に入れて、日本でも読むことができるようになる日もそれほど先ではないかもしれない。