Jan Six (1618-1700)
Ca.1654
Oil on canvas
112 x 102 cm, Bredius 276
Six Collection, Amsterdam
ラ・トゥールの関連から、レンブラントについて予想外にのめりこんで記している。話題の映画の影響もある。ところが『日本経済新聞』が毎日曜に連載を始めた「光の旅」シリーズも、前回のラ・トゥールに続き、今週(2月10日)はレンブラントを取り上げている。平行して走っているような不思議な感じがしてくる。カラバッジョ→ラ・トゥール→レンブラント(ローマ→ナンシー→アムステルダム)と北方への道を旅してくると、なんとなく企画の概略が見えてくるような感じになる。この次は、もちろんお決まりですね。
今回の新聞紙面で取り上げられているレンブラントの作品には、「ヤン・シックスの肖像」、「夜警」、「愚かな金持ちの譬え」などがある。とりわけ、最初の作品は、外部の展覧会などで公開されることがほとんどない大変貴重な作品だ。シックスは裕福で教養も深く、詩も書き、レンブラントの長年にわたるパトロンの一人であり、後にアムステルダムの市長にもなった人物である。レンブラントが財政的に破綻する最後まで物心両面の支援をしていたといわれる。シックスがくつろいだ姿で窓辺で書類を読んでいる立ち姿の銅版画も、その面影を伝えるよく知られている一枚である。
レンブラント《ヤン・シックスの肖像》
The Portrait of Jan Six
1647
342 x 194 mm, etching.
それと比較すると、今回とりあげられている「シックスの肖像」は、油彩ではるかにフォーマルな作品である。肖像画としても赤、白、金色などが使われ、地味な背景にコントラストが大変美しい。そして、この作品で目を引くのは、シックスの手袋である。場所はレンブラントの工房の入り口近くか。彼は工房へ入ろうとして手袋を脱ごうとしているのか、工房を出て手袋を付けようとしているのか。私にはなんとなく後者に見える。
この作品は、1642年の「夜警」の完成、サスキアの死去の後、画家の人気が下り坂に入った1654年頃に制作された。その前年、レンブラントの財政的破綻は決定的になり、自分の作品を担保に、シックスを含む友人数人に援助を求めている。最後まで自分を支えてきてくれた友人に、借金を依頼するという局面に追い込まれたレンブラントの精神的な「別れ」の心情を手袋に感じてしまう。後にシックスも債権者の側に立たざるをえなかった。
そういえば、「夜警」でも、バニング・コック隊長の手袋は、作品を読むひとつの鍵でしたね。いまや映画の題材にまでなったこの大作「夜警」は、その後、毀誉褒貶ただならぬ過程を歩み、世界的名画としての座を確保してきた。この「名画」への道の紆余曲折は、それなりに大変興味深い。
1875年7月に、フランスの風景画家でアカデミー審査員でもあるフロマンタンがオランダ、ベルギーの美術館などを訪ね歩き、「夜警」についてきわめて長い印象を記している*。お読みいただくと分かるが、やや冗長であり、画像などのイメージの助けなく、この作品を批評することがいかに大変であるかということの見本のようでもある。しかし、一人の画家、美術評論家の目に、この大作がいかに映ったかを知るに、きわめて興味深い論評である。その中に次のような一節がある:
《夜警》はほとんど理解しがたい作品と見做されている。そして、この見方の是非はともかくとして、《夜警》の絶大な名声の一部はまさにこのことに由来する。ここ2世紀というもの、この作品の長所を吟味するのではなく意味を解明しようとするのが人々の習慣になっており、これをことさらに難解な絵と思いたがるのが人々の癖になっているが、もしそういうことがなければ、たぶんこの絵はこれほど世間を騒がせはしなかったであろう。 (フロマンタン、邦訳 pp.120-121)
フロマンタンはさらに次のようにも記している。
光は彼を虜にし、支配した。彼に霊感を与えて崇高の域にまで到達させ、不可能事をすらなさしめた。が、ときに彼を裏切りもしたのである。 (邦訳 p.156)
フロマンタンの観察は、「夜警」についての現代的関心からは離れているが、19世紀末におけるレンブラントについての評価という意味で大変興味深い。
「夜警」はさまざまな議論の材料を提供することで、自らの存在を主張し、「名画」への道をたどってきたといえるかもしれない。謎を含んだその道はまだ終わったわけではないのだが。
「光の旅 (3)レンブラント」『日本経済新聞』2008年2月10日
* フロマンタン著(高橋裕子訳)『オランダ・ベルギー絵画旅行』(下)岩波文庫、1992年