物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

『物理数学散歩』の不評

2013-04-05 11:30:57 | 物理学

私の著書である、『物理数学散歩』(国土社)がほとんど売れなかった。2011年4月に出版して今が2013年4月であるが、わずか50部しか売れなかった。

それも大学の図書館で20冊購入されたことが分かっているので、一般の人は30部しか購入してくれなかった。

これは数式が満載であるということを抜きにしてもやはり気落ちするような事実である。定価は1,260 円であるので、高価なわけでは決してない。

前著『数学散歩』の方はそれでも250部くらいは売れたと思うので、今回の焦点を絞って理工系の学生を対象にした出版はまったく失敗だったことになる。

どうも『物理数学散歩』というタイトルがよくなかったのか。いずれにしても私が思っていたような人はほとんどいなかったということになる。

私にしても、もし若い学生の時にこのような本が出版されていたとして、購入したかどうか。それはわからない。

もっとも不評であったことが、即ち価値がないということではないと信じている。

(2019.4. 26  注)古本で5,000円とか10,000円の値がついているのを見ると、だれか貴重な本だと思ってくれている人が少数だが、いることは確かである。だが、こんな値がつくと誰だって買えないであろう。

(2019.11.18 付記) 古本で5,000円などと値がついたら、そんな本を買うことなどできないのは、当然である。

(2020.2.29付記) 古本で29,000円の高値がついているとかコメントいただいたことがあるが、これは著者の本意ではないので、下のコメントに留意されてもし読みたい方にはまだ残部がありますので、コメントに意向をお教えください。

読んでみたい方には『物理数学散歩』は著者割引で、送料込みで1,000円でお分けできます。コメントにご連絡ください。一万円のミスプリントではありません。



花に嵐のたとえ

2013-04-04 11:03:38 | 日記・エッセイ・コラム

今朝の朝日新聞の天声人語に中国のある漢詩の翻訳ととして「有名な」井伏鱒二氏の名訳と言われる、「花に嵐のたとえもあるぞ、別れだけが人生だ」というのが紹介されていた。

ところがこの「たとえ」がわからなかった。辞書を引いてみると「たとえ」の項の説明ではなんだかわからなかったが、「たとえる」を見てようやく分かった。

「たとえる」は「ある事柄・物をわかりやすく説明するため、また、事物を生き生きと形容するために、それに似かよった物事を引き合いにだす」とある。

そう言われてみれば、そういう使い方をすると思うが、ちょっと「たとえ」という語が私には分からなかったのは事実である。

「花に嵐のたとえもあるぞ、別れだけが人生だ」はあまりに人口に膾炙されていて、それが井伏鱒二の漢詩の名訳だということも知らなかった。

そういうことが話題になるのも現在が桜がそろそろ散る時期であるからだろう。松山では昨日の天気はそれほど風が強いということもなかったので、石手川の桜もまだそれほどは散ってはいない。

昨年もそうだったように、いくらか早く桜が咲いたが、温度がそれほどは上がって来てはいないために、桜が例年よりは長持ちしている。

そういえば、いつの間にか街路樹に黄緑の芽とか葉が出ていることに気がついた。冬の間はまるで枯れたかのように沈黙と忍耐を重ねていた木々はようやくその忍耐の衣を破った。


The magic washing machine

2013-04-03 11:31:43 | 日記・エッセイ・コラム

相変わらず、TEDカンファランスの話である。今週の月曜の11時からのTEDカンファランスの放送ではまたまたHans Rosslingが出てきた。彼は1948年生まれのスェ―デン人の公衆衛生学者だという。

それだと私よりは9歳ほど年下であるが、なかなかものの見方が独特である。先回の彼の登場のときはビッグデータを処理してそれによって、世界の人口の増加についての話をされた。

今回は洗濯機を使える人はという話であり、その独特の観点が面白かった。

現在の世界の人口は70億人という。そのうちで飛行機を使える人は10億人だという。それに反して一日2ドル以下で生活をしている人は20億人だという。残りの40億人はそれほど一日2ドル以下で生活しているほど貧困ではない。だが、どのくらい貧困かがあまり明確にはならない。

そこで、Rosslingは洗濯機を使えるかどうかで人類を分けてみることにした。それによると洗濯機を使える人は20億人だという。残りの50億人は洗濯機を使う環境にはない。

洗濯機を使えるためには電気と水が使えなくてはならない。特に上水道が必要であろう。文明国では上水道が使えないことは想像できないが、発展途上国では上水道が使えないことは普通のことであろう。

Rosslingの話ではスェ―デンで車に乗らない学生はいるが、洗濯機を使わない学生は誰もいないという。

また、彼の子どもときに彼の家に洗濯機が入ったときには彼のおばあさんが自分に洗濯機のスイッチを入れさえてくれと彼の母に頼んだという。それくらい画期的なことだったらしい。

それは彼が4歳の時だったというから、1952年のことになり、日本の私の経験からしてもかなり早い段階ではないだろうか。私の家で洗濯機が使われるようになったのはいつだったか覚えていないが、もう少し後の1950年代の後半ではなかったろうか。

これは日本の家庭に一般に洗濯機が入ったよりも遅れていたと思うので、それは私の家の経済状態が普通の家よりも少し悪かったことを示している。

そして、この洗濯機は女性の労働を大きく軽減した。妻は昔の女性にとっては洗濯をすることが一日の主な仕事だったと言っている。だから、洗濯機の導入は世界の女性の重労働からの解放であったことになる。

もっとも文明国でなければ、水を運ぶのが大変な重労働であり、水をどうやって手に入れるかが問題であろう。

先日のBunker Royによれば、水と電気をどう確保するかということであったが、インドのRoyの関係している村では水を洗濯に使えているであろうか。

そういうことで考えると世界中で普通に上、下水道が普通に使えるようになるまでにはまだまだ発展の可能性があるともいえるだろう。もっとも世界のどこへ行っても水が普通に使えるようになるのは人類の大変な事業だと思う。


わからないことを大事に!

2013-04-02 11:31:45 | 学問

現在具体的にわからないと思っていることもあるが、今日の話はそういう具体的なわからないことを指していない。

数日前に書棚をいろいろ探しているときに江沢洋先生の著書「力学」(日本評論社)を見つけた。

これは前に出版社から贈って頂いたが、それをしばし開いて序言をちらっと読んだら、洋先生が「わからないことを大切にせよ」と書かれていることを発見した。

最近、なんでもわからないことを困ったことのようにいう言う人が多いが、そうではないと書かれている。私なども物わかりの悪い方で、なんでもなかなか理解できない。

わからないことを自分でわかることはとても貴重な経験をその人に与えるという。

私などもいつもわからないことを抱えている。それらはいつかはわかることもあるが、なかなかわからないこともある。

いまはWKB近似に関してわからないことがある。もちろん、最近このWKB近似に関して分かるようになったこともあるが、また新たなわからないことも出て来ている。それを何とか論理的に納得できるような形にまとめて文章にしたい。

これは実は私のというよりは数学・物理通信に投稿を頂いたMさんの意図であるが、それを少し拡大したいと思っている。


花見

2013-04-01 12:56:14 | 日記・エッセイ・コラム

土曜日にパソコンを仕事場までとりに来て、自宅に持ち帰り、夜になってつないだ。

その前に夕方5時過ぎに、桜が満開だから花見を少ししようと妻が言うので、道後から石手寺の方に回り、それから11号線で重信川まで足を延ばし、しばし桜の花を楽しんだ。

夕方近くになっていたせいか、思ったほど人は出ておらず、車も思ったほどではなかった。まだなかなか寒くて花見という気分にならないのだろうか。

それでも花は満開であり、そろそろちらほらと花弁が散っていた。そのしばしの時間が私の今年の花見のすべてであった。アルコールもなにもない、ある意味で侘しい花見である。

私などは世捨て人みたいなものだから、それがあっているだろう。妻などはまだ4月に入ってからの花見をいくつか計画しているようだが、4月8日ころまで花がもってくれるだろうか。