このブログが世の中のブログの主流とはほど遠い、自他共に認める「変なブログ」であることは5月14日の記事で取り上げた通りである。読む側からすると、なにが出てくるか分からない、振幅の大きさに当惑し、書き手の意図の在処がつかめない。密林の中へ迷い込んだようだとの感想もいただいた。その通りだと思う。
しかし、記事を書いている本人はそう感じていないのだから始末が悪いかも知れない。書いてみたいことは溢れるほどあるのだが、時間その他の制約であきらめることも多い。そのうちに忘れてしまうこともある。ブログは備忘録代わりのようなところも多少はある。 書くという行為を通して、雑然とした思考がわずかでも整理されるメリットもある。その間にも月日は経過し、気づいてみると量だけはかなりのものとなっている。とても、不思議な感じだ。
記事の内容は、ブログの特徴といわれる読みやすさ、柔らかさ、迅速性、面白さなどもほとんど欠いている。本人だけが知っていればよいトピックスも多い。しかし、不思議なことに世の中には、数は少ないが同じようなことを考えている人々もいないわけではないことが分かる。そうした人々に出会えることは大変嬉しいし、ブログをなんとか続ける力となってきた。
記事を書き続ける力の源泉には、自分の人生では果たせない別の世界をヴィジュアルに実現できるところにもある。このブログを始めた時には予想しなかったほど入り込んでしまった美術の世界もその一つである。
戦後、「文化」という文字に飢えていたような時代に、博物館員を含めて、できればやってみたいと思った仕事がいくつかあった。結局はまったく違った職業に就くことになったが、心のどこかに残像のように消えずに残っていた。それがなにかのきっかけで、顔を出してくる。 記事を読んでくれた友人の一人が、「随分のめりこんでいるなあ」と評した部分が明らかにある。他方、本人にはこの際少し探索してみるかという思いがある。そういう探索過程の楽しさは、本業の比ではないのだから始末が悪い。